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肥薩おれんじ鉄道への旅
肥薩おれんじ鉄道は熊本県八代市から鹿児島県薩摩川内市を28駅で結ぶ鉄道です。
肥薩おれんじ鉄道の路線図
肥薩おれんじ鉄道株式会社について
肥薩おれんじ鉄道株式会社は、平成14年10月31日、熊本県と鹿児島県それに沿線の10市町等(当時)が出資して設立した、第三セクター鉄道会社です。熊本地方の旧国名『肥後』の頭文字「肥」と、鹿児島地方の『薩摩』の「薩」をとり、それに路線が取っている地域の特産である「おれんじ」を合わせて『肥薩おれんじ』と名付けられました。
- 社名:肥薩おれんじ鉄道株式会社
- 英文社名:Hisatsu Orange Railway Co.,Ltd
- 設立年月日:平成14年10月31日
- 本社:〒866-0831 熊本県八代市萩原町1丁目1番1号
- TEL:(0965)32-5678(代表:総務部)
- FAX:(0965)32-5411
- 経営主体:熊本・鹿児島両県及び沿線市町等が出資する第三セクター鉄道会社
- 資本金:授権資本金 21億2千万円
- 開業日:平成16年3月13日
- 経営区間:八代駅~川内駅間(ただし、熊本駅・鹿児島中央駅までの一部乗り出し)
- 営業キロ:116.9km
- 車両:ディーゼル車両19両(内訳:一般車両17両、イベント兼用型車両2両)
- 定員:一般車両117名(座席46名)、イベント兼用型車両105名(座席37名)
- 運転方法:基本は1両ワンマン運転(最大3両編成)
- 走行速度:最速95km/h
- 駅数:28駅
- 有人駅:10(八代・日奈久温泉・肥後田浦・佐敷・水俣・出水・西出水・野田郷・阿久根・川内)
- 無人駅:18(肥後高田・肥後二見・上田浦・たのうら御立岬公園・海浦・湯浦・津奈木・新水俣・袋・米ノ津・高尾野・折口・牛ノ浜・薩摩大川・西方・薩摩高城・草道・上川内)
肥薩おれんじ鉄道の全駅を訪ねて
八代駅
<ここからの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「八代駅」を素材として二次利用しています> 八代駅(やつしろえき)は、熊本県八代市萩原町一丁目にある、九州旅客鉄道(JR九州)・日本貨物鉄道(JR貨物)・肥薩おれんじ鉄道の駅である[1]。 概要 熊本県南部の主要都市である八代市の中心駅である。 当駅を経由する全旅客列車が停車する。普通列車は当駅始発・終着が主であるが、当駅を跨いで肥薩線・人吉駅と鹿児島本線・熊本駅を結ぶ区間に特急列車、快速列車及び臨時列車「SL人吉」が運行されている。2016年3月26日のダイヤ改正以降は肥薩線・吉松駅発着の「いさぶろう・しんぺい」(1往復)が熊本駅まで延伸運行されるようになり、当駅に停車するようになった。さらに肥薩線からの普通列車のうち朝の1本は鹿児島本線に乗り入れ新八代駅まで運行されるほか、肥薩おれんじ鉄道線からの列車も、一部の普通列車や観光列車「おれんじ食堂」が新八代駅まで、土曜・休日運行の快速「スーパーおれんじ」は熊本駅まで乗り入れる。 2016年3月26日のダイヤ改正で「九州横断特急」の区間短縮(熊本 – 人吉駅間の廃止)及び特急「くまがわ」が廃止され、一般車両による快速列車への格下げがなされた[5]。いずれの特急列車も肥薩線と鹿児島本線を直通するもので、廃止前は「くまがわ」は熊本駅まで、「九州横断特急」は熊本駅からさらに豊肥本線に乗り入れて別府駅まで結んでいた。同特急の廃止後は当駅発着の優等列車の設定が消滅していたが、2017年3月4日ダイヤ改正で「D&S列車」第11弾として、熊本 – 人吉間に特急「かわせみ やませみ」が3往復新設されたほか、熊本 – 吉松間を結ぶ快速「いさぶろう・しんぺい」1往復も特急列車に格上げ(人吉 – 吉松間は普通列車)され、約1年ぶりに4往復の優等列車の発着が復活した。なお、それまで運行されてきた快速列車は早朝の上り人吉発熊本行1本と深夜の下り当駅始発人吉行き(最終列車)を除いて全て特急「かわせみ やませみ」に置き換えられた[6]。 またかつては当駅発着列車と、近隣の八代港発着のフェリーとの連絡運輸も行われていた。八代港からは天草諸島各港へのフェリーが発着していたが、天草方面への他ルートによる交通が整備されてきたこと、及び九州新幹線・新八代駅開業により当駅の優等列車の発着や観光客が大きく減少したことにより産交バスの八代港連絡バスが2010年9月30日限りで廃止されたため、同年10月1日をもって連絡運輸を終了している。 このように、現在同市の広域旅客輸送の玄関口としての役割は、2004年に誕生し博多駅方面・鹿児島中央駅方面などと九州新幹線で直接結ばれている隣駅・新八代駅に譲っている。 歴史 八代駅は1896年(明治29年)11月21日に、後に国鉄鹿児島本線となる路線を建設した私鉄の九州鉄道によって、松橋- 八代間開通とともに開設された。この時の駅の位置は現在地よりも西側の、出町公園があるあたりであった。九州鉄道は1907年(明治40年)7月1日に国有化され、当駅は国有鉄道の駅となった。しかしその後、人吉まで後に肥薩線となる路線が開通する際に当初の駅の位置では折り返し運転が必要になることから、これを避けて現在地点に移転することになった。これにより、千丁 – 初代八代間の線路から分岐して弧を描くようにして現行駅に入る線路が建設され、2代目の八代駅が1908年(明治41年)6月1日、八代 – 人吉間の開通と同時に開業した。この際に初代八代駅は2代八代駅と結ぶ線路に付け替えられて、貨物用の球磨川荷扱所として使用されるようになった。 1909年(明治42年)10月12日、国有鉄道線路名称が制定されて門司から人吉に至る路線は人吉本線と命名された。しかしまもなく11月21日には人吉 – 吉松間開通により鹿児島までが全通して鹿児島本線と改められた。1912年(明治45年)7月11日に球磨川荷扱所は正式に球磨川駅となり、鹿児島本線に属する貨物駅となった。営業キロは、マイル時代は0.8マイル、メートル法施行後は1.3 kmとされた。1923年(大正12年)7月15日、当駅で鹿児島本線から分岐して日奈久までの路線が開通し、当初はこちらが肥薩線と名付けられた。この路線はそのまま延長されていき、1927年(昭和2年)10月17日に全通して、こちらを経由する路線が鹿児島本線に、当駅で分岐して人吉を経由する路線が肥薩線に、名称を入れ替えられた。 球磨川駅は、1945年(昭和20年)6月10日に書類上は廃止となった。しかし実態としては貨物扱い設備が存続し、八代駅構内の扱いで営業が継続されていた。1989年(平成元年)11月12日に、交流電化区間としては初めての着発線荷役方式を導入した新しい貨物取扱設備が旅客駅に隣接する位置に設置されて使用開始したことから、旧球磨川駅の設備は廃止となった[7]。球磨川駅へ至る線路跡は道路に転用され、駅の跡地は八代市により球磨川駅地区土地区画整理事業が施行され、出町公園などになっている。この公園にはかつての球磨川駅跡であることを示す説明板と国鉄C57形蒸気機関車の動輪の展示が行われている。 2004年(平成16年)3月13日、九州新幹線の新八代 – 鹿児島中央間開通に伴い、当駅より南側の鹿児島本線が川内駅まで並行在来線として経営分離され、第三セクターの肥薩おれんじ鉄道が運営を引き継いだ。このために当駅に肥薩おれんじ鉄道の設備が設置されている。 年表 1896年(明治29年)11月21日 – 九州鉄道の駅として開業。当時は現在の出町公園付近にあった。 島式ホーム1面2線と単式ホーム1面1線および切欠けホームを1線追加した2面4線の構造の地上駅で、1番線と2番線の間に上り列車用の中線、3番線の隣に側線、その隣にJR貨物の貨物列車用のホーム(JR貨物八代駅貨物取扱所発着)が設置されている。JR九州側のホームでは、1番線と2・3番線を結ぶエレベーターを2機設置している。単式ホームの鹿児島側と切欠式ホームを肥薩おれんじ鉄道が使用する。また、中線と側線は主に貨物列車が使用している。JR九州と肥薩おれんじ鉄道の駅舎は独立しているが線路は繋がっていて1番線ホームの中間部分にJR九州と肥薩おれんじ鉄道の仕切と連絡改札口があり乗換取扱を行っている。JR九州の改札口は一つだけだが、「やつしろ全国花火競技大会」開催時は多客のため、1番線の熊本方にある跨線橋の横の柵が開かれ臨時改札口として使用される。運転信号関係はJR線、肥薩おれんじ鉄道ともJR九州の係員が担当しており、鹿児島本線、肥薩線、肥薩おれんじ鉄道とも列車の夜間滞泊がある。また、JR駅舎と肥薩おれんじ鉄道駅舎の両方にコインロッカーが設置されている。 肥薩おれんじ鉄道[編集] 有人駅で駅舎は肥薩おれんじ鉄道本社や乗務員宿泊施設に隣接する形で1番線ホームの鹿児島側に面する。自動券売機1台、待合室、出札窓口、改札口が設置されている。駅業務は連絡改札口の改札を含めてNPO法人おれんじサポートステーションが業務委託しており、出改札業務や駅施設管理まで担当している。なお、窓口はJRのPOS端末などは置いておらず自動券売機以外での乗車券の発行は常備券や手書きの出札補充券での発行となる。SUGOCAなどのICカードにも対応していない。また窓口の営業時間が下記の通り朝から夕方までの時間に限られており、それ以外の時間帯は無人駅になる。 かつては2004年の開業時より地元のNPO法人ネット八代が長らく駅業務の業務委託を行い、メンバーが駅業務の傍ら定期的に母親の育児相談や高校生の食育料理教室などの催し物も開催していた[13]が、NPO法人の活動業務の変更と縮小に伴い2015年3月31日を以て業務委託を終了し、翌4月1日から直営駅となった[14][15]。また、開業時より改札口付近で地元八代産の野菜、魚、惣菜、パンや調味料などの食料品、土産品、日用品などの販売が行われていたが、業務委託終了に伴いこれらの販売も全て終了した。業務委託終了後の2015年4月1日から6月30日までは唯一肥薩おれんじ鉄道の直営駅となり本社社員が駅業務を行っていたが、7月1日より上述のNPO法人おれんじサポートステーションが業務委託を開始した。 営業時間 のりば
貨物駅 かつては八代駅近くに本店工場があった駅弁業者「株式会社みずあらい」や駅近くの中華料理屋「太楼」が駅弁を販売しており、みずあらいは球磨川の鮎を使用した鮎の塩焼き弁当や鮎の甘露煮を使用した鮎弁当、太楼はがらっぱ弁当が名物であった。がらっぱ弁当は土休日は球磨川の河童伝説にちなんだ九千坊のコスプレをした店員がホームで立売を行っており、旅行者やファンに親しまれていた。しかし、みずあらいは1990年代後半に経営破綻により廃業し、太楼も2004年に八代駅 – 川内駅間が肥薩おれんじ鉄道に経営移管された際に駅弁販売から撤退している。 2004年以降はみなみの風(より藤)が販売している。主な駅弁は下記の通り。 このしろ寿司 駅周辺[編集] 駅舎のある西側は八代市の中心市街地の東端を成しており、八代市役所・八代城・松井神社・松浜軒等からは2kmほど離れている。東側の駅裏は日本製紙八代工場となっている。
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肥後高田駅(無人駅)
<ここからの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「肥後高田駅」を素材として二次利用しています> 肥後高田駅(ひごこうだえき)は、熊本県八代市にある肥薩おれんじ鉄道線の駅。ほとんどの列車は当駅を途中駅の一つとし、上り方面は八代・新八代行きが、下り列車は出水・川内・隈之城行きがそれぞれ1時間に1本程度設定されている。だが、当駅は近隣に熊本高専八代キャンパスや中九州短期大学など学校が多いため平日の朝夕は八代方面・水俣方面双方とも通学の利用が多い。そのため朝8時台(1本)のみ八代駅と当駅の1区間運行便がある。また周辺は住宅密集地のため、他の駅と比べて乗降客が多い。 駅構造 相対式2面2線ホームの地上駅。無人駅。元は有人駅で木造の駅舎が建っていた。簡易駅舎に建て替えられた後もしばらくは業務委託駅として出札窓口が設置され、八代駅から駅係員が助勤扱いで派遣され朝から夕方まで乗車券や定期券を手売りで発売していたが、JR時代の晩年はそれもなくなり完全無人駅になっていた。窓口はJR九州時代は残されていたが、2004年の肥薩おれんじ鉄道への経営移管後は掲示板で塞がれている。 のりば
1番線、2番線の上下線共に場内・出発信号機があり、どちらからも発着や折り返し運転が可能である。列車は基本的に駅舎側の1番線側に発着し、列車交換がある時のみ2番線にも入線する。2番線側は臨時列車やダイヤ乱れなどを除いてほとんどが下り水俣方面列車の発着で、上り八代方面の定期列車の発着は朝8時台の当駅始発(折り返し)八代行きの1本のみである。当駅と八代駅の間には麓トンネルと約300mの長さの球磨川橋梁が存在するため、台風などの悪天候や自然災害発生時は八代方面列車は当駅で折り返し運転をすることがある。その場合は臨時に駅係員が配置される。2016年4月14日発生の熊本地震では、18日夕方に全線で運転再開するまで長時間ほとんどの八代方面行き列車が当駅止まりとなり、折り返し運転を行った。その後も断続的に発生した強い地震で、度々当駅折り返し運転を実施している[1]。 駅名の由来 開業当時は八代郡高田村だったことにちなむが「高田駅」は全国にあるため、旧国名の「肥後」を冠して「肥後高田」とした。「高田」は古代からの地名であり、由来は久留米市高良山にある高良大社にちなむ大和民族の伝説が関係している。代々高良山一帯を治めてきた高木神が高良神(高良玉垂命)に山上を貸したところ、乗っ取られて現在の「高田」の地に追放されてしまい、高木神が住んだこの土地がいつしか「高田」になり、読み方も高木神の住居を意味する「たかだ」と読むには恐れ多いことから「こうだ」と読むようになったという。 駅周辺 南側は田畑が広がっているが、北側は住宅や商業施設が多く、八代市中心市街地に近づくほど密集度が高くなる。東側の駅裏は山である。
歴史
<ここまでの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「肥後高田駅」を素材として二次利用しています> |
日奈久温泉駅
<ここからの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「日奈久温泉駅」を素材として二次利用しています> 日奈久温泉駅(ひなぐおんせんえき)は、熊本県八代市日奈久塩北町2994番地にある肥薩おれんじ鉄道線の駅。 駅周辺は日奈久地区の住宅街になっているほか八代市でも数少ない観光地(日奈久温泉街)に立地する駅であるため、通学客や観光客などの利用者は比較的多い。そのため国鉄・JR九州時代は一部の特急列車が停車し、肥薩おれんじ鉄道に移管されてからも一部の臨時列車、貨物列車以外の全ての列車が停車する主要駅の一つである。 歴史
駅名の由来 開業時の地名(葦北郡日奈久村)が由来である。 「日奈久」の地名は古くからあるが、由来はよく分かっていない。『肥前国風土記』には「景行天皇がこの地の火流(ひながれ)浦(もしくは比奈賀(ひなが)浦)から船出した」とあり、「火流」や「比奈賀」が転じて「日奈久」になったという説がある。また、元来この地には琉球や新羅との交流が盛んだったことや琉球(名護)からの移民が多かったことから、沖縄方言または国頭方言で「名護」を意味する「なぐ」が訛ったとの説や朝鮮語が語源という説もある。 駅構造 日奈久地区の住民団体「日奈久おきん女会」が管理する有人駅で木造駅舎を持つ。この木造駅舎は1923年の開業当時に建築されたもので、現在もほとんど改修されずに当時のままの状態で使用されており、肥薩おれんじ鉄道では最古の駅舎である。温泉観光地にある駅のため、広い待合室を有する。駅係員は駅業務のほか、日奈久温泉街の観光案内も行っている。 駅構内は複合式2面3線で、鹿児島本線だった頃は一部の優等列車が停車したほか旧2番線を使用した当駅折り返しの列車も数本設定されていた。しかし、2004年に肥薩おれんじ鉄道に経営移管された際に旧2番線は使用停止となって出発信号機を横に向けており、実質単式ホームの2面2線となっている(佐敷駅や折口駅も同様)。有人駅である。トイレは改札内・外にある。 国鉄・JR九州時代は待合室内に鉄道小荷物窓口やキヨスクが設置され、売店では駅弁販売も行われていたが、手荷物窓口は1986年に、キヨスクも2004年に肥薩おれんじ鉄道に経営移管された際に閉鎖となり撤去された。1975年から2004年までは特急停車駅であったが、国鉄時代からみどりの窓口や自動券売機は設置されず、駅係員は特急券、乗車券とも出札窓口で常備券や補充券を発売していた。肥薩おれんじ鉄道への経営移管後も有人駅として残り、JR時代の出札窓口をそのまま使用して乗車券や定期券を発売している。 鉄道小荷物窓口跡は大型の掲示板で塞がれ、店舗跡地には自販機コーナーが設けられている。現在も当時の窓口の一部や店舗の基礎部分が僅かに残っている。 肥薩おれんじ鉄道に移管された際、八代発の朝8時台の1本のみ当駅で折り返していたが、2009年3月14日のダイヤ改正で隣の肥後高田折り返しに短縮され、当駅始発列車は消滅した。
のりば
ほとんどの列車(貨物列車、臨時列車は除く)は駅舎側の1番線に発着し、列車交換がある時のみ2番線にも発着する。 駅周辺 周辺は住宅や商店が立ち並んでいる。南側は日奈久温泉の中心街で温泉施設・旅館・商店・住宅などが密集している。 また、産交バスの日奈久駅前バス停が国道上にあり、八代駅方面と日奈久温泉・二見方面などを結ぶ路線などが発着している。
かつては駅前から温泉街まで直行乗合馬車が列車の発着に接続する形で運行されていた。この馬車は日奈久温泉の名物として知られ、地元住民や観光客に長く親しまれてきたが、諸般の事情から1984年に運行が廃止された[1]。営業末期は土休祝日や観光シーズンの特急列車発着時を中心とした運行となっていた。そのため国鉄・JR時代は「わたしの旅」用の「懐かしい乗合馬車のある駅 鹿児島本線日奈久駅」の駅スタンプが2004年まで設置されていた。この乗合馬車については肥薩おれんじ鉄道の経営移管後も温泉への観光誘致のため八代市議会や商工会議所などで運行の復活について度々話し合いが行われているが、復活には至っていない。詳しくは日奈久温泉を参照。 <ここまでの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「日奈久温泉駅」を素材として二次利用しています> |
肥後二見駅(無人駅)
<ここからの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「肥後二見駅」を素材として二次利用しています> 肥後二見駅(ひごふたみえき)は、熊本県八代市二見洲口町1635番地にある肥薩おれんじ鉄道線の駅。 駅構造 簡易駅舎を持つ相対式2面2線ホームの地上駅。無人駅である。国鉄時代は木造駅舎を持った有人駅であった。現在の駅舎は1978年に建て替えられた旧国鉄熊本鉄道管理局管内の標準のもので、袋駅とほぼ同じデザインである。 のりば[編集]
駅周辺 国道と線路の間や、南側に集落がある他は田圃が広がっている。
かつては二見川を渡った先の二見漁港付近に二見海水浴場(二見海岸)があり、隣の上田浦駅にある黄金ヶ浜海水浴場と共に夏季の避暑地として海水浴客で賑わっていた。その名残で現在でも海岸沿いにコンクリート製の飛び込み台が残っている。1970年に無人駅になり、1978年に駅舎が解体されて現駅舎になった後も1980年代後半までは7月から8月末にかけての夏休み期間中のみ八代駅から駅員が派遣されて期間限定で有人駅になり、当駅に優等列車が臨時停車したり熊本駅方面から当駅止まりの臨時列車が設定されていた時期もあった。現在は近隣の御立岬公園海水浴場などに海水浴客が移ってしまい海水浴場としての役目は終えているが、砂浜が広くて波や潮の流れも穏やかなため、毎年4月から5月末にかけて二見漁業協同組合主催の潮干狩りが開催され、浜辺で潮干狩りを楽しむ大勢の観光客や家族連れで賑わう。また、沿岸は釣りのスポットとしても知られ、年間を通して海岸沿いに海釣りをする人が多数集まり、海辺やボートで釣りを楽しんでいる姿が見られる。 歴史
駅名の由来 開業時の地名(葦北郡二見村)が由来。 「二見」はかつては「二水」と言う地名であった。「二水」とは「2つの川の合流するところ」という意味で、この土地が二見川と下大野川との合流地点であることから付いた地名である。その後、「二見」に転じたのが今の地名であり、駅と集落は二見川河口の洲口浜にある。 開業当時、参宮線に二見浦駅、和歌山線に大和二見駅が存在していたため、当駅は肥後二見駅となった。 <ここまでの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「肥後二見駅」を素材として二次利用しています> |
上田浦駅(無人駅)
<ここからの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「上田浦駅駅」を素材として二次利用しています> 上田浦駅(かみたのうらえき)は、熊本県葦北郡芦北町大字井牟田1567番地にある肥薩おれんじ鉄道線の駅。 駅構造 島式ホーム1面2線を有する地上駅。無人駅となっている。駅前には1990年に建てられたログハウス風の駐輪場が立っている。 トイレは開業当初からの木造のもので小便器と男女共用の汲み取り式が設置されている。 1990年頃まで現在の駐輪場の立つ場所に白い木造の駅舎が立っており、開業から1970年までは出札窓口と待合室のある有人駅であった。無人化された後の待合室は通勤通学者の自転車駐輪場になっていたが、駅周辺には黄金ヶ浜海水浴場があり民宿や海の家が多く、夏休みになると日帰りまたは民宿に宿泊する海水浴客で駅が賑わったこともあり、1980年代後半までは夏休み期間の7月から8月末まで管轄元の八代駅から職員が数名派遣され、期間限定で終日有人駅になっていた。 開業時は1面1線の棒線駅であったが、国鉄の輸送力増強のため1965年10月に交換設備が設置された。また、1960 – 70年代には海水浴客輸送のため夏休みシーズンになると急行かいもんなど優等列車が臨時停車したり、熊本駅方面から当駅止まりの臨時列車が設定されていた時期もあった。1969年のCTC導入後は当駅折り返しの臨時列車は佐敷駅まで延伸する形で廃止されたが、優等列車の臨時停車は1970年代まで続けられた[1]。 のりば
駅周辺 周辺は山と海が迫った狭い場所で、駅周辺と北側の山肌に井牟田地区の民家があるのみである。 当路線では最も行きにくい駅の一つである。当駅に停車する列車の本数が多いため秘境駅とまではいかないが、他の当路線の駅と違って幹線道路からかなり離れており、山側を通る幹線の薩摩街道(国道3号)へは山道で繋がってはいるものの道幅はあまり広くなく、山や峠を蛇行しながら迂回するため6km以上離れている。海沿いにも道があり両隣の駅まで繋がっていて山道を通るよりは近道だが、道幅が最大でも1.4m程度と大変狭く2010年から当駅 – 肥後二見駅間に5m幅の生活道路(県道二見田浦線・2013年3月22日部分開通[2])が整備され道路事情が改善されるまでは隣の肥後二見駅とは軽自動車以上の大きさの自動車は通行不可能であった。なお、もう一方の当駅 – たのうら御立岬公園駅間の海沿い道路は未だに道路がほとんど整備されていないため、場所によっては道幅が極端に狭く軽自動車でも通行不可能な箇所も存在する。駅周辺も土地が狭く駅前広場(ロータリー)や駐車場がないため鉄道以外では大変行きにくい立地になっている。なお、部分開通した二見田浦線は今後も芦北側300m、八代側1kmの計1.3kmを整備して国道3号線と繋がる予定で、全通すると当駅へのアクセスが格段に改善される予定。 街が駅を中心に海側と山側に分かれ、横断用の踏切が町外れにしかないため、ホームの中間にある地下水路の横に地元住民が作った横断用の通路が設けられている。 肥後二見 – 上田浦 – たのうら御立岬公園間の線路は海沿いを走る。海すれすれに走っている部分も多いため車窓からの景色が良い。 黄金ヶ浜海水浴場と街並み 当駅の海側民家のすぐ裏手には黄金ヶ浜海水浴場があり、ホームや跨線橋からも眺めることができる。海岸から見える夕陽が黄金色に見えることが「黄金ヶ浜」の由来である。 かつて当駅は隣駅の肥後二見駅近くの二見海水浴場と共に熊本県内有数の避暑地として知られ、1960年代から1970年代前半をピークに1980年代中頃までは夏季になると大勢の一般の海水浴客や臨海学校の児童生徒が訪れて賑わっていた。特に当駅の黄金ヶ浜海水浴場は駅の目の前が海水浴場で波や潮の流れも年間を通じて非常に穏やかだったことから多くの海水浴客に親しまれ、ピーク時は前述のように優等列車が臨時停車したり当駅止まりの臨時列車が設定されるほどの混雑ぶりで、周辺には海水浴客のために多数の民宿や商店、食堂が軒を連ねていて大変賑やかであった。駅近くにあった田浦町立井牟田小学校の児童たちも夏季はプールの代わりに海水浴場を使用して授業していた。その名残で現在でも海岸の中に数本のコンクリート製の飛び込み台が残っている。 こうして長年海水浴客に親しまれてきた黄金ヶ浜海水浴場であったが、
などにより次第に客足が遠のき始め、1980年代末期には当駅を訪れる海水浴客が著しく低迷してしまっていた。さらに井牟田地区で深刻な過疎化が進み、井牟田小学校も1996年4月1日をもって近隣の田浦町(現:芦北町)立田浦小学校に統合される形で廃校になり、2000年代に入ると海水浴場の利用者はほとんどいなくなってしまった。現在は民宿や海の家などの海水浴客向けの商業施設は全て廃業しており、夏休み期間中でも乗降客がまばらで時おり海水浴場や近くの海辺に海釣りや潮干狩り、アオサ取りに訪れる人がいる以外は人影も少なくひっそりと静まりかえっている。今でも海水浴場自体は廃止されてはいないが、砂浜は長年整備されておらず消波ブロックが無造作に積まれたり雑草が生い茂っている箇所も多く、波打ち際も小石や流木、海から流れ着いたゴミなどが堆積したりして砂浜がほとんど消失し、かつての賑わいと面影は皆無になってしまっている。 当路線が国鉄だった頃は駅近くに国鉄指定保養所「黄金荘」が建てられ、多くの国鉄職員やその家族連れも海水浴のために当地を訪れていた。しかし1987年4月1日の国鉄の分割民営化で「黄金荘」は廃止され、その後取り壊されて現存しない。 民宿や商店(海の家、食堂など)を改装してそのまま一般民家にした建物が多く、駅前の街並みに民宿街だった当時の面影を残している。また、かつて民宿や商店、更衣室だった建物が何件か廃屋のまま扉や窓を板や雨戸などで封印した状態で取り壊されずに遺っているほか、街のあちこちに当時使われていたコカ・コーラ、スプライト、ファンタ、ミリンダと言った多数のジュースのホーロー看板が撤去されずに残されている。 歴史
各種イベント 当駅は普段は長閑で閑静な駅であるが、八代海に最も近く景観も大変良い事から、駅構内で時折ユニークなイベントが開催されている。 駅カフェ(2011年6月21日開催)
第16回全国地紅茶サミットinみなまたwith秋のローズフェスタ(2016年11月5日開催)
駅名の由来[編集] 当駅が葦北郡田浦村(設置当時)の北部(上部)に設置され、すでに開業していた肥後田浦駅の上方に位置しているのが由来。 <ここまでの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「上田浦駅駅」を素材として二次利用しています> |
たのうら御立岬公園駅(無人駅)
<ここからの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「たのうら御立岬公園駅」を素材として二次利用しています> たのうら御立岬公園駅(たのうらおたちみさきこうえんえき)は、熊本県葦北郡芦北町大字田浦にある肥薩おれんじ鉄道線の駅。同線で最も新しい駅である。 普段は普通列車しか停車しないが、近隣に御立岬海水浴場があるため、夏の海水浴シーズンのみ快速「スーパーおれんじ」も一部列車(下り1号・上り4号)が臨時停車する。 駅構造 単式ホーム1面1線を有する地上駅。線路の脇に2両編成まで停まれる程度の短く簡単なホームを添えただけの構造となっているが、当駅は直線上にあって快速列車、貨物列車など通過列車は高速で通過するため、安全面を考慮してホームには線路転落、触車事故防止用の安全柵が備え付けられている。普段は終日無人駅であるが、海水浴シーズンは夏休み期間中の休日を中心に近隣の御立岬海水浴場への海水浴客で混雑するため、特に混雑する7月下旬から8月中旬の土休祝日の日中のみ臨時に駅係員が派遣されて有人駅になる。 駅周辺
歴史 旧・田浦町の請願を受け新設された。約3400万円の建設費は同町が負担した。
駅名について 当駅の駅名は、御立岬公園や御立岬温泉、道の駅たのうらなどの芦北町の観光施設への最寄り駅として設けられたことに由来する。 駅名の英語表記がホームの駅名版と列車の表示器で若干違っており、駅名板では「Tanoura Otachimisaki Park」と表記されているのに対し、列車内のLED案内表示器では「TANOURAOTACHIMISAKIKOUEN」と表示される。 <ここまでの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「たのうら御立岬公園駅」を素材として二次利用しています> |
肥後田浦駅
<ここからの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「肥後田浦駅」を素材として二次利用しています> 肥後田浦駅(ひごたのうらえき)は、熊本県葦北郡芦北町大字小田浦958番地にある肥薩おれんじ鉄道線の駅。 駅構造 鉄筋コンクリート製駅舎と相対式ホーム2面2線を有する地上駅で、NPO法人「ななうらステーション」が管理する簡易委託の有人駅である。ホーム間の間隔は広く空いている。トイレは改札内・外にある。この他、貨物用ホームが残っており、現在は保線作業車の留置線として使用されている。 有人駅ではあるが土曜日のみの営業である。旧田浦町の中心駅であり、国鉄時代は東海カーボン田ノ浦工場従業員の利用者が多く構内で車扱貨物も取り扱っていたことから終日有人駅であったが、貨物取扱廃止と大幅乗客減により1985年に一旦無人化された。その後、田浦町からの陳情や請願もあり1987年にJR九州に分割民営化された際に再び終日有人駅に昇格し、2004年に肥薩おれんじ鉄道に経営が移管された後も平日のみ毎日8:30 – 17:00まで営業していた。しかし、2005年3月1日にたのうら御立岬公園駅が開業してからは利用客がそちらに移り、再び乗降客が激減したため、2007年10月1日から毎週土曜日のみ窓口営業の有人駅に格下げされた。なお、土曜日のみの営業のため、他の有人駅と違って出札と駅管理のみを行い、改札や集札は行われていない。 かつては木造駅舎で、駅舎周辺には菊の鉢植えがたくさん飾られていた。現在の駅舎は1974年に建てられたもので、建築当時からの出札窓口と待合室を有する。かつては鉄道小荷物窓口も設置されていたが、こちらは無人化された1985年に閉鎖され、旧田浦町の特産品の展示スペースに改修されている。 国鉄時代は工場専用線を持ち車扱貨物の取扱いを行っていたため、比較的大きな駅舎が残る。駅長事務室内は駅業務の他に専用線の貨車入れ換え用の信号扱所や作業員詰所を併設していたため大部屋であったが、貨物取扱廃止時と無人化時、肥薩おれんじ鉄道への経営移管時と、度々改装が重ねられたことにより現在は出札窓口に小規模の事務室を構えている程度に縮小している。改装された元の駅長事務室跡には2015年4月までは芦北町商工会田浦支所が入居していたが、田浦基幹支所への移転に伴い、4月以降は赤帽肥後田浦店が入居している。
のりば
駅周辺 産交バスの田浦駅前バス停が国道3号上にあるが、少し離れている。
歴史
駅名の由来 開業時の地名(葦北郡田浦村)が由来。 「田浦」は「広い田圃のある港」を意味する地名であり、古くは「田ノ浦」や「田野浦」と読まれていた。 開業当時、すでに横須賀線に田浦駅が設けられていたため、当駅は熊本県の旧国名「肥後」を冠して「肥後田浦駅」となった。 <ここまでの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「肥後田浦駅」を素材として二次利用しています> |
海浦駅(無人駅)
<ここからの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「海浦駅」を素材として二次利用しています> 海浦駅(うみのうらえき)は、熊本県葦北郡芦北町大字海浦38番地にある肥薩おれんじ鉄道線の駅。 駅構造 単式1面1線のホームの無人駅である。ホームには屋根のあるベンチ(簡易待合室)が設置されているのみでトイレは設置されていない。 鹿児島本線時代、1955年に廃止された唐浜駅と1965年に交換設備が設置された上田浦駅、薩摩大川駅を除けば唯一の棒線駅であった。 歴史
駅名の由来 開業時の地名(葦北郡海浦村)が由来。 「海浦」は「田浦」の対義語で、「険しい山が海にすぐ迫っているところの港」を意味する地名である。 駅周辺 山と八代海に囲まれた狭い土地に位置しており、駅の前後もトンネルに挟まれている。 海側には集落が広がっており、海浦漁港が整備されている。また、国道3号も海側を走っており、産交バスの海浦バス停が設置されている。 山側には旧道の薩摩街道が走っており、駅から約1Km程の位置に登録有形文化財である佐敷隧道が掘られている。また、みかんの栽培も盛んである。
<ここまでの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「海浦駅」を素材として二次利用しています> |
佐敷駅
<ここからの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「佐敷駅」を素材として二次利用しています> 佐敷駅(さしきえき)は、熊本県葦北郡芦北町大字花岡にある肥薩おれんじ鉄道線の駅。 芦北町の中心駅で、国鉄・JR九州鹿児島本線時代は一部の特急も停車した。 駅構造 島式1面2線と相対式1面1線のホームの地上駅。NPO法人ななうらステーションが管理する有人駅である。1番線の上り側と2番線(旧3番線)の隣には貨物側線や貨物ホームの跡地が残る。トイレは改札内・外にあり、改札内は男女共用、改札外は男女別。いずれも水洗式。 駅舎は1925年の開業当時に建てられた木造駅舎で、肥薩おれんじ鉄道では1923年に建てられた日奈久温泉駅の駅舎に次いで2番目に古い駅舎である。 列車は基本的に1番線発着で、列車交換がある時のみ下り列車が2番線に入る。2番線は上り列車用の場内信号機や出発信号機を設けていないため、上り列車が入ることはない。 かつての国鉄、JR時代は駅舎側の1番線が上り(八代・熊本・博多方面)列車、3番線が下り(出水・川内・西鹿児島方面)列車の専用ホームで、中線の旧2番線のみ上下列車のどちらからも発着できる構造であった。そのため、普通列車が旧2番線を使って特急通過のための待避をしたり、熊本、八代方面から当駅止まりの列車の折り返しとして使われたりしていた。2004年に肥薩おれんじ鉄道に移管された際に1番線が上下列車に対応できるよう信号設備が整備されると同時に旧3番線が現在の2番線に変更され、代わりに旧2番線が使用中止となり現在は出発信号機が横になってしまっている。また、国鉄時代は現2番線の奥に数本の貨物側線と貨物積み下ろし用のホームがあり、貨車の入換を行っていた。現在もホームの一部が残り、側線の一部も電力区社員研修用の訓練線路として残っている。 国鉄・JR九州時代は待合室内に鉄道小荷物窓口、出札窓口とキヨスクが設置され駅近くの「みずあらい芦北支店」が調製した駅弁の販売も行われていたが、小荷物窓口は国鉄時代の1986年に閉鎖、駅弁も1990年代後半に業者の倒産により発売が終了し、キヨスク自体も経営移管の際に閉店となり店舗も撤去された。小荷物窓口跡には大型の掲示板が、キヨスク店舗跡地には自販機コーナーが設けられている。現在も当時の店舗の基礎部分が僅かに残っている。特急停車駅であったが、みどりの窓口やマルスは設置されず、駅係員は特急券、乗車券とも常備券、補充券を手売りで発売していた。肥薩おれんじ鉄道に移管された際に自動券売機が設置されたが、出札窓口は閉鎖されることなくそのまま使用されている。
のりば
駅周辺 周辺は商店や住宅が密集している。
歴史
駅名の由来 開業時の地名(葦北郡佐敷村)が由来。 「佐敷(さしき)」は「さし(城)」と「き(城)」が合わさって生まれた地名で、元は両方とも城を意味する言葉である。その字の通り、古代この佐敷の地には隼人防御の城があったと言われ、古くから西海道の駅家も置かれた交通の要所であったという。また、かつてこの地を訪れた弘法大師が1本の木を地面に挿したところ、その木が根を張ったことから「指木」と言う地名になり、その後に「佐敷」に転じたと言う説もある。 <ここまでの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「佐敷駅」を素材として二次利用しています> |
湯浦駅(無人駅)
<ここからの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「湯浦駅」を素材として二次利用しています> 湯浦駅(ゆのうらえき)は、熊本県葦北郡芦北町大字宮崎358番地にある肥薩おれんじ鉄道線の駅。当駅から水俣方の次駅である津奈木駅までは複線となっている。 その津奈木駅とは8.7km離れており、当路線の中では最も駅間距離が長くなっている。 駅構造 相対式ホーム2面2線を有する地上駅。駅舎はないが、コンクリート造りの簡易駅舎(待合所)が設置される。無人駅となっている。かつては木造駅舎で有人駅であった。無人化後の1977年に簡易駅舎に建て替えられた後も簡易委託駅として出札窓口が設置され、駅係員が朝から夕方まで乗車券や定期券を発売していたが、JR時代の晩年はそれもなくなり、完全無人駅になっていた。
わかりにくいが、駅舎とは反対の2番ホーム側に裏口があり、湯浦の中心地への近道となっている。また、九州新幹線開業による第三セクター移行が決まっていたためか、九州旅客鉄道(JR九州)時代末期には駅名標が錆びたままとなっていた。これは近くの海浦駅、袋駅なども同様である。現在でも2番ホームの屋根付きベンチの箇所に国鉄時代から使われている駅名標が残っている。 駅周辺 周辺は住宅が建ち並んでいる。また、北側は湯浦温泉の温泉街である。
歴史
駅名の由来 開業時の地名(葦北郡湯浦村)が由来。 「湯浦」はその地名の通り「湯の湧き出る港」を意味する地名で、古くからこの地に温泉が湧いていることから付けられた地名である。 <ここまでの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「湯浦駅」を素材として二次利用しています> |
津奈木駅(無人駅)
<ここからの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「津奈木駅」を素材として二次利用しています> 津奈木駅(つなぎえき)は、熊本県葦北郡津奈木町岩城1223番地にある肥薩おれんじ鉄道線の駅。津奈木町では唯一の駅である。 八代方の次駅である湯浦までの区間は複線となっているほか[1]、その駅間距離8.7kmは肥薩おれんじ鉄道線の中で最長となっている。 駅構造 相対式ホーム2面2線を有する地上駅。湯浦駅から当駅までは複線である。駅舎は津奈木町商工会館を併設する。無人駅となっている。 今の新駅舎が建築される以前には国鉄時代から使われていた古い木造駅舎が建っており、駅舎内に駅長事務室を改装して作られた喫茶店「停車場(ていしゃば)」が営業していた。 1968年に当駅と倉谷信号場(廃止)間が複線化される前は、駅構内は単式ホーム1面と島式ホーム1面の複合型2面3線の構造であった。現在の1番ホーム(単式ホーム)は貨物積み下ろし専用ホーム(貨物取り扱い廃止後は主に上下線の通過列車用の通過線)で、島式ホーム側2線が運転停車を含む停車列車用の旅客ホームであった。現在の2番ホームの隣に線路が敷かれ、そこが旧2番ホームで現在の2番ホーム側が旧1番ホームであった。複線化の際に用途廃止となっていた通過線の貨物積み下ろし用ホームを現在の旅客用1番ホームとして再整備のうえ新設し、旧1番ホームは下り水俣方面2番ホームとして整備され、旧2番ホームは用途廃止となり線路が撤去された。現在も旧2番ホーム側の遺構は残っており、一部の箇所には当時使われていた枕木が敷設されたまま朽ちた状態で残っている。 また、八代方は複線化工事前は当駅構内から染竹踏切付近まではまだ染竹トンネルは無く、線路は山に沿って迂回する形で敷かれていた。複線化工事の際、列車の高速化のために染竹踏切と当駅の間に染竹トンネルを設置して新線に切り替えた事で現在の線形になり、用途廃止となった旧線は住宅や道路用地に転用された[2]。
駅周辺 周辺は住宅が立ち並んでいるが、田畑も多い地域である。国道3号に出てすぐ左手に産交バス津奈木駅前バス停がある。 肥薩おれんじ鉄道の線路は当駅の八代寄りで九州新幹線と交わっている。
湯の児は当駅から約3km程離れているが、当駅からの交通機関は一切ない。
歴史
駅名の由来 開業時の地名(葦北郡津奈木村)が由来。 「津奈木」の地名は、「肥前国風土記」の「景行天皇が大泊港(おおどうのみなと)に船をおつなぎになられた」と言う故事に由来する。近隣に「小津奈木(こつなぎ)」と言う地区があり、これも「おつなぎ」が由来である。 <ここまでの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「津奈木駅」を素材として二次利用しています> |
新水俣駅(無人駅)
<ここからの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「新水俣駅」を素材として二次利用しています> 新水俣駅(しんみなまたえき)は、熊本県水俣市初野にある、九州旅客鉄道(JR九州)・肥薩おれんじ鉄道の駅である。 乗り入れ路線 九州旅客鉄道(JR九州)の九州新幹線 (鹿児島ルート)が乗り入れており、当駅には「さくら」、または「つばめ」が毎時1 – 2本程度停車する。「さくら」のうち、新大阪駅発着の列車が1日に8.5往復停車している。 なお、当駅に停車する「さくら」は熊本駅 – 鹿児島中央駅間は各駅停車となる列車のみで、同区間を速達運転する列車は当駅には停車しない。 肥薩おれんじ鉄道線の駅は、JR九州鹿児島本線の津奈木駅 – 水俣駅間にあった初野信号場を肥薩おれんじ鉄道開業と同時に駅とし、九州新幹線との接続駅としたものである。新幹線との乗り換え客が少なく、肥薩おれんじ鉄道の快速「スーパーおれんじ」は当駅を通過している。また、乗り換えは一旦駅本屋を出る必要があり、JR側の窓口や券売機でも肥薩おれんじ鉄道の乗車券は扱っていない。 歴史
駅構造 JR九州
新幹線ホーム 単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、合計2面3線のホームを持つ高架駅であり、通過列車の待避、および折り返し運転ができる構造となっている。通過線がなく、安全のために可動式安全柵が設けられている。 みどりの窓口設置の直営駅である。 駅舎の設計は渡辺誠+西部交通建築事務所。くまもとアートポリス第9回推進賞受賞。駅前広場の「新水俣門」も駅舎の設計者渡辺誠によるモニュメント。分かれ再び融合する枝のようなデザインは、コンピュータプログラムにより発生させた形態をもとにしている。 のりば
待避列車と折り返し列車は副本線である11番線を使用する。副本線は上り本線側に設置されているが、駅前後に存在する渡り線を介すことで上下線どちらからでも入線することができる。現在は臨時列車の一部が当駅で通過列車の待避を行うが、定期列車では当駅で待避を行う列車は設定されていない。 また、かつては鹿児島中央駅方面へ当駅始発・終着の列車が早朝・深夜に1本ずつ運行[注釈 1]されていたが、2011年3月12日の九州新幹線全線開業に伴うダイヤ改正で熊本駅発着となり、現在は当駅発着の列車は設定されていない。 2016年4月14日から16日にかけて発生した熊本地震では新玉名駅 – 新水俣駅間が被災して特に熊本駅 – 新八代駅間で列車脱線や大規模な施設の損傷が発生し、熊本駅 – 新水俣駅間が長期運転不能となった。このため暫定措置として、4月19日から全線運転再開日となった27日まで当駅 – 鹿児島中央駅間で運転本数を大幅に減らした暫定ダイヤで折り返し運転を行い、約5年ぶりに当駅折り返し列車が運行された。この間の暫定ダイヤでは全列車つばめ号で運行され、当駅は全列車とも11番線を使用しての折り返し運転が行われた。 九州新幹線駅舎の建築概要
肥薩おれんじ鉄道
島式ホーム1面2線を有する地上駅で、無人駅となっている。ホームへは構内踏切を介して出入りする。独自の駅舎はない。ホームはかなり狭い上に貨物列車が通過するため、転落防止柵が設置されている。また、ホームの狭さや踏切動作などの関係で、事故防止のため上下線とも通過列車の最高速度が40km/hに制限されている。 のりば
利用状況
駅周辺
<ここまでの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「八代駅」を素材として二次利用しています> |
水俣駅
<ここからの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「水俣駅」を素材として二次利用しています> 水俣駅(みなまたえき)は、熊本県水俣市桜井町一丁目1番地にある肥薩おれんじ鉄道線の駅。かつては九州旅客鉄道(JR九州)鹿児島本線の駅であった。また、JR九州山野線が分岐していた。 駅名の由来 開業時の地名(葦北郡水俣村)が由来。 「水俣」とは「川が二股になったところ」、あるいは「川が2つに分かれたところ」と言う意味で、この地が水俣川と湯出川の合流地点にある事から付いた地名である。 駅構造 NPO法人ななうらステーションが管理する有人駅であり、島式1面2線と相対式1面1線のホームで中線(通過線)もある。ただし、現在は中線と島式ホーム外側の3番線は使用停止状態になっており、相対式2面2線のように運用されている。トイレは駅舎内にあり、男女別の水洗式。 水俣市の中心駅であり、普通列車、快速列車、観光列車と肥薩おれんじ鉄道の全ての列車が停車する。また、2016年4月7日からはクルーズトレイン「ななつ星in九州」の乗り入れ開始に伴い、当駅も停車駅となった。 駅舎落成から60年が経ち老朽化が著しくなってきたため、2014年11月より総事業費1億1400万円をかけて駅舎改装工事が行われた。事業費は全額環境省と水俣市の補助金で賄われている。工事開始に伴い、2015年1月10日より国鉄時代から使用されてきた改札口と待合室が閉鎖され、旧改札口の横に仮改札口とプレハブの仮待合室が設けられた。その後、同年4月29日にリニューアルオープンした。駅舎のデザインは当路線のおれんじ食堂や阿久根駅駅舎のデザインを手掛けた水戸岡鋭治が担当している。駅構内にはカフェ・レストランの「旬菜カフェ水俣屋」が入居し、水俣の伝統工芸の一つである「イワシかご(竹籠)」を設置した待合室やキッズルームなども設けられた[1]。オープン当日は記念式典が開催された[2][3][4]。なお、旬菜カフェ水俣屋は2015年11月15日限りで閉店し、2016年2月から別の店舗(喫茶店)が入店している。 なお、駅舎リニューアルに伴い防犯上の理由から夜24:00から翌朝6:20までは館内が閉鎖され、駅舎横の通路(工事中だった当時の仮改札口)が出入口となる。前述の理由で、早朝は券売機で乗車券を買うことができず、当該時間帯は整理券を取り乗車することになる。
列車の発着は基本的に駅舎側の1番線で、列車交換がある時等に2番線も使用する。 JR鹿児島本線だった2004年3月12日までは全ての優等列車が停車していたほか、3番線や中線も使用され当駅折り返しの列車も数多く設定されていた。改札口に行先発車標(反転フラップ式案内表示機)や行灯式の座席案内標が設置され、特急有明も始発列車の10号(小倉行き)と終列車の49号(小倉発)の1往復が当駅発着で中線を使って夜間滞泊も行われていた。なお、廃止された山野線は主に3番線で発着していた。また、駅舎内にはみどりの窓口、待合室にキヨスクがあり、駅弁や水俣名物の蜂楽饅頭、三太郎餅も販売されていた。さらにジョイロード(現 JR九州旅行)水俣旅行センターが隣接して設置されていたが、どちらも経営移管時に閉店した。当駅のみどりの窓口はマルスが撤去され隣の新水俣駅に機能を移転したが、現在も出札窓口として使用されている。キヨスクも同じく新水俣駅に移転し、当駅のキヨスクを含むかつての待合室跡はパン工房「風季のとう」に改装された後、2015年から水俣屋に、旅行センター跡は待合室にそれぞれ改装されている。 肥薩おれんじ鉄道に経営移管された際、発車標や座席案内標は撤去された。開業時は八代方面から当駅折り返しの区間列車が3本設定されていたが、2005年3月1日のダイヤ改正で八代方面からの列車は全て出水方面に延長されたため、以降は設定されておらず、当駅発着の区間列車は早朝6時台に当駅始発隈之城駅行き(出水駅 – 水俣駅間は回送運転)が1本設定されているのみである。 国鉄時代は、山野線が発着していた3番線の隣に貨車入換用の側線群、駅の北西側にチッソ水俣工場への入換線と専用線を持ち、1985年頃に全ての貨物取取り扱いが廃止されるまでは八代駅・出水駅・川内駅などと並ぶ鹿児島本線の主要貨物取扱駅・支線中継駅の一つであった。貨物取扱廃止後、側線は廃車予定の貨車の留置などに使用するためにしばらくは遺されたものの、国鉄の分割民営化後に全て撤去され、跡地は住宅地や水俣自動車学校の敷地に転用されている。現在では駅構内の上り線(八代方面)側に機関車入換線の跡や入換線に通じていた渡り線のポイントレールが遺っており、入換線跡は安全側線として使われているほかすぐ後ろにある新地踏切にも遺構が遺り、下り線(出水方面)側に当時機関車の入換に使われていたシーサスクロッシングのポイントレールや機関車留置線が撤去されずにそのまま遺されており、かろうじて賑やかだった当時の駅構内の姿を垣間見ることが出来る。 駅弁 かつては八代市内に本社を構えていた株式会社みずあらい水俣支店や近隣の仕出し業者森弁当が調製した幕の内弁当や御寿司などが発売されていたが、みずあらいは倒産、廃業のため1990年代後半に駅弁発売を終了している。みずあらいの廃業以降は森弁当のみの駅弁が販売されてきたが、こちらも経営移管のため2004年3月12日の発売を以て終了した。晩年は以下の駅弁が売られていた。
駅周辺 北東側は水俣市の中心市街地で、駅周辺も市街地が広がっている。 至近
遠方
歴史
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袋駅(無人駅)
<ここからの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「袋駅」を素材として二次利用しています> 袋駅(ふくろえき)は、熊本県水俣市袋永尾2112番地にある肥薩おれんじ鉄道線の駅。 駅構造 相対式ホーム2面2線を有する地上駅。簡易駅舎を備える。無人駅。 海岸に近いことと、九州新幹線開業による第三セクター鉄道移行が決まっていたためか、九州旅客鉄道(JR九州)時代末期には駅名標が錆び放題となっていた。これは海浦駅、湯浦駅なども同様である。 かつては有人駅で木造駅舎が建ち、さらに駅前広場には大きな鉄筋コンクリート製の国鉄官舎「水俣鉄道寮・第2水俣荘」が建っていた。駅舎は1979年に解体されたが官舎はJR九州時代まで残っており、肥薩おれんじ鉄道に経営移管された後の2005年頃に取り壊された。現在は官舎跡地は空き地や駐車場になっている。 現在の簡易駅舎は旧国鉄熊本鉄道管理局管内の標準のもので、肥後二見駅とほぼ同じ規格の駅舎である。 のりば
駅周辺 駅南方を少し離れて北西流する境川は、古くは肥後国と薩摩国の国境を成しており街道沿いには関所も設けられていた。現在も熊本県と鹿児島県の県境であり、当線の走る境川鉄橋の山側には当時の国境であった境橋(太鼓橋)が今も現存していて車窓からもはっきりと見ることが出来る。
歴史
駅名の由来 開業時の地名(葦北郡水俣村字袋)が由来。 「袋」と言う地名の由来は、この地が山に囲まれて袋状になった小平地が多かった事から「袋」になったと言われる。 <ここまでの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「袋駅」を素材として二次利用しています> |
米ノ津駅(無人駅)
<ここからの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「米ノ津駅」を素材として二次利用しています> 米ノ津駅(こめのつえき)は、鹿児島県出水市下鯖町1964番地にある肥薩おれんじ鉄道線の駅。鹿児島県最北端の駅。 駅構造 相対式2線2面の無人駅である。それぞれのホームは若干ずれている。 のりば
駅周辺に住宅が多く、近隣に出水市立出水商業高等学校もあるため平日の朝夕は当駅を利用する通勤客や通学客が多い。そのため通学客輸送として朝7時台に隈之城駅発の当駅止まりの上り列車(土日祝日は運休)が1本、朝7時台と夕方16時台に当駅始発の下り列車(朝は野田郷駅行き(土日祝日は運休)、夕方は川内駅行き)の下り列車が各1本ずつ設定されている。 普段は無人駅だが、毎年3月の春分の日と翌日に高尾野駅周辺で開催される「高尾野 中の市」の開催時はホームが混雑し、当駅 – 阿久根駅間で臨時列車が多数運行されるため、臨時列車の運行時間に合わせて臨時に駅係員が配置される。 国鉄時代は木造の駅舎が建つ有人駅で、駅の東側に貨物用側線とホームがあったほか、西側にも数本の小規模の貨物取り扱い用の側線が敷かれており、隣の出水駅留置の貨車の入れ換えや近隣の米ノ津港などへの貨物の積み降ろしを行っていた。そのため、出水駅の貨物取り扱いの補完的な役割も果たしていた。しかし、1984年の出水駅貨物取り扱い廃止と同時に当駅の貨物取り扱いも廃止された。貨物取り扱い廃止後は側線が一部を除いて全て撤去されて駅も完全無人化され、その後1985年に駅舎も取り壊された。貨物側線の跡地には灌漑用の用水路が設置され、そのほかにジョイフル出水店、コカ・コーラウエストベンディング九州販売部九州第二地区出水営業所(旧南九州コカ・コーラボトリング出水営業所)、丸大食品出水営業所(2011年頃閉鎖。現在は空きビルになっている)、駐車場や更地などになっているほか、側線の一部が電力区員の訓練用の線路として残っている。 かつては米ノ津港から長島、伊唐島、諸浦島を経由して獅子島の御所浦港まで結んでいた波戸汽船(フェリーすずかぜ)が運航されており、当駅は御所浦フェリーへのアクセス駅としても賑わっていた。しかし、黒之瀬戸大橋、伊唐大橋などの開通によって自動車でのアクセスか格段に向上したことでフェリーは利用率が著しく悪化したため運航区間の短縮が行われ、当港 – 宮ノ浦港(長島) – 長島伊唐港(伊唐島)間は2008年5月18日の運航を以て運航が無期限休止され、2009年1月31日を以て正式に廃止されている。 駅周辺
歴史[
駅名の由来 開業当時の地名(出水郡米之津町)が由来。 古くは「米之津」と書かれていた。「米ノ津」の「米」は「米」、「津」は「港」を表す言葉で、読んで字の如く「米の積出港」を意味する地名である。この地は古くから稲作が盛んだったうえに米ノ津川の河口に作られた集落だったため、港では米の出入りが多かった事から「米之津」と言う地名が生まれ、駅名は「之」を簡素化して「米ノ津」になった。 <ここまでの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「米ノ津駅」を素材として二次利用しています> |
出水駅
<ここからの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「出水駅」を素材として二次利用しています> 出水駅(いずみえき)は、鹿児島県出水市上鯖淵にある、九州旅客鉄道(JR九州)・肥薩おれんじ鉄道の駅である。 利用可能な鉄道路線[編集] 九州旅客鉄道(JR九州)の九州新幹線 (鹿児島ルート)が乗り入れており、当駅には「さくら」、または「つばめ」が毎時1 – 2本程度停車する。「さくら」のうち、新大阪駅発着の列車が朝夕を中心に1日に8.5往復停車している。 なお、当駅に停車する「さくら」は熊本駅 – 鹿児島中央駅間は各駅停車となる列車のみで、同区間を速達運転する列車は当駅には停車しない。 肥薩おれんじ鉄道線の駅は八代駅と川内駅のほぼ中間に位置しており、車両基地も併設されているため、肥薩おれんじ鉄道線の拠点駅の一つとして機能している。当駅を始発・終着とする列車も多く運行されており、JR九州鹿児島本線への直通快速「スーパーおれんじ」「オーシャンライナーさつま」も大半が当駅発着である。 歴史
駅構造 JR九州
相対式ホーム2面2線を有する高架駅。通過線がなく、安全のために可動式安全柵が設けられている。 みどりの窓口設置の直営駅で、待合室にキヨスクが設置されている。 のりば
肥薩おれんじ鉄道
NPO法人北薩倶楽部が管理する有人駅である。自動券売機、出札窓口、待合室を有する駅舎に単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、合計2面3線のホームを持つ地上駅で、在来線部分の改札口は1番線ホームに直結している。新幹線部分の改札は跨線橋に直結しており跨線橋から肥薩おれんじ鉄道のホームに直接入ることができる。自動券売機は駅舎側に1台のほか、新幹線改札口と直結する跨線橋(自由通路)からの乗り換えの利便性を図るため2・3番乗り場にも1台設置されている。現駅舎は新しい建物だが、その隣に国鉄時代の1951年に建てられた2階建ての鉄筋コンクリート製の旧駅舎が残っており、現在も使用されている。 簡易委託駅で駅係員は出札業務と駅管理のみを行い、運賃収受は運転士が行う。ただし、おれんじ感謝デーなどのイベント開催などで多客が見込まれる場合は駅係員が改札、集札も行う事がある。 駅舎は開業当時は元国鉄・JRの駅舎を仮駅舎として使用していたが、元駅舎脇に新しく駅舎を建築して2004年4月1日より営業を開始し、元駅舎(旧駅長事務室・改札口)部分は改装されて営業部が使用している。現在も1番線ホームに旧改札口の遺構として仮駅舎時代に使用されていた階段やJR時代に使用されていた字幕式の行先時刻案内表示器、改札窓口跡が残っている。かつては駅弁業者の松栄軒本社と製造工場も駅舎に入居して駅弁を製造していたが、2013年10月1日より駅の北東側に新しく建てた新工場に機能を移転している。 肥薩おれんじ鉄道の主要駅の一つで車両基地等の所在駅であり、駅構内川内方の本線と新幹線高架橋の間の用地に乗務員(運転士)事務所・留置線・検修庫・洗浄留置線・給油設備等が設置されているほか、駅舎側にはおれんじ食堂のアテンダントなどが所属する営業部も設置されている。そのため、当駅で運転士やアテンダントの交代を行うほか、ダイヤ上の都合や車両に不具合が発生した時、朝ラッシュやイベント開催時、団体乗車など多客の乗車が発生した場合などには当駅で車両交換や列車の増解結作業を行う事がある。また、これらの作業やダイヤ調整、新幹線接続などのため、一部列車以外は当駅で5分から10分程度停車する列車が多く、列車によっては20分から最大35分ほど停車する列車もある。
ただし、毎年3月中旬に隣の高尾野駅付近で開催される「高尾野 中の市」や毎年8月に開催される「高尾野夏祭り」開催時は朝8時頃から夜まで、毎年10月に八代駅付近で開催される「やつしろ全国花火競技大会」開催時は午後2時頃から深夜まで、それぞれ駅が大変混雑するため、臨時に駅係員が配置される。 のりば
駅弁 主な駅弁は下記の通り。
駅周辺
駅前には主だった店舗が存在しない。西側に徒歩数分の所に大通りがありロードサイドタイプの大型店舗が散見される。東側の国道沿いには昔ながらの商店街があるが閑散としている。
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西出水駅
<ここからの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「西出水駅」を素材として二次利用しています> 西出水駅(にしいずみえき)は、鹿児島県出水市西出水町に所在する肥薩おれんじ鉄道線の駅。 NPO法人北薩倶楽部が管理する有人駅である。普段は無人駅だが、近隣に高校が多いため平日の朝夕は通学客で大変混雑する。そのため平日朝夕の通学ラッシュ時間帯のみ有人駅となる。 駅構造 駅は島式1面2線ホームの地上駅。駅本屋は1966年に建てられた国鉄様式のコンクリート製標準型駅舎で有人駅である。 新築当時からの出札窓口と鉄製の改札口、広い待合室を有し、1974年まで使用された構内踏切の跡が残っている。かつては鉄道小荷物窓口も設置されていたが1986年に閉鎖され、窓口跡は大型掲示板で塞がれている。
毎年3月中旬に隣の高尾野駅付近で開催される「高尾野 中の市」や毎年8月に開催される「高尾野夏祭り」開催時は駅が大変混雑するため、朝8時頃から夜まで臨時に駅係員が配置される。 のりば
駅周辺
歴史
駅名の由来 かつてはこの地が出水郡出水郷武本村の中心地だったことや、開業当初の所在地が出水町武本地区だった事から「武本駅」と命名された。 しかしその後の地区改名でこの駅周辺から「武本」の地名が消滅したため、出水駅の西側に所在していると言う意味合いで駅名も「西出水駅」に改称された。 なお、「武本」と言う地名は西出水駅の南方にある石堂山の中腹(国道328号沿い)に現存している。 <ここまでの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「西出水駅」を素材として二次利用しています> |
高尾野駅(無人駅)
<ここからの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「高尾野駅」を素材として二次利用しています> 高尾野駅(たかおのえき)は、鹿児島県出水市高尾野町紫引24番地にある、肥薩おれんじ鉄道線の駅である。 駅構造 鉄筋コンクリート製の駅舎を持つ相対式2面2線ホームの地上駅で無人駅。駅舎内には小さな待合室を有する。かつては有人駅で、有人駅当時の窓口跡が板貼りされた状態で残っている。 普段は終日無人駅だが、毎年3月中旬と9月23日(秋分の日)に駅近くで開催される高尾野 中の市(たかおのちゅうのいち)や8月上旬の「高尾野夏祭り」開催時には多くの来場客で駅構内が大変混雑するため、駅係員が臨時に派遣される。また、これらの催し物の開催時は米ノ津駅 – 阿久根駅間や当駅 – 出水駅・米ノ津駅間、当駅 – 阿久根駅で臨時列車が多数運行される。 のりば
駅周辺
駅前は出水市高尾野町(旧・出水郡高尾野町)の中心である。
歴史
駅名の由来[編集]開業時の地名(出水郡高尾野村)が由来。 「高尾野」の「高(タカ)」は高い土地(高天ヶ原)、「尾野(オノ)」は裾野を表す言葉で、「紫尾山(上宮山)の高天ヶ原より尾を引いて平野へ下る裾野」という意味合いから「高尾野」と言う地名が生まれたと言われる。東京都八王子市に存在する高尾山や高尾駅も由来はほぼ同じで類似している。 <ここまでの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「高尾野駅」を素材として二次利用しています> |
野田郷駅
<ここからの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「野田郷駅」を素材として二次利用しています> 野田郷駅(のだごうえき)は、鹿児島県出水市野田町下名にある、肥薩おれんじ鉄道線の駅。 NPO法人北薩倶楽部が管理する有人駅である。普段は無人駅だが、近隣に鹿児島県立野田女子高等学校があるため、平日の朝夕は通学客で大変混雑する。また、生徒の通学輸送のため、平日のみ朝に当駅止まりの下り列車が1本設定されている(折り返しは出水駅までの回送列車となる。)このため平日の朝夕ラッシュ時のみ有人駅となる。 駅構造 相対式2面2線ホームの地上駅で、1959年に建てられた旧国鉄標準タイプの鉄筋コンクリート製駅舎に出札窓口、待合室を持つ有人駅である。 国鉄時代に無人化される前は大きな出札窓口と鉄道小荷物窓口を有していたが、1986年に無人化された際に板で封鎖された。その後再び有人駅に昇格したため現在の小さな出札窓口が設置された。
2014年5月15日までは平日は7:10 – 16:55だったが、翌5月16日より営業時間が平日朝夕の通学ラッシュ時間帯のみに短縮された。ただし、毎年3月中旬に隣の高尾野駅付近で開催される「高尾野 中の市」や毎年8月に開催される「高尾野夏祭り」開催時は駅が大変混雑するため、朝8時頃から夜まで臨時に駅係員が配置される。 国鉄時代、1970年に業務委託化されるまでは現在の野田郵便局の敷地に国鉄官舎が多数建ち並び、駅員数15名の比較的大きな規模の駅であった。また、かつては貨物取り扱いも行っており、鹿児島銀行の建っている場所に日本通運の倉庫が2棟建っていた。 のりば
※メインホームは上下線共「2番線」からの発着。
歴史
駅名の由来 開業時の地名(出水郡野田村)が由来だが、この地は古くから「野田郷」の地名で親しまれていたことと、すでに大阪環状線に野田駅が設けられていたことから「野田郷駅」となった。 「野田郷」の「野田(ノダ)」は沢や湿地、「郷(ゴウ)」は里を意味しており、「沢や湿地のある里」と言う意味である。但し「郷」は薩摩藩の外城制における行政区画の名称ともなっており、野田の全域から「野田郷」という藩制上の行政区画が置かれていた。 <ここまでの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「野田郷駅」を素材として二次利用しています> |
折口駅(無人駅)
<ここからの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「折口駅」を素材として二次利用しています> 折口駅(おりぐちえき)は、鹿児島県阿久根市折口字折口東にある、肥薩おれんじ鉄道線の駅。 駅構造 相対式2面3線ホームの地上駅。無人駅である。かつては大きな待合室がある木造駅舎が建っていたが、駅舎は1980年に解体されて簡易駅舎に建て替えられ、駅舎横にあった待合室も1990年頃に解体されて現在に至る。2013年に水洗式の公衆トイレが設置された。
南側に位置する脇本地区の住宅街の最寄り駅であるため乗降客は比較的多く、特に朝夕は沿線の高校に通学する生徒で大変混雑する。また、近隣に脇本海水浴場があるため、夏休みを中心に海水浴客で賑わう。そのため、無人化後も1980年代末期までは夏季の夏休みシーズンのみ出水駅より海水浴客対応の駅係員が臨時に配置され、肥後二見駅、上田浦駅、西方駅と同様に期間限定の有人駅であった。 のりば
歴史
駅名の由来 開業当時の地名(出水郡阿久根村大字折口)が由来。古くは出水郡阿久根郷折口村であった。 この地は古くから傾斜地で海岸へ向けての坂道(降り口)が多く、「降り口」がそのまま「折口」に転化したものである。 駅周辺
駅の周辺は民家が少なく閑散としているが、駅から800m先に2つの国道が走っている。また南側に脇本地区の住宅街が広がっている。
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阿久根駅
<ここからの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「阿久根駅」を素材として二次利用しています> 阿久根駅(あくねえき)は、鹿児島県阿久根市にある肥薩おれんじ鉄道線の駅[1]。鹿児島県最西端の駅。 観光列車「おれんじ食堂」や快速「オーシャンライナーさつま」も全列車停車する。 駅名の由来[編集] 出水郡阿久根村の中心駅として設けられたのが由来。 「あくね」の古い表記は「英祢(あくね)」である。 詳細は「阿久根市#歴史」を参照
駅構造 阿久根市の公益財団法人「阿久根市美しい海のまちづくり公社」が駅管理を行う有人駅で、相対式ホーム2面2線を持つ地上駅で1番のりばと2番のりばが向かい合って存在している。 駅舎は開業時は木造平屋建ての駅舎だったが、1945年(昭和20年)8月に起きた阿久根空襲で爆弾の直撃を受けて焼失した。現在の駅舎は1949年(昭和24年)に竣工した2代目の木造建築駅舎で、正面が改装されていたものを更に2014年に改修したものである。1番のりばの裏に終点となっている2つの側線があるが、これはかつて貨物ホームだった名残であり、現在は保線用車両の留置に使われている。2000年代頃までこの側線には貨物ホームの施設がほぼ全て残っていたが、2009年にライダーハウス開業のために寝台客車を設置した際にほとんどが撤去された。 かつては単式ホーム1面1線、島式ホーム1面2線の合計2面3線構造で、2番線の隣に3番線があり、その隣に貨物列車用の側線も1線敷かれていた。3番線と側線は一部の列車の待避などに使用されていたが、貨物列車の削減などにより待避列車が減少し、末期は休車・廃車車両の留置線として使用される事が多かった。1986年11月1日ダイヤ改正以降は使用停止となり、3番線や側線に繋がるポイントレールなどは1987年内に撤去された。その後線路も全て撤去され、跡地は駐車場などに転用されている。2016年現在も川内方には3番線で使用されていた安全側線(車止め)の跡が残っている。 阿久根市の中心駅であり、国鉄やJRの駅であった頃は特急「フェニックス」・「つばめ」・「有明」、寝台特急「はやぶさ」・「なは」、急行「かいもん」・「そてつ」・「桜島」など、深夜帯に運行された臨時特急「有明」など一部の優等列車、臨時列車以外のほぼ全ての優等列車が停車していた。みどりの窓口も設置されていて全国のJR指定券が購入できていた。駅舎内にはキヨスクや居酒屋が営業しており、駅弁も販売されていた。駅前には市営の無料駐車場・市が設置した無料駐輪場がある。ホームには特急「つばめ」の号車案内が残っている。 ホームには市民グループが設置した花の植えてあるプランターが並べられている。 鹿児島本線時代から主要駅の一つであり折り返し運転も可能な構造であるが、国鉄、JR時代は工事、災害による運休や臨時団体列車での折り返し運転があった以外は定期列車での当駅止まり、当駅折り返し運転は行われていなかった。2004年に肥薩おれんじ鉄道に移管された際、3月27日から初めて当駅止まり(到着後、そのまま川内駅まで回送)となる定期の観光快速列車「海風」が設定された。しかし2005年3月1日のダイヤ改正で川内方面行きに延長され、当駅止まりの定期列車は1年と持たずに消滅した。現在は毎年3月中旬に開催される「高尾野中の市」開催時に臨時列車が当駅と米ノ津駅との間で折り返し運転されるのみとなっている。 駅舎改修 国鉄時代から使われていた駅舎は鉄製の改札口やみどりの窓口、発車標の跡が残るなど国鉄時代からの名残を色濃く残していたが、駅舎自体が老朽化していること、駅舎内に多数の鳥が巣を作り糞害が酷いことなどから2013年10月より駅舎の改修工事が始まった。 駅舎の改修は阿久根市が総事業費約2.1億円を投じて行い、2014年(平成26年)5月3日に「にぎわい交流館阿久根駅」として新装開業した。 駅舎のデザインを手がけたのは「ななつ星in九州」を手がけた水戸岡鋭治で、阿久根付近で伐採された木がふんだんに使われており、図書室、キッズルーム、多目的イベントスペースなどが設けられている。 また、待合室はホールを兼ねた構造になっており、コンサートなどにも利用可能となっている。 さらに、駅構内に出店している「阿久根屋食堂」は地元で採れる海産物をトッピングする「地魚カレー」などの地元食材を用いた料理も提供している。 阿久根市の特産品を扱う土産物屋「あくね市場」も併設されている。 営業時間 駅管理と業務は上述の公益財団法人による業務委託で、にぎわい交流館の管理運営と業務は阿久根市が行っている。かつてはにぎわい交流館は肥薩おれんじ鉄道の直営であったが2015年3月31日をもって管理を終了し、翌4月1日より阿久根市の管理となった。管理者変更に伴い、4月1日より食堂とカフェは営業を休止していたが、カフェが4月17日の昼より、食堂も5月1日より営業が再開された。
この他に多数の臨時イベントがイベントスペースで開催され、その場合は営業時間が変更となることがある。 のりば
列車は基本的に1番線停車だが、列車交換時は2番線に川内方面行きの列車が入る。ただし、一部の列車のみ列車交換なしで2番線発着の出水方面行きまたは川内方面行き列車も設定されている。 にぎわい交流館の開放時間は6時30分(土休日は7時00分)から21時00分までで、それ以外の早朝と深夜の時間帯は防犯上の理由から閉鎖され、建物横の通用口から直接ホームに入る形となる。また、自動券売機は他の有人駅と違ってにぎわい交流館内にあるため、開放時間外は乗車券は購入できない。このため、この時間帯は車内の整理券を取り、下車駅で整理券とともに運賃を支払う方式となっている。 駅周辺 海沿いに広がる阿久根の市街地の北東の端に位置しており阿久根市内の様々なスポットに近い。阿久根温泉や阿久根大島等の観光地も控えている。
歴史
新幹線開業による影響 阿久根駅は日本国有鉄道・九州旅客鉄道時代には特急「つばめ」や寝台特急「なは」・「はやぶさ」、夜行列車「かいもん」・「ドリームつばめ」が停車するなど、停車本数の多い駅であった。転換後でも肥薩おれんじ鉄道の主要駅の一つであり、土日祝日には快速列車「オーシャンライナーさつま」がこの駅に停車し、普通列車の本数は転換前よりも倍増したものの、転換前の停車本数の半数以上が特急列車であったことから全体の列車本数は若干減少している。なお、鹿児島県が、九州新幹線の開業後1年して実施した調査[7]では、利便性の悪化によって阿久根への観光客・ビジネス客の減少が見られること、また周辺住民が直接出水駅あるいは川内駅に向かうことになり阿久根の商店に打撃を与えていることが指摘されている。 同じような境遇となった例としては、北陸新幹線の一部先行開業により新幹線の駅が佐久平駅に移り、信越本線時代には特急「あさま」・「白山」が停車し、しなの鉄道への転換後は快速と普通列車のみの停車となった小諸駅[8]や、東北新幹線八戸駅 – 新青森駅開業後に新幹線の駅が七戸十和田駅に設けられたため、東北本線から青い森鉄道の転換後は快速と普通列車のみの停車となった三沢駅・野辺地駅[9]・浅虫温泉駅、そして北陸新幹線長野駅 – 金沢駅間開業後に新幹線の駅が黒部宇奈月温泉駅に設けられたため、北陸本線からあいの風とやま鉄道の転換後はあいの風ライナーと普通列車のみの停車となった魚津駅や滑川駅[要出典]などがある。 <ここまでの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「阿久根駅」を素材として二次利用しています> |
牛ノ浜駅(無人駅)
<ここからの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「牛ノ浜駅」を素材として二次利用しています> 牛ノ浜駅(うしのはまえき)は、鹿児島県阿久根市大川にある、肥薩おれんじ鉄道線の駅。 駅構造
のりば
駅周辺
かつては牛ノ浜沿いに牛ノ浜海水浴場があり、当駅は海水浴の利用客で賑わっていたが、海水浴場は1970年代に閉鎖され廃止されている。 歴史
駅名の由来 開業当時の地名(出水郡阿久根村字牛之浜)が由来。駅名を決める際、牛之浜の「之」を簡素化して「牛ノ浜」とした。 「牛ノ浜」の「牛(ウシ)」は動物の牛ではなく「岩や丸太などで作った木組みや積み上げられた石」のことであり、この木組みや石が薩摩黒牛の背中に似ていることから名づけられたもので、放牧や牧場とは関係ない。この地の海岸は古くから荒波だったため高波の被害が多かった。そこで木組みをして石を積み上げて「ウシ」を築き、海岸(浜)を守ったのがこの地の由来である。現在でもこの一帯の沿岸には「ウシ瀬」と呼ばれる当時に作られた人工岩や木組みが残っている。 <ここまでの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「牛ノ浜駅」を素材として二次利用しています> |
薩摩大川駅(無人駅)
<ここからの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「薩摩大川駅」を素材として二次利用しています> 薩摩大川駅(さつまおおかわえき)は、鹿児島県阿久根市大川にある、肥薩おれんじ鉄道線の駅。 駅構造 相対式2面2線ホームの地上駅である。無人駅で、駅舎は2階建てコンクリートブロック製の古い駅舎である。1965年(昭和40年)10月に建てられた。 線路が一段高い場所にあるため、駅舎の2階は、ホームに面した待合室となっている。待合室はかつては駅係員の宿直室と詰所であった。 川内側の分岐器はトンネルの中にあるため、トンネルの入口は複線で、出口(川内方)は単線となる。 JR九州時代は改札口を入ったところ(1番線ホームに上がる階段の前)に駅名標が設置されていた。 のりば
かつては木造平屋建て駅舎の有人駅であり、線路とホームは地上より若干高い程度の位置に設置されたごく普通の地上駅で、交換設備のない1面1線ホームであった。また、八代方の線路は1965年9月までは駅前の寺下踏切から現在の大川川から20mほど奥の集落の山側に沿った形で線路が敷かれており、川内方の線路も1973年9月までは現在とは逆で、旧線が山に沿う形で進行方向右側(海側)に向かって敷設され、国道3号のすぐ横を走り、旧尻無トンネルを抜けて再び本線に合流していた。 当駅が設置されている大川地区周辺は大雨や長雨が多いうえに土地も盆地で狭かったため、開業当初より夏場や梅雨の時期は猛烈な集中豪雨で大川川、尻無川の氾濫や大きな洪水がたびたび発生して駅周辺や構内が水没し、列車が長時間不通になるなど度重なる水害に悩まされ続けてきた。そのため1964年より当駅 – 旧尻無トンネル – 尻無川鉄橋付近の線路やホームのかさ上げ工事と列車交換用の交換設備の設置工事を行い、1965年10月1日のダイヤ改正より高架化され現在と同じ2面2線ホームになった(工事期間中の1965年1月から10月までは阿久根駅 – 西方駅間でバス代行輸送を実施した)。駅舎も水害対策のため、かさ上げ工事と同時に国鉄地方駅では珍しく大変強固なコンクリートブロック製の2階建て駅舎に建て替えられた[1]。駅舎1階に駅長事務室、出札窓口、改札口、2階に駅係員宿泊用の宿直室や信号扱者用の詰所が設けられた[2]。2階部分は1番線ホームと接合された形になっており、駅舎や周辺が水没した際に駅係員がホームに避難出来るように非常口の役割りも果たしていたが、1970年の無人化後に駅長事務室や出札窓口とともに宿直室や詰所も撤去され待合室に改装された。現在は駅長事務室や出札窓口があった箇所は板張りの壁が付けられているほか、改札口から2番線ホームに繋がる地下道に「1965-10」のプレートが掲出されている。 その後、1972年6月11日 – 12日、17日 – 18日、26日 – 27日、7月3日 – 6日と断続的に発生した大規模な集中豪雨(1972年北薩摩豪雨)で大川川、尻無川が氾濫して駅周辺が大水害に見舞われた。線路や施設は高架化されていたため水没などの影響はなかったが、6月17日 – 18日の豪雨では旧尻無トンネルのある尻無地区で大規模な土砂崩れが発生して道路や線路が広範囲に渡って埋没し、線路の仮復旧に1週間を要している[3]。相次ぐ集中豪雨で山肌や線路の地盤が弱っておりさらに大きな土砂崩れが発生する恐れや、旧尻無トンネルも地盤の緩みで崩落の恐れがあることが復旧工事時の調査で明らかになったため、山側の比較的地盤の強固な箇所にトンネルを設けて新線を敷設する大掛かりな工事を行うことにした。旧線を仮復旧させた後に現在の第二尻無トンネルの掘削工事を行い、トンネル開通後に新線への線路付け替え工事を行って1973年10月1日のダイヤ改正より使用を開始し、現在の線形になった。当駅ホームが他の駅と違って地上より高い位置に設けられていたり、川内方が大きくカーブして分岐器がトンネル内にあるなど、不自然な箇所が多いのはこのためである。 現在旧線は八代側は大半が宅地化されたり藪化したりしているものの、当時使われていた路盤や築堤の一部が道路や農道などに転用されて残っている。川内側も路盤の一部が宅地化された他は大半が藪化しているが、路盤跡、旧尻無トンネル跡、橋台跡ともほぼ当時の姿で現存しており、一部の箇所に当時使われていたレールが外されないまま残っている。ただし旧尻無トンネルの坑口は柵やコンクリートで塞がれており、中に立ち入ることはできない。 駅周辺
歴史
駅名の由来 開業当時の地名(出水郡阿久根村字大川)が由来。山合いの谷間の迫った場所に流れる川のことを「谷(セコ)」や「迫(サコ)」と言い、大川川は大きな迫だったため古代は「大迫(ウサコ)」と呼ばれていた。その後この「大迫(ウサコ)」流域に集落が築かれ「大川(ウコ)」に転化して現在の「大川(オオカワ)」になり、この地を流れる川も大川川と命名された。そのため大川の地名は古くから存在しており、江戸時代までは出水郡阿久根郷大川村であった。 駅を設置する際、既に鶴見臨港鉄道に大川駅、鉄道省には佐賀線に筑後大川駅が設けられていたため、当駅には旧国名の「薩摩」を冠して「薩摩大川駅」と命名された。 <ここまでの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「薩摩大川駅」を素材として二次利用しています> |
西方駅(無人駅)
<ここからの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「西方駅」を素材として二次利用しています> 西方駅(にしかたえき)は、鹿児島県薩摩川内市西方町にある、肥薩おれんじ鉄道線の駅。 駅構造 相対式2面2線ホームの地上駅である。無人駅。上り方に保線用の側線が設けられている。 旧国鉄時代は2面3線構造の有人駅でコンクリート製の大きな白い駅舎が立ち、上り方に貨物用の側線と貨物ホーム、駅舎の両隣に国鉄官舎が設置されていた。ピーク時であった1970年代は夏休みや連休を中心に近隣の西方海水浴場への海水浴客や川内高城温泉への観光客、湯治客で大変賑わい、優等列車が臨時停車したり西鹿児島駅方面から当駅止まりの臨時列車も数本設定されていた。1983年に無人化され官舎などが撤去されて駅構内の規模は縮小していたが、1980年代末期まで多客期となる夏季の夏休み期間中に海水浴客対応のため川内駅から応援の駅員が派遣され、上田浦駅や肥後二見駅、折口駅と同じように期間限定の終日有人駅になっていた。その後、完全無人化に伴い1988年頃に駅舎が解体されるとともに簡易待合室が設置され、2000年頃に中線が使用停止され実質2面2線となって現在に至る。使用停止となった中線はその後信号機と架線、本線に交わるポイントレール部分が撤去された状態で長年放置されていたが、2004年3月に肥薩おれんじ鉄道に移管された際に線路が完全に撤去された。 近隣に西方海水浴場があるため、夏休みを中心に海水浴客で賑わう。また、毎年8月上旬に開催される「海・ふれ愛in西方夏祭り納涼大会」の最寄り駅であるため、開催日は駅前やホームが大変混雑する。そのためJR九州から経営移管された後も2006年開催日までは当駅 – 川内間で臨時列車が1往復設定されていた。 のりば
基本的に上下列車とも1番線に入線し、列車交換を行う時のみ下り列車が2番線に入線する。2番線は出水方面・川内方面のどちらからも発着出来るが、2番線発着の上り列車は臨時列車を除いては設定されていない。 JR九州時代は2番線ホームの跨線橋のすぐ前に1927年に建てられた古い木造の待合室が残っていたが、肥薩おれんじ鉄道に経営移管されホームのかさ上げ工事が行われた際に取り壊されて撤去された。 駅周辺
歴史
駅名の由来 開業当時の地名(薩摩郡高城村大字西方)が由来。 「西方」の地名の由来ははっきりしていないが、一説にはこの地には古くから高城郡が置かれ、西方は高城郡に西の端にしていた事から「西ノ方(にしのかた)」や「西端、西肩(にしかた)」などと読まれており、それが「西方」に転化したという説や、古代の出水郡国形郷の「国形」が転訛したものに由来しているという説もある[2]。 <ここまでの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「西方駅」を素材として二次利用しています> |
薩摩高城駅(無人駅)
<ここからの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「薩摩高城駅」を素材として二次利用しています> 薩摩高城駅(さつまたきえき)は、鹿児島県薩摩川内市湯田町にある、肥薩おれんじ鉄道線の駅。難読駅名としても知られる。 駅構造 相対式2面2線ホームの地上駅である。無人駅で駅舎はない。かつては有人駅であり駅舎も建っていた。 砂浜(湯田口海岸)が近いため、2番線側(海側)には線路に砂が堆積しないように防砂林が設けられている。かつては2番線側のすぐ裏手に湯田口海水浴場がありホームからの東シナ海の景観が良く、夏季は海岸を訪れる海水浴客で大変賑わっていた。海水浴場廃止後は砂浜や防砂林は放置され、木や草が生い茂っていて海が見えにくくなっていたり砂浜が荒れていたりしたが、2013年冬頃から社員による駅の整備や防砂林の一部の木の伐採など改良工事が始まって景観が良くなり、2番線ホームに展望を兼ねたベンチが設置されたほか、湯田口海岸の砂浜に海岸沿いが一望できる展望台が設置された。無人化後、1976年に駅舎が解体撤去されてからは長年の間公衆トイレが無い駅であったが、2016年4月に国道下(かつての木造駅舎跡地付近)に公衆トイレが設置された。また2014年3月15日のダイヤ改正から観光列車おれんじ食堂が停車するようになり、同駅は観光スポットの一つになっている。 当駅は大きな曲線上にある駅のため、JR九州時代に特急列車が高速で通過できるように主本線(2番線)側の線路に大きな傾き(カント)が設置された。肥薩おれんじ鉄道に経営移管された後もカントは残っており、2番線に停車する列車は停車時に車体が大きく傾く駅である。 2016年4月7日からは毎週木曜日のみクルーズトレイン「ななつ星in九州」の停車駅になった。 のりば
海側の2番線が列車の通過が可能な主本線である。基本的に上下列車とも1番線に入線し、列車交換がある時のみ上り列車が2番線に入線する。2番線の下り列車の着発は通過列車を除いて設定されていないが、「おれんじ食堂」は上下とも湯田口海岸散策を行うため2番線に停車する。また、2番線は停車時の車体の傾きが大きいため、「ななつ星in九州」は傾きの少ない1番線側に停車していた。 駅周辺
歴史
駅名の由来 開業当時、薩摩郡高城村に設けられたのが由来。 古くは「たき」ではなく「たかき」と呼ばれていた。この地には高城郡が設けられ、薩摩国府や国分寺が置かれた。今と同じ「たき」と読まれるようになったのは、鎌倉時代以降と言われる。 この駅が開業した当時、既に日豊本線にも高城駅(大分県大分市高城新町)が設けられていた。こちらは「たき」でも「たかぎ」でもなく「たかじょう」だが、漢字が同じで紛らわしいため旧国名の「薩摩」を冠して「薩摩高城駅」と命名された。なお、同じ読みの紀勢本線の多気駅はこの当時はまだ「相可口駅」と名乗っており、「多気駅」となるのは1959年7月15日のことである。 <ここまでの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「薩摩高城駅」を素材として二次利用しています> |
草道駅(無人駅)
<ここからの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「草道駅」を素材として二次利用しています> 草道駅(くさみちえき)は、鹿児島県薩摩川内市水引町字浜田にある肥薩おれんじ鉄道線の駅。 駅構造 相対式2面2線ホームの地上駅である。国鉄時代は有人駅で、無人化後も1980年頃までは木造平屋建ての駅舎が建っていた。 のりば
駅周辺
歴史
駅名の由来 開業当時の地名(薩摩郡西水引村字草道)が由来。 この地は草原で獣道が多かった事から「草道」と言う地名になったが、1951年(昭和26年)に水引村が川内市に編入される際に大字草道の区域は川内市水引町、同市湯島町に分割され「草道」という地名は町・字名からは消滅した[2]。現在は駅のすぐ横を流れる草道川にその名残を留めているのみである。 <ここまでの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「草道駅」を素材として二次利用しています> |
上川内駅(無人駅)
<ここからの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「上川内駅」を素材として二次利用しています> 上川内駅(かみせんだいえき)は、鹿児島県薩摩川内市御陵下町にある肥薩おれんじ鉄道線の駅。 歴史
駅名の由来 川内駅や川内川の上部(北側、北岸)に設けられた事が由来。 古くはこちらが「川内」であり、川内駅のある川内川南岸は「川外」と呼ばれていたと言う。 駅構造 相対式ホーム2面2線の地上駅。鉄筋コンクリート製の駅舎がありJR九州時代は有人駅であった。近隣に県下有数のマンモス校である鹿児島県立川内高等学校があり、朝夕は通学生で大変混雑したため、朝夕ラッシュ時を中心に当駅から西鹿児島駅(現・鹿児島中央駅)方面への折り返し列車が多数運行されていた。 1952年に建築された比較的大きな駅舎が建っており、国鉄・JR九州時代は元の駅長事務室には鉄道小荷物窓口と出札窓口が設けられていたが、JR九州時代末期には使用されておらず、小荷物窓口や出札窓口は大型掲示板などで封鎖されていた。このため改札口に隣接している小さな部屋に「JR券発売コーナー」と称した簡易(臨時)出札窓口を設けていて、平日と土曜のみ駅係員1名が隣の川内駅より助勤扱いで派遣されていた。有人時間帯は改札口には簡易ボード式の発車時刻表が設置され、窓口では休日祝日と夏休み、冬休み、春休みなどの休校日を除いた平日の朝から夕方(土曜日は朝から昼まで)に限り、駅係員が定期券、常備券、補充券を手売りで発売していたが、2004年3月13日の肥薩おれんじ鉄道への経営移管の際に完全無人駅化[2]された。経営移管以降は発車時刻表は撤去され、窓口も閉鎖された。元の駅長事務室跡には電気治療院が入居し、実質的な駅舎管理を行っている。 当駅と川内駅の間には約250mの長さの川内川橋梁が存在するため、台風などの悪天候や自然災害発生時は川内方面列車は当駅で折り返し運転をすることがある。その場合は臨時に駅係員が配置される。 近隣に新田神社があるため、JR九州時代の当駅の駅名標には新田神社の鳥居を模したオブジェを用いたユニークな駅名標が使用されていたが、肥薩おれんじ鉄道に移管されホームが嵩上げされた際に撤去された。 のりば
<ここまでの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「上川内駅」を素材として二次利用しています> |
川内駅
<ここからの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「川内駅」を素材として二次利用しています> 川内駅(せんだいえき)は、鹿児島県薩摩川内市鳥追町にある、九州旅客鉄道(JR九州)・日本貨物鉄道(JR貨物)・肥薩おれんじ鉄道の駅である。 概要 JR九州の九州新幹線(鹿児島ルート)と鹿児島本線、肥薩おれんじ鉄道の肥薩おれんじ鉄道線の3路線が乗り入れ、接続駅となっている。 旅客駅においては、かつては肥薩おれんじ鉄道線も鹿児島本線の一部でありJR九州の単独駅であったが、2004年の九州新幹線開業による並行在来線の経営分離により、現在はJR九州と肥薩おれんじ鉄道が駅構内を共用する共同使用駅となっている。 乗り入れ路線と列車の設定[編集] 新幹線は、速達型の「さくら」と各駅停車の「つばめ」の全列車が停車する。日中は主に「さくら」が1時間あたり2本停車し、この2本の「さくら」のうち熊本駅 – 鹿児島中央駅間を速達運転する列車と、この区間を各駅停車として運行する列車が交互に停車する。最速達型列車の「みずほ」は停車しない。 肥薩おれんじ鉄道線の列車は、土日祝日に運行される快速「オーシャンライナーさつま」と、普通列車の上下10本(土休日は上下8本)が隈之城駅に乗り入れる他は全て当駅発着となる。また、JR九州の車両は肥薩おれんじ鉄道線には乗り入れず、すべて当駅発着となる。鹿児島本線では朝と夜間に特急「川内エクスプレス」が1往復発着していたが、2016年3月26日のダイヤ改正で廃止となった。 また、九州新幹線の一部開業に伴うダイヤ改正から、鹿児島本線下り(串木野・鹿児島中央方面)最終列車の時刻が大幅に繰り下げられた(九州新幹線開業前21時台半ば→開業後23時台後半まで)。ただ、全体の運転本数はほぼ半減することとなった。また、同線上り最終の普通列車について、当駅終着時刻は新幹線開業時まで日付を跨ぐことはなかった(新幹線開業直前23時54分→新幹線部分開業当時0時30分。現在0時41分。)。 歴史
駅構造 新幹線・在来線共に地上駅で、橋上駅舎を備える。九州新幹線の駅としては唯一の地上駅である。新幹線ホームは相対式ホーム2面2線、在来線・肥薩おれんじ鉄道ホームは島式ホーム1面2線で、南半分が1番のりば・2番のりば(JR鹿児島本線)、北半分が3番のりば・4番のりば(肥薩おれんじ鉄道)となっている。この他、駅本屋側には使用されていない単式ホーム1面1線が存在する。新幹線は鹿児島中央方で川内新幹線車両センターへの引込線が伸びている。 1987年の宮之城線廃止以前は、在来線側は上記のホームの他に同線の発着に使用するホームが1面設けられた3面5線の構造であり、さらにその外側に貨物側線群が設けられていた。貨物側線は、国鉄時代末期の貨物取扱い縮小により列車留置線に転用され、宮之城線ホームは、同線廃止後は鹿児島本線のホームとして使用された。JR九州移行後も新幹線の建設まではほぼそのままで使用されていたが、その後新幹線建設に伴い旧宮之城線ホームは撤去され、留置線も川内川付近に移転し、旧宮之城線ホームと留置線跡地に新幹線の線路やホームなどの施設が設けられた。2004年3月の新幹線開業時には駅舎の橋上化が行われたほか、鹿児島本線当駅以北の肥薩おれんじ鉄道への経営移管に伴い旧1番線ホームの使用が停止され、上記の構造となった。旧1番線ホームは現在もホームの一部、線路、架線が当時のまま残っていて本線とも繋がっているものの、旧駅舎や跨線橋は全て取り壊されていて旅客通路からは分離されているためホームに立ち入ることが出来ず、出発信号機や入換信号機も使用停止を示す×形の板が取り付けられている。 肥薩おれんじ鉄道 肥薩おれんじ鉄道側も有人駅で、在来線ホーム八代方(上り方)に肥薩おれんじ鉄道線の乗り場には駅舎と出札窓口、改札口(連絡改札口)、待合室が設けられており、こちらは肥薩おれんじ鉄道から業務を委託されている株式会社「薩摩川内市観光物産協会」の社員(駅係員)が改札・集札業務や乗車券の販売、駅管理業務などを行なっている。肥薩おれんじ鉄道の駅舎はJR鹿児島本線からの乗客の乗り換えの利便性を考慮して開業時に設置されたもので、運転士の休憩室(詰所)も設けられている。 この駅舎の出札窓口には自動券売機やPOS端末などは設置されておらず、乗車券を購入する場合は全て常備券か出札補充券での発行となる。また早朝と夜間は無人となるため、無人時間帯はJR線改札口に設置された自動券売機で乗車券を買うか、車内で発行される整理券を取り、下車駅で運賃を支払う。 かつてのJR九州時代は駅舎付近に待合室やキオスクなどが設けられていたが、2004年の肥薩おれんじ鉄道の開業時に全て撤去され、駅舎が建てられた。
JR鹿児島本線ではIC乗車カード「SUGOCA」の利用が可能である(相互利用可能ICカードはSUGOCAの項を参照)が、九州新幹線(当駅 – 鹿児島中央駅間含む)および肥薩おれんじ鉄道線での利用はできない。 新幹線・在来線・おれんじ鉄道ともに夜間滞泊が設定されている。 のりば
1番線と3番線は同一ホーム上にあるが線路は分断され、列車の直通は不可能。使用停止となっている旧1番線、同一ホームである2番線と4番線、側線の5番線の線路は繋がっており、貨物列車など両社を直通する列車は2番線、4番線、5番線を通過する。出水方には留置線が3線設置されている。
駅構内風景
駅周辺
<ここまでの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「川内駅」を素材として二次利用しています> |
肥薩おれんじ鉄道の紹介動画
肥薩おれんじ鉄道プロモーションムービー【本篇1】
肥薩おれんじ鉄道プロモーションムービー【本篇2】
肥薩おれんじ鉄道プロモーションムービー【ダイジェスト篇】
列車の全体像
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