通称 ぼたもちさん(立花闇千代・たちばなぎんちよの墓)
「ぼたもちさん」は熊本県長洲町にある立花闇千代(たちばなぎんちよ)の墓です。この名称は、墓石の形状がぼたもちに似ていることからきています。
『立花闇千代(たちばなぎんちよ)って誰?』
立花宗茂の正室であった「光照院」。誾千代は通称です。誕生は永禄12年(1569年)の8月13日と言われています。「誾千代」という名前は、肥前加瀬の高僧増吟によるものという記録があるようです。天正3年(1575年)5月28日、数え年わずか七歳の娘誾千代は、立花城(現在の福岡県新宮町)の女城主となりました。この誾千代の婿として望まれ、立花城に入ったのが立花宗茂でした。誾千代と宗茂の婚儀は天正9年(1581年)8月、誾千代は数え年13歳、宗茂は15歳のときでした。6年間つとめた立花城主という役目は夫となった宗茂に引き継がれることになります。
天正13年(1585年)9月、誾千代の父戸次道雪が筑後北野の陣で没します。誾千代17歳の時です。当時すでに九州の統一をもくろむ島津氏の脅威が南から迫っており、翌14年7月末には、立花城は島津軍から包囲されました。開城を要求する島津方に対し、立花方は20日間近く籠城します。この間、誾千代も決死の覚悟で城を護ったことでしょう。
その後、秀吉の九州平定により、立花家は大友家から独立し、筑後柳河に新たな領知を与えられます。誾千代は幼少の頃から慣れ親しんだ立花城に別れを告げ、天正15年(1587年)6月17日に、柳河入りを果たしました。
関ヶ原の合戦によって立花家が改易されると、誾千代は他の家臣共々加藤清正のもとに身を寄せ、ここから肥後領内玉名郡腹赤村に居住が始まりました。しかしながら、関ヶ原合戦から2年後の慶長7年(1602年)10月17日、誾千代は同村において亡くなっています。享年は34あるいは35と伝えられ、法名は「光照院殿泉参良清大禅定尼」です。元和6年(1620年)、柳川再封を果たした立花宗茂は、城下に良清寺を建立し誾千代の菩提を弔いました。
それでは、立花誾千代の夫 立花宗茂とは?
立花宗茂は、永禄12年(1569年)、大友家の将高橋鎮種(紹運)の長子として生まれました。幼名千熊丸、実名は統虎・宗虎・親成・尚政・政高・俊正・宗茂とたびたび改めています。戸次道雪に望まれ、養嗣子に迎えられたのは天正9年(1581年)のこと。当時道雪は紹運とともに筑前筑後の各地で反大友勢力と戦っていため、宗茂は立花城の守備を任されていたようです。天正13年(1585年)9月、道雪が筑後北野の陣で没した後、九州の統一をもくろむ島津氏の脅威が南から迫り、翌14年7月末には紹運の護る筑前岩屋城が陥落、紹運も敗死します。その後島津軍は立花城を包囲し立花山城籠城は20日間近くに及びますが、程なく島津勢は包囲をとき、10月にはいると大友宗麟の要請をうけた豊臣秀吉の先遣として中国の毛利勢が九州にはいります。こうして立花城は落城の危機を脱し、宗茂は秀吉のもとで島津攻めに加わることになります。結局、秀吉が九州を平定しますが、この結果、立花宗茂は大友家から独立し、天正15年(1587年)6月に筑後国内(山門・三潴・下妻の三郡)に領知を得、柳川に城地を定めます。入城後家臣に知行地を与え、また豊臣政権の諸政策を実施しながら領国経営につとめますが、文禄4年(1595年)いわゆる「太閤検地」の結果、三潴郡北部がはずれその代わりに三池郡北部が加わりました。また本格的な柳川城整備に乗り出します。恐らくは文禄5年(1596年)ころから、天守閣の建造を含めた、柳川城の本格的な改修を開始しています。ちなみに三の丸から、本丸に隣接する二の丸に架設されていた通称欄干橋の擬宝珠には慶長4年銘の陰刻がのこっています。また、文禄・慶長の朝鮮出兵にも従軍しました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦にさいして、宗茂は西軍(豊臣方)につきます。薩摩の島津義弘は『立花勢は知行高から言うと千三百人程の軍勢になるが、豊臣秀頼に対する忠節から四千人の軍勢を率いている』と述べたと伝えられています。近江国大津城の京極高次が東軍へ寝返ったため、宗茂は大津城攻めに加わり城を奪取しますが、そのため関ヶ原合戦には参加できませんでした。敗戦の報に接した宗茂は大坂城へ入城するものの、結局柳川へ帰ります。柳川では肥前の鍋島直茂や肥後の加藤清正と対峙し、鍋島勢とは八院付近で戦いました。
しかし、加藤清正の要請を受け入れて開城することになります。妻誾千代や他の家臣の多くは加藤清正のもとへ預けられ、加藤清正自身は少数の家臣とともに上洛、徳川家康の許しを得るのを待つこととなりました。この浪牢は慶長11年(1606年)、奥州奥州南郷の地(現・福島県棚倉町付近)に一万石ながら(のち三万石)大名としての返り咲きを果たすまで続くようです。そして両度の大坂の陣に出陣しています。関ヶ原合戦後筑後一国を領有したのは田中吉政でしたが、吉政の子忠政が元和6年(1620年)に無嗣のまま没すると、田中家は改易されます。その後、北筑後は有馬豊氏、南筑後は立花宗茂に与えられることとなりました。宗茂は旧領に復帰することになりました。柳川八十万九六四七石で再封された宗茂は、加藤家へ預けていた旧家臣団を呼び戻すなどして家臣団を再編し、領国支配を進めました。
寛永6年(1629年)以後、次第に権限を忠茂へと移譲していきます。しかし寛永14年(1637年)の嶋原の乱では、将軍家光の命により下向し、戦闘に参加しています。正式に隠居を許されるのは寛永15年(1638年)で、家光の相伴衆に加えられ、法体となり「立斎」と号しました。この年は、初めて将軍家光を下屋敷へ迎えた年でもありました。
立花宗茂は、寛永19年(1642年)11月25日、享年76歳にて没しました。遺骸は江戸下谷の広徳寺に葬られ、号は「大円院殿松蔭宗茂大居士」です。
立花宗茂は、武芸や文芸に通じた人でもありました。剣法は、文禄5年(1596年)10月に、丸目蔵人頭長恵から免許されたことが知られます。また宗茂が射芸にも堪能であったようです。天正18年(1590年)5月吉日付で、尾村甚左衛門尉連続から免許をうけていましたが、さらに慶長6年(1601年)10月24日には中江新八から、同7年の3月26日と7月朔日には吉田茂武から、日置流弓術について免許されています。
文芸においてや、連歌に通じるほか、茶や香道にも明るかったようです。そのほか、蹴鞠の飛鳥井雅春から「鞠道」の門弟として「紫組之冠懸」を免許され、「狂言」の巧者でもありました。
加えて、秀忠や家光の「御咄衆」に加わっていることから、その話術も長けていたのでしょう。
ぼたもちさん(誾千代) 関連情報
ぼたもちさん を知るお勧めサイト
立花家17代にあたる立花宗鑑(むねあき)様が立ち上げてくださっている「立花十七代が語る立花宗成と柳川」というサイトは、立花家のことを詳しく、分かり易く解説されています。
夫婦別居していた!? 立花宗茂と誾千代
柳川藩主立花宗茂の正室であった光照院、通称誾千代は、別名「宮永殿」とも称されており、その由来は、誾千代が宗茂の柳川入城後、城下宮永に居館を設けて住んだことから来ているようです。現在は、その居館の跡は残っておらず、屋敷があったと推測される場所に、そのことを示す石碑が建っています。ただ、なぜこうした誾千代の「別居」が存在したのか、気になるところですね。
どちらも気性の激しい立花宗成と誾千代は、似た者どおしで夫婦仲は良くなかったとされています。別居の理由は、立花宗茂が側室を迎えようと知った立花誾千代が激怒したからという「不仲説」や、逆に、子ができなかった立花誾千代が、自ら別居する事で、立花宗茂が側室を迎えやすくしたとする「内助の功 説」など、さまざまな憶測が飛び交うものの、詳しいところは分かっていないそうです。
「ぼたもちさん」とは、お墓の形状から名付けられた通称
立花誾千代の墓「ぼたもちさん」は、熊本県長洲町にある誾千代の墓です。この名称は、墓石の形状がぼたもちに似ていることからきています。
立花誾千代の墓が、なぜ柳川ではなく長洲町腹赤にある?
宗茂が関ヶ原の合戦で西軍に味方し敗れた後、誾千代は他の家臣ともども加藤清正のもとに身を寄せたのです。それが、肥後領内玉名郡腹赤村でした。加藤清正が書いた書状の内容から、清正が誾千代に「兵糧」を送っていたことなどが分かりますが、関ヶ原の合戦から2年後の慶長7(1602)年10月17日、誾千代は、柳川に戻ることなく、腹赤村において死去しています。享年は34あるいは35歳と伝えられています。
ごろう君の「気になるスポット」 in 熊本県玉名郡長洲町腹赤
自家焙煎珈琲豆売り専門店 つくも
公式ホームページらしいものが見当たらず、Facebookのページとアメブロがあります。問題なのは、場所がはっきりしないこと。所在地は、『熊本県玉名郡長洲町腹赤96-5』とされており、Bingマップに店のピンもあるのですが、Googleマップのストリートビューでみると、ご覧のとおり田んぼのど真ん中になるし、所在地をGoogleマップで調べてみるとまるで違う場所が表示されるのです。
どなたか、詳しい場所をご存知の方は教えてください。実際に腹赤に出向いたときは立ち寄ってみたいと思います。
自家焙煎珈琲豆売り専門店『つくも』の店舗情報
- 所在地
熊本県玉名郡長洲町腹赤96-5 - 電話番号
0968-78-7202 - オーナーさん
つくもひろむ さん - 営業時間
12:00〜19:00 - 駐車場
あり - メッセージ
熊本の長洲町という、ちいさな町にある、ほんとうにちいさい珈琲豆屋です。
スマホアプリ 『ランダム行先決定ツール』とは?
ごろう君が、『ネットDEダーツの旅』のツールとして使っているのは、『ランダム行先決定ツール』というスマホアプリ。出かけたい地域(県)を指定し【行き先決定】ボタンを押すと、任意の場所が表示されます。
無料で利用できます。
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