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ごろう君 北海道標津郡標津町(しべつちょう)を旅する
佐賀県に住む陸奥 五郎(むつ ごろう)君。スマホの「ランダム行先決定ツール」というアプリを使って、気ままな『ネットDEダーツの旅』を楽しんでいます。さて、本日の行先は?
『北海道標津郡標津町(しべつちょう)』です。北方領土と鮭と酪農の町、標津町。どんな発見があるのでしょうか。
北海道標津郡標津町の旅ルート(下の日本地図をクリックすると動画が出ます)
スタートは、標津町役場前から
思いっきり大自然を体感できそうな町、標津町にやってきました。標津町役場前の光景も、なんかゆったりした雰囲気を感じます。
標津町ってどんな町?
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標津町の語源
標津町はアイヌ語で「シ(大きい) ベツ(川)」を意味しており元禄年間に松前藩から幕府に差し出された絵図には「ちべ内」と記され、明治2年に標津の漢字が当てられています。
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標津町の沿革
標津町は、明治12年4月に標津外6村戸長役場が置かれたことに始まりました。明治17年には野付郡茶志骨村を編入し、同19年に根室支庁管轄となっています。明治34年には「植別村」(現在の羅臼町) が分離独立し、大正に入ってからは12年に戸長役場を標津村役場と改称されました。昭和に入ると、6~7年の大凶作、12年の国鉄標津線開通(平成元年4月29日廃止)20年の終戦を経て戦後の21年に「中標津村」が分村、33年に標津町となりました。平成11年には、標津町誕生120周年を迎えています。
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標津町の地勢
標津町は北海道の最東端、根室支庁管内の中心部に位置しています。標津町を中心にちょうど両腕を出すように、左手に日本最後の秘境といわれる知床半島が、右手にはノサップ岬を先端とする根室半島が延びています。正面はオホーツク海に面し、洋上わずか24km先には近くて遠い島国後島が、その大きな姿を見せています。 また、日本一の砂嘴(海岸から沖に出た砂の陸地)野付半島が本町を基部として延びているほか、背後に広大な牧場が広がる根釧原野を擁するなど、本町は風光明媚な地です。
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標津町の面積
624.68平方キロメートル(山林原野その他74.3% 畑地19.5% 牧場5.0% 宅地0.6% 雑種地0.6%)
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標津町の人口
昭和40年8,051人(国勢調査)をピークに減少を続け、平成22年には5,646人(国勢調査)となっています。さらに現在は、全国的傾向である出生率の低下や官公署の統廃合、若年層の流出などにより、住民基本台帳では5,600人前後の状況が続いています。
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豊かな森林の恩恵を受け漁業と酪農で発展してきた標津町
標津町は古くからサケを中心とする漁業により開けてきました。明治時代後半から大正時代にかけて、入植者による開拓がすすみ、以降、豊かな海と大地を生かした「生産の町」として発展してきています。
アイヌの不思議な話がいっぱい ~標津伝説~
面白いことに、標津町役場のホームページには、「標津伝説」として、
- ―金山の謎の財宝― 朝日さす夕日さす
- ―へびの恩返し― 青姫明神
- ―シベツのチャシ― エリモンクル伝説
- ―チャチャ岳の神話― ワシと熊の戦い
- ―カンナン・カムイ― 千島列島を作った大男
- ―山の神の争い― 逃げだしたカムイヌプリ
- ―哀愁のアッカンベッ― ユリカとラフシュイの恋
- ―野付半島の龍神岬― 波にのまれた宗平
の8話が紹介されています。どれも不思議な内容の民話です。ちょっと興味深かったのは、―野付半島の龍神岬―「波にのまれた宗平」という悲話です。話の舞台である「龍神岬」をみてください。本当に龍神を思わせる地形ですね。
標津サーモン科学館
標津サーモン科学館は、”サケ”の水族館です。世界に生息しているサケの仲間18種30種類以上を展示しており、サケ科魚類展示数は国内で一番多い施設です。
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- 施設紹介
- 大水槽
標津サーモン科学館のメイン水槽の一つで、容量110キロリットルの海水の大型水槽です。ここには世界中のサケ科魚類ばかりでなく、ホッケなどの根室海峡に生息する魚たちも展示されています。 - 中水槽
中水槽 8キロリットルの3つの水槽があります。シロザケ、カラフトマスの未成魚、サクラマス、ミヤベイワナ、レイクトラウトなどが展示されています。 - 魚道水槽(クリックするとビデオが再生されます)
標津サーモン科学館のメイン水槽の一つです。魚道水槽は季節によって見られる魚が変わります。2〜8月はシロザケの稚魚、ヤマメ等の群泳が見られます。9〜10月は標津川に回帰したシロザケ、カラフトマス 、サクラマスの遡(そ)上の様子がガラス越しに見られます。11月にはシロザケの産卵行動が観察できます。1日に1〜3回ほど産卵させるようにしています。運が良ければ産卵の瞬間が見られるかもしれません。 - 川の広場
幻の魚イトウの生態がわかる「イトウコーナー」をはじめ、話題の「チョウザメ指パク体験」、また、「えさやり体験」など、川や湖で生活するサケ科の魚などの観察だけでなくここでしか出来ない楽しい体験もできます。 - 稚魚コーナー
稚魚コーナー 20種類のサケ科の魚の卵、仔魚、稚魚を展示しています。10〜11月、2〜3月まではシロザケ、カラフトマス、サクラマスなどのふ化の瞬間が見られるかもしれません。 - 観覧橋
観覧橋 標津川のウライ(捕獲施設)にかかった橋です。8月中旬から11月中旬にかけて一般開放されています。シロザケやカラフトマスなどの豪快な遡上の様子を見ることができます。 - サケ展示室
サケ展示室 「サケの生態」「サケの回遊」「標津のサケ漁業」「サケと人間」をテーマに模型、写真、パネルなどで解説されています。 - サケ映像室
サケ映像室 サケの誕生から回帰までをスライド、ビデオで紹介されています。上映時間は12分間。 - サケ談話室
サケ談話室 多目的集会室です。サケ科魚類や生態学についての図書も充実しています。 - 展望室
展望室からの眺め 地上30mの高さから、知床連山、国後島、標津川など標津周辺の雄大な景色が見られます。
- 大水槽
- 入館料金
料金 個人 団体(20名以上) 年間パスポート 一般 610円 480円 2,000円 シルバー(70歳以上) 500円 400円 1,500円 高校生 400円 320円 1,000円 小中学生 200円 160円 500円 ※障害者手帳等のご提示で団体料金が適応されます
- 開館時間
9 : 30 〜17 : 00(入館受付は16:30まで) - 開館期間
2月1日〜11月30日(5〜10月は無休)。2、3、4、11月は水曜日休館。ただし水曜日が祝日の場合は翌日休館。12月〜1月は閉館。 - 標津サーモン科学館
〒086-1631 北海道標津郡標津町北1条西6丁目1番1-1号 TEL(0153)82-1141 FAX(015)82-1112
- 施設紹介
ポー川史跡自然公園
歴史民俗資料館と開拓の村を備えた公園入口エリア。氷河期の生き残りといわれる湿原性植物が花を咲かせる国指定天然記念物標津湿原、約10,000年に及ぶ人類の足跡を刻む国指定史跡伊茶仁カリカリウス遺跡の3つのセクションからなっています。
総面積約630ヘクタール。日本最大の山岳湿地尾瀬ヶ原と同等の面積を有し、知床周辺の歴史、文化、自然が融合した野外博物館としての機能をもつ公園です。
ポー川史跡自然公園の見どころ
国指定天然記念物 標津湿原
日本最大の山岳湿地尾瀬ヶ原の3分の1の広さをもつ高層湿原です。毎年5月~7月上旬にかけて、氷河期のツンドラ植物の生き残りともいわれる湿原性植物が花を咲かせます。これら植物は本州では2000m級の山に生育する高山植物に分類されますが、ここでは僅か標高3mの低地で見ることができます。特に北海道でも高山の上など限られた場所でしか見ることのできないエゾゴゼンタチバナが、国道からすぐ側の木道沿いに群生する様を見ることができます。
ヒカリゴケ
場所によっては天然記念物にも指定されているヒカリゴケが、カリカリウス遺跡の復元住居の中で、緑の蛍光色に光る様子を見ることができます。(5月中旬~11月頃まで)
ミズナラの巨木
樹齢数百年、園内に遺跡を残した先人がまだ生きていた時代から育つミズナラの木が、森の各所で目にできます。幹の直径は160cmあり、年間2㎜しか大きくならない寒冷地では最大級の木です。
国内最大級のヒグマ剥製
現存するヒグマ剥製の中でも最大級のものが、当園歴史民俗資料館内で公開されています。食物連鎖の頂点に立つヒグマ。そのヒグマの中でも特に大きいとされる知床周辺に生息するヒグマの迫力を間近で感じてみてください。
窪んだままの竪穴住居跡
国内最大の規模を誇る竪穴住居跡群です。南の地域では埋もれてみえない縄文~擦文時代の竪穴住居跡が、地表面から明瞭な窪みで観察できます。文字を持たなかったアイヌ文化の数千年に及ぶ足跡を目の当たりにし、悠久の時の流れを感じてみてください。
標津番屋屏風絵(複製)
江戸時代末期の標津の様子を描いています。まだ写真のない当時の漁場の様子を描いた絵としては唯一無二のものです。現在の北海道は、数千年に及ぶアイヌ文化の歴史の上に、19世紀以降本格化した移住者による開拓の歴史が重なってつくりあげられています。この屏風絵は、アイヌ文化と開拓それぞれの歴史の接点が描かれた貴重な資料です。
利用案内
開園期間:4月29日(昭和の日)~11月23日(勤労感謝の日) ※開園期間中は無休
開園時間:午前9:00~午後5:00(入園は午後4:30まで)
入園料 :一般 310円、高校生・大学生 100円、中学生以下 無料
※団体は20名以上半額となります。
お問合せ
〒086-1602 北海道標津郡標津町字伊茶仁2784番地 ポー川史跡自然公園
Tel/Fax :0153-82-3674
E-mail :po-gawa@shibetsutown.jp
アクセス
・ウトロから100km ・羅臼から50km ・野付から26km ・根室から90km
・釧路市街から 120km ・中標津空港から23km ・釧路空港から160km
・女満別空港から 140km ・標津市街地から羅臼方面に約4km
北方領土館
北方領土館とは
北方領土館は、昭和54年、社団法人 北方領土復帰期成同盟が、国後島を目前に臨む標津町に建設した施設で、北方領土の歴史や返還運動の歩み、北方領土の産業や生活などの貴重な資料が展示されています。
北方領土問題とは
北方領土は日本固有の領土ですが、現在は日本人は一人も暮らしていません。ロシア人が2万人程住んでいます。
北方領土の歴史
1945年(昭和20年)、日本がポツダム宣言を受諾したあとに、ソ連軍(第2極東軍)が侵攻。千島列島から領土を制圧し始め、9月5日までに択捉、国後、歯舞群島を不当に占拠したのです。
北方領土は、日本の先祖が汗水を流して築いた地であり、一度も外国の領土となったことがない日本固有の領土なのです。
占領された島々
第2次世界大戦で日本が敗戦し、昭和20年8月15日「ポツダム宣言」を受諾ました。その直後、ソ連軍は、千島列島を次々と南下し、8月18日から9月5日までに全ての島を占領していきました。その兵力は、9,440名であったといわれています。
島で生活していた方々は 17,291人。ソ連軍から暴行略奪から逃れるために、わずかな身のまわり品をもって樺太を経由してたいへんな苦労をして本土に避難しました。なかには、暗やみのなか小舟で島を離たものの、途中荒波の犠牲になった方もおられます。
北方領土 | 面積 | 比較 |
歯舞群島 | 100平米 | 礼文島(81平米)より広く、小笠原諸島(104平米)に近い。 |
色丹島 | 253平米 | 島根県隠岐諸島(242平米)よりだいぶ広い。 |
国後島 | 1,499平米 | 佐渡島(854平米)の約2倍くらい。沖縄本島(1,199平米)より大きい。 |
択捉島 | 3,184平米 | 鳥取県(3,507平米)の約90% |
合計 | 5,036平米 | 千葉県(4,934平米)の広さ |
北方領土返還運動
日本固有の領土である国後島、択捉島、色丹島、歯舞群島は、私たちの祖先から代々引き継いできた地であり、これを再び手に取り戻そうと根室の地から返還要求の声が叫ばれたのは、終戦の秋頃からでした。
当時の根室町長安藤石典氏は、島からの引揚者の援護に全力をあげるとともに、昭和20年12月1日には連合軍最高司令官マッカーサ一元帥あてに北方領土返還についての陳情書を出しました。これが北方領土返還運動のはじまりです。
根室からあがった返還要求の声は、やがて北海道内の各地にこだまし、運動の輪はしだいに広がりを見せ、昭和25年にはいろいろな団体と道内自治体が一緒になって「千島及び歯舞群島返還懇請同盟(後の社団法人北方領土復帰期成同盟)を発足させ、昭和30年には元居住者たちも自分達の父祖の地を返してもらおうと「千島列島居住者同盟(後の社団法人千島歯舞諸島居住者連盟)」を発足させました。これらの団体は、政府への陳情をはじめ各地での住民大会、講演会、北方領土展、署名などを展開し、領土の返還に対する世論を盛んにするための運動を展開しておられます。
北方領土返還交渉の歩み
戦後50年が過ぎ、半世紀に亘北方領土について今一度正しい歴史を学び、返還運動に取り組まなければならない時期にあります。
1956年(昭和31年)日ソ共同宣言が署名され、国交が再開されてから既に39年が経過、一貫して、北方領土の解決と平和条約締結を働きかけてきました。
1991年(平成3年)4月には、ゴルバチョフ大統領が来日し、18年ぶりに日ソ首脳会議が行われ、両国間で領土問題存在が認識されました。その年の8月にソ連は政変し、ついに12月には崩壊、新たにロシア連邦が樹立され、領土交渉は、新政府との間で今なお継続中です。
北方領土返還交渉の主なできごと
年 | 出来事 | 内容 |
1855年(安政元) | 日露通好条約締結 2月7日 |
択捉島とウルップ島との間を国境とし、樺太には境界を設けない。 |
1875年(明治8) | 樺太千島交換条約 5月7日 |
クリル諸島が日本領となる。 |
1905年(明治38) | 日露講和条約(ポーツマス条約) 9月5日 |
北緯50度以南の南樺太が日本領となる。 |
1940年(昭和16) | 日ソ中立条約調印 | 互いの領土保全と不可侵を約束(5年間の摘用) |
1945年(昭和20) | ヤルタ協定 2月11日 |
ルーズベルト、チャーチル、スターリンの三国首脳が、ソ連が対日参戦を行った場合の報償を定める。樺太南部の変換、千島列島の引渡しなど、(日本の参加してない協定であり法的効果はないとの公式見解) |
ソ連、日本に宣戦布告 8月8日 |
日ソ中立条約は、5ヵ年の有効期限があるのに無視したもの | |
ポツダム宣言受託 8月15日 |
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ソ連軍による千島全島の占領 8月18日~9月3日 |
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1947年~1949年 (昭和22~24) |
四島住民の強制的退去 | 当時四島には17,291人(3,123世帯)が居住していた。住民は小船で脱出、その他の人は拘留生活の後、強制的に退去。 |
1951年(昭和26) | サンフランシスコ平和条約 9月8日 |
ソ連は、調印せず。日本は、千島列島の権利、権限を放棄 |
1956年(昭和31) | 鳩山首相訪ソ、日ソ共同宣言調印 10月9日 |
この第9項に「日ソ平和条約締結後に歯舞群島、色丹島を返す。」とある。 |
1973年(昭和48) | 田中首相訪ソ、日ソ共同声明(モスクワ署名) 10月10日 |
北方領土問題は、平和条約の締結によって、処理されるべき問題であることを確認 |
1991年(平成3) | ゴルバチョフ大統領訪日、日ソ共同声明(東京署名) 4月18日 |
歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島の北方四島が平和条約において解決されるべき問題であることが文章上で明確され、加えて日ソ両国国民間の相互の広範囲で自由な往来を通じての善隣が平和的解決につながることなど確認された |
日ソ往復書簡 10月14日 |
ビザ(査証)なし相互往来拘留という新しい枠組み設定確認、同月29日政府閣議了承 | |
1992年(平成4) | 北方四島在住ロシア人とのビザなし交流始まる 4月22日第1陣花咲入港 |
北方領土返還を進めるにあたり、相互交流の中からその雰囲気づくりをし、早期問題解決の一助とするもの |
1993年(平成5) | エリツィン大統領訪日、東京宣言 10月13日 |
領土問題は、歴史的、法的事実に立って、「法と正義」を基礎として解決する問題と、交渉指針を示す。 |
【標津町ホームページ「もっと知ろう北方領土」より転載】
北方領土の日
「北方領土の日」は、1855年2月7日の日露通好条約(日露の国境を択捉島とウルップ島の間と定めたもの)の調印の日にちなんで昭和56年1月の政府閣議において決定したものです。北方領土の日制定に伴って全国の都府県に返還のための県民会議が組織されました。
この2月7日の北方領土の日には、東京をはじめ全国各地で北方領土返還要求大会などが開催され、北方領土原点の地根室管内では、北方領土返還要求根室住民大会・一市四町の中学生による少年弁論大会を開催、根室地域からの返還運動の発信は、今や全国に広がっています。
ビザなし交流
平成4年4月から始まった北方四島とのビザ(査証)なし交流事業は、平成3年4月当時の海部内閣、ゴルバチョフ大統領による日ソ首脳会談の協議結果により設定された両国間の新しい枠組みとして、今日まで実施され、平成8年末までの相互交流の人数は、日本側、四島側各1,800名が相互訪問しており、日露相互の交流、ふれあいによって領土問題の平和的解決への雰囲気づくりを図ることを目的に実施される事業です。
北方領土返還要求署名
昭和40年8月に始めた署名活動はいま7千万人を目標に行動展開中で千島歯舞諸島居住者連盟を中心に、全国キャラバン、北海道キャラバン隊を組織し、現在は元居住者はもとより2世3世の方々が一生懸命活動しておられます。
北方領土館の施設概要
所在地:北海道標津郡標津町北2条東1丁目1-14
オープン:昭和54年12月3日
建設:社団法人 北方領土復帰期成同盟
管理者:標津町(受託)
開館時間:5月~10月は 9:00-16:00、11月~4月は 9:00-15:00
休館日・定休日:月曜日(祝日の場合は翌日、7月~10月は無休)、年末年始
主な展示物:北方領土の歴史、産業と生活、返還要求運動のあゆみ、北方領土の生息動物、ビザなし交流
北海道標津郡標津町の旅マップ
スマホアプリ 『ランダム行先決定ツール』とは?
ごろう君が、『ネットDEダーツの旅』のツールとして使っているのは、『ランダム行先決定ツール』というスマホアプリ。出かけたい地域(県)を指定し【行き先決定】ボタンを押すと、任意の場所が表示されます。無料で利用できます。
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