合格祈願するならどこ!? 全国の天満宮様まとめ

天満宮

菅原道真公

菅原道真公 Wikipediaより

目次 Contents

菅原道真公はなぜ「学問の神様」なのか?

道真公は、5歳にして和歌を詠まれるなど幼い頃より聡明で学問に親しみ、さまざまな分野において卓越した才能をおもちでした。
数々の難関試験に合格し異例の早さで朝廷の要職につかれ、国家のために善政を尽くされました。
さらに歴史書や漢詩書などの編纂へんさんを手がけるなど、学問的、文化的功績を数多く遺されたことから、当代随一の学者、文人、政治家と称されました。

また、道真公は空海、小野道風とともに「書の三聖」と称えられたことから、「書道の神様」としての信仰も広まり、室町時代には文化的教養である「和歌・連歌の神様」としても慕われ、天神さまの掛軸や御画像を掲げた連歌会が数多く催されました。
江戸時代になると寺子屋制度の拡充により、「学問・手習いの神様」、「子供の守り神」として敬われるとともに、「天神記」や「菅原伝授手習鑑」など、天神さまを題材とした浄瑠璃や歌舞伎が数多く上演されました。

このように時代の流れとともに、天神さまがより身近な存在として親しまれ、「学問・文道の神様」として広く信仰されるようになりました。(太宰府天満宮HPより


全国の天満宮一覧

北海道地方

北海道

  • 篠路神社(しのろじんじゃ)(札幌市北区)
    創建 1855年(安政2年)。篠路獅子舞という、富山県出身の開拓者たちによって伝えられた獅子舞が受け継がれ奉納されている。
  • 平岸天満宮(ひらぎしてんまんぐう)(札幌市豊平区)
    1903年(明治36年)5月、南部源藏氏(ロスオリンピックで優勝した南部忠平氏の父)が郷里の太宰府天満宮からの分霊を天神山に祀つたのが始まりで、その後昭和50年代の後半に、秋田の三吉神社の分霊を天満宮に合祀したため、2つの名前が付けられている。
  • 真駒内天満宮(まこまないてんまんぐう)(札幌市南区)
    明治32年(1899年)から馬魂を奉祀したことに始まる。昭和54年、氏子会代表が京都天満宮から勧学の神天満宮の分霊を受け合祀したもの。
  • 彌彦神社(いやひこじんじゃ)(札幌市中央区)
    昭和45年に太宰府天満宮より学問の神様である菅原道真公の御分霊を拝戴。「 札幌の天神さま 」と呼ばれている。
  • 天満宮(てんまんぐう)(小樽市)
    慶応3年小樽港新地町に勧請。明治11年奥澤村字オネナイ(天神小学校隣)に本社創立無格社となる。
  • 錦山天満宮(にしきやまてんまんぐう)(江別市)
    明治18年、19年、九州各県・山口・広島・岡山・鳥取の各県から野幌屯田兵の入植により、原始の密林を開拓し入植者の「心のよりどころ」として明治22年伊勢皇大神宮から御分霊を奉斎して祭祀したのが始まり。昭和48年、九州太宰府天満宮から菅原道真公の御分霊を奉斎して、錦山天満宮と改名して以来「天神さま」の御神徳を仰ぎ今日に至る。
  • 栗山天満宮(くりやまてんまんぐう)(夕張郡栗山町)
    夕張川沿に散住していた7,8戸の開拓者が森林の中に祭壇を設け、小祠を形成し崇拝していた。明治24年、太宰府天満宮のご分霊を奉祀、菅原道真公をご祭神とし大正14年に社殿、拝殿を大々的に造営し昭和4年に村社に昇格。
  • 三景天満宮(さんけいてんまんぐう・滝上神社の境内外末社)(紋別郡滝上町)
    紋別郡滝上町字サクルー原野33番地。山口県防府天満宮分祀 御祭神 菅原道真公。

東北地方

青森県

  • 天満宮(弘前天満宮・てんまんぐう)(弘前市)
    創建は元禄2年(1689年)。西茂森町の天満宮は、領内修験(山伏)の蝕頭を勤めてきた大行院のあったところです。明治5年(1872)、大行院が廃止となり、愛宕山橋雲寺(岩木町)から菅原天神を移建して天満宮となる。

岩手県

  • 盛岡天満宮(もりおかてんまんぐう)(盛岡市)
    啄木の散歩コースであった盛岡天満宮の狛犬さまは、今は啄木の歌碑のうえに鎮座しています。
  • 菅公夫人の墓(かんこうふじんのはか)(一関市)
    菅原道真公が九州太宰府に左遷されたとき陸奥に流れてきた道真公夫人の墓といわれる史跡が田河津字小田間にあり、地元住民の手で長く守り伝えられている。

秋田県

  • 菅原神社(すがわらじんじゃ)(秋田市八橋)
    通称、八橋のお天つあん。社伝によれば、慶長年間南秋田郡天王村北野の天神を川尻村箱岡に勧請し、箱岡天満宮と称した。
  • 松舘菅原神社(まつだてすがわらじんじゃ)(鹿角市)
    松舘天満宮とも称される。治安2年(1022年)ごろ、松舘精左衛門精長が天神宮、即ち松舘菅原神社を勧請して建立した。春秋の例祭には、秋田県指定無形民俗文化財「松館天満宮三台山獅子大権現舞」が奉納される。

宮城県

  • 榴岡天満宮(つつじがおかてんまんぐう)(仙台市宮城野区)
    平安時代の天延二年(九七四)に山城国(現在の京都府)に御創建された。寛文七年(一六六七)七月二十五日に三代藩主伊達綱宗公の意思により、菅原道真公の真筆(直筆の書)が奉納され、現在の鎮座地である榴ヶ岡に御遷座が行われ、杜の都の天神さまとして現在も広く崇敬されている。

山形県

  •  小白川天満宮(こじらかわてんまんぐう)(山形市)
    日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国平定のみぎり陣営をおいたところと言われている。後小松天皇御代応永3年(1396)山形城主斯波直家公が、日頃崇敬していた菅原道真公の後神霊を山城国北野天満宮より分霊勧請し、菅原公自筆の画像を安置されて、一社相殿の神に祀り、社名を小白川天神に変更した。
  • 鶴岡天満宮(つるおかてんまんぐう)(鶴岡市)
    文明直前(1469年~1486年)ごろの創建と考えられている。かつては太宰府神社と称されていたが、昭和三十年(1955年)に鶴岡天満宮と社名を改称。
  • 新荘天満宮(しんじょうてんまんぐう)(新庄市)
    創立は寛永5年8月であり新庄藩主戸澤家累代の氏神である。住時同家羽州秋田仙北郡角館より常州松岡に転封の際同所に遷座するなどを経て、大正11年5月に天満神社とする。宝暦5年の大飢饉の翌年、宝暦6年旧9月25日、本丸南西隅に祭る天満神社の例祭に屋台を飾り付け市内を練り歩かせ安寧を祈願したことが、現在は新庄市の観光事業の一大行事とまでなった新庄まつりの起源となっている。

福島県

  • 曽根田天満宮(そねだてんまんぐう)(福島市)
    日本三大天神のひとつ(他説あり)。菅原道真公は無実の罪で大宰府に左遷される際、3つ子の「松王丸」「梅王丸」「桜丸」に自作の仮面を残している。曽根田天満宮にはその仮面のひとつが奉納されている。
  • 小平潟天満宮(こひらがたてんまんぐう)(耶麻郡猪苗代町)
    猪苗代湖の北岸、天神浜の松林の中にあり、日本三大天満宮のひとつに数えられています。この天満宮に祈願し生まれたと伝えられる猪苗代兼載は、室町末期に連歌の宗匠として足跡を残し、現在の和歌の基礎を作ったと言われています。学問の神様菅原道真を祀り、毎年多くの受験生がここを訪れています。
    学問の神様菅原道真を祀った小平潟天満宮には、明治の初期に和算家が自己の作った数学の問題や解答を書いて神社・寺院などに奉納した「算額」があります。数多い算額の中でも天満宮の算額は代数・連分数・差々数列・整数の問題などで、その数学的価値は高く、また彩色を施した問題の実物掲示と解答は美術的に見ても高い価値があります。在家の庶民の和算家が残してくれたという点でも文化遺産として貴重なものです。
  • 北田天満宮(きただてんまんぐう)(双葉郡楢葉町)
    戦国時代の城跡で町の文化財に指定されている天神城跡内にある神社で、北田天満宮という別名で呼ばれることもあります。中世に菅原道真公を京都の北野天満宮から勧請することによって創建された神社で、学問の神として信仰されているため、お子さんの学業成就を祈願するのに適しています。絵馬が多く所蔵されているのも特徴です。1月25日には例祭が行われ、多くの参拝客が訪れます。周辺には桜や梅も植えられているため、お花見もできます。

関東地方

茨城県

  • 大生郷天満宮(おおのごうてんまんぐう)(常総市)
    大生郷天満宮の由緒 社伝によりますと、菅原道真公の三男景行(かげゆき)公は、父の安否を尋ね九州大宰府を訪れました時、道真公自ら自分の姿を描き与え「われ死なば骨を背負うて諸国を遍歴せよ。自ら重うして動かざるあらば、地の勝景我意を得たるを知り、即ち墓を築くべし」と言われ、延喜三年(九〇三)二月二十五日に亡くなられました。
    景行公は、遺言どおり遺骨を奉持し、家臣数人と共に諸国を巡ること二十有余年が過ぎ、常陸介(地方長官)として常陸国(茨城県)にやってきました景行公は、延長四年(九二六)に現在の真壁町羽鳥(はとり)に塚を築き、この地方の豪族源護・平良兼等と共に遺骨を納め、一旦お祀りしましたが、三年後延長七年(九二九)当時飯沼湖畔に浮かぶ島(現在地)を道真公が永遠にお鎮まりになる奥都城(墓)と定め、社殿を建て、弟等と共に羽鳥より遺骨を遷し、お祀りされたのが当天満宮です日本各地に道真公を祀る神社が一万余社あるといわれる中で、関東から東北にかけては最古の天満宮といわれ、又遺骨を御神体とし、遺族によってお祀りされたのは当天満宮だけであることなどから日本三天神の一社に数えられ、御廟天神ともいわれています。
  • 赤土天満宮(あかつちてんまんぐう)(常陸太田市)
    祭神は菅原道真公で,創祀(そうし)は元禄元年です。地元では赤土鎮守様とも呼ばれ,山頂には本殿,拝殿,境内社があり,昭和12年に造営された優美な神輿が収められています。
  • 那珂湊天満宮(なかみなとてんまんぐう)(ひたちなか市)
    今から遡ること 700 年以上前、鎌倉時代に、和田町に金兵衛という漁師がいました。ある夜、海岸にて岩の上に光るものを見つけると、これが観世音像でありましたが、梅鉢の紋があったので湊の鎮守様である橿原明神の御神託を受けると、天神様であるとされました。これを祀ったのが、那珂湊天満宮の始まりです。(御神体が最初にお腰掛になった海岸の岩であるとする岩が今でも那珂湊にあり、「旧お腰掛」として祭礼の御幸の途中で御神輿がお腰掛けになります。)
  • 天満神社(てんまんじんじゃ)(稲敷市)
    阿波崎城跡は県指定史跡

栃木県

  • 朝日森天満宮(あさひもりてんまんぐう)(佐野市)
    平安時代 藤原秀郷公七代の孫足利家綱が無罪の罪におとしいれられし時 大宰府天満宮に参籠し一心不乱に祈念をしたところ 冤罪がはれ所領が安堵された 家綱はこの偉大な神恩を感謝し 唐沢城中の天神澤に天満宮を勧請し尊崇の誠を尽くした 以来 佐野氏の累代及び一門の祖先の遺志を継承し守護神として崇敬してきました。その後 慶長七年(1602年)時の城主佐野吉信 幕府の命により城を移すにあたり 天満宮も現在地に遷座され 地名を冠し朝日森天満宮と称した以来佐野の氏神様として 当地の人々より天神様と呼ばれ親しまれており 初詣や初宮・七五三等で賑わっております
  • 芳賀天満宮(はがてんまんぐう)(芳賀郡芳賀町)
    社伝によれば、鎌倉時代の貞永2年(1233)に創立されたと伝えられております。古くは山城国の北野天満宮に象りて北野原と号し北原天神と称した。宇都宮頼綱の四男で多功城を築く宇都宮石見守宗朝の11代子孫、秀朝が永禄元年(1558)に修覆を加えると元禄10年(1697)記しの由来書にあるなり。明治維新より神社名を天満宮と改称し明治5年5月、西水沼村、北長島村、東水沼村、氷室村、鐺山村、上籠谷村、下籠谷村、竹下村、打越新田村、西高橋村以上10ケ村の郷社となる。菅原道真公太宰府へ左遷の時、攝津国より船に乗りて豊前国の水沼の浦でこそ船を懸けて動かざる時に、宇佐に祈念し博多の津に着き船戸に上がられたという。この由縁を移して当地の村名を水沼と称し字を船戸と称することになったと伝えられている。

群馬県

  • 桐生天満宮(きりゅうてんまんぐう)(桐生市)
    当宮の起源は、第十二代の景行天皇の時代に、上毛野国造が天穂日命を奉斎した磯部明神であり、その後幾多の星霜を経て、文治三 (一、一八七)年から当地を支配した桐生家が代々の守護神として崇敬し、観応年間(一、三五〇年頃)には、京都より北野天満宮の御分霊を合祀して「桐生天満宮」と改称し、桐生領五十四ケ村の総鎮守と定められました。
  • 髙鳥天満宮(たかとりてんまんぐう)(邑楽郡板倉町)
    当神社の御祭神である菅原道真公が、延喜元年(901年)九州大宰府へ左遷のおり、お仕えしていた岩下勝之丞が随行を申し出ましたが、道真公は行先の困難を思って随行を諦めさせ、御自ら画像を描かれると、これを私だと思えと与えました。岩下は故郷である出羽国に戻りこれを守護しました。
    その後、文暦元年(1234年)、後裔岩下勝之進がこの画像を伴って京都北野天満宮に参詣の途次この地に寄宿したところ、道真公が夢枕に立ち、鳥が高く飛んで止まないこの地にまつるよう告げられました。そこで、神慮に従って神社を創建し画像を安置したのです。

埼玉県

  • 北野天神社(きたのてんじんしゃ)(所沢市)
    北野天神社は、所沢市の南西部、小手指中学校のそばにあります。北野天神社という名前は、物部天神社、国渭地祇神社、天満天神社の3つの神社の総称で、北野という地名の由来になった神社です。物部天神社と国渭地祇神社の2つは、延喜式内社といって、今からおよそ1,000年以上前の平安時代からあったと思われる神社で、天満天神社も同じく平安時代に、京都にある北野天満宮の菅原道真をまつるためにたてられた古い神社です。
  • 氷川天満神社(ひかわてんまんじんじゃ)(桶川市)
    桶川市加納字天神(古くは加納村)の鎮守である。祭神は歴史的な経緯から天満宮の菅原道真と氷川神社の須佐之男命などが合祀されている。参道は南と東の二つあり南側は中山道から続く天神道とつながっている。こちらの一の鳥居の中には商店がある。東側の参道は狛犬などがあり、より参道らしさを感じる。境内には本殿の他に神楽殿、御札所、手水舎などの他にぶらんこやすべり台、鉄棒などがあり、子供が遊ぶこともできる。また宮司は「神主」と呼ばれるのが一般的という。同市内の稲荷神社ほどの大きさではないがここにも力石がある。
  • 佐間天神社(さまてんじんしゃ)(行田市)
    行田市佐間に鎮座する佐間天神社の創建は忍城主の成田氏が忍城築城の折、谷郷、春日社、西を城の没沢の取入口とし、天神坊を出口としたと伝えられている。その天神坊を慈眼山安養院の守護神として天神社を勧請し、佐間村の鎮守となっていた。天正19年(1590年)石田三成による忍城水攻めの際の佐間口を守った正木丹波守利英が死闘を繰り広げた場所でもあり、この佐間天神社付近に正木丹波守の屋敷があったとする説もある。

千葉県

  • 大野天満宮(おおのてんまんぐう・本光寺)(市川市)
    本光寺の稲荷堂に「大野天満宮」があり、祭神として「天満大自在天神(菅原道真)」が安置されています。天神さま、天神さんと親しまれている神道の男性の神様です。学問の神と言われ、天満宮の名前でも親しまれています。本光寺の近くに天満天神宮があり、平将門が天慶元年(938年)京都の北野天満宮をこの地に勧請したものであると伝えられています。本光寺の大野天満宮にある菅原道真公の像を描いた掛け軸に、その由来を記したものが残されています。
  • 天満宮(てんまんぐう)(白井市)
    千葉県白井市河原子にある神社である。旧社格は村社。天神社とも称される。

東京都

  • 成子天神社(なるこてんじんしゃ)(新宿区)
    千百年を超える歴史を紡いできた「成子天神社」。平安時代の延喜三年(九○三年)、九州の太宰府で菅原道真公が亡くなられた際、公が生前に彫られた像を柏木村に持ち帰り、当地を菅公神社の神域とし、平和と文道の神としてお祀りし当社が設立。
  • 平河天満宮(ひらかわてんまんぐう)(千代田区)
    江戸三大天神、江戸五天満宮、東都七天神のひとつ。江戸平河城城主太田道灌公が、ある日菅原道真公の夢を見ました。そして、その翌朝菅原道真公自筆の画像を贈られたこともあり、その夢を悪夢であると思い、文明十年(一四七八年)に城内の北へ自ら施主となり、天満宮を建立しました。(「梅花無尽蔵」による)その後も周囲に多くの梅の木を植え、やがてここを梅林坂と呼ぶようになり、今も皇居平川門内にその名が残っています。徳川家康公の江戸平河城入城後間もなく、築城のため本社を平川門外に奉遷しましたが、慶長十二年(一六○七年)二代将軍秀忠公に依り、貝塚(現在地)に奉遷されて、地名を本社にちなみ平河町と名付けられました。
  • 牛天神北野神社(うしてんじんきたのじんじゃ)(文京区)
    江戸五天満宮、東都七天神のひとつ。
    鎌倉時代、源頼朝公が当地にあった岩に腰掛け休息したとき、夢に牛に乗った菅原道真公が現れ「二つの喜びがある」と告げられた。翌年その喜びがあり、頼朝公がこの岩を祀り牛天神を創立。以来、境内にある牛の形をした岩(境内のご案内:「ねがい牛」)を撫でると願いが叶うといいます。
    牛天神北野神社は、一一八四年(元暦げんりゃく元年)源頼朝により創建されました。牛に乗った菅原道真公の御神託により牛を守護神として讃え牛天神社として八百三十二年の間、此の地をお護りしてまいりました。以来、様々な時代の様々な人々に護られて今日に至っております。
  • 湯島天満宮(湯島天神・ゆしまてんまんぐう)(文京区)
    ※関東三大天神、江戸三大天神、江戸五天満宮、東都七天神のひとつ。創建は雄略天皇二年(458)一月。正平十年(1355)二月郷民が菅公の御偉徳を慕い、文道の大祖と崇め本社に勧請しあわせて奉祀したもの。
  • 五條天神社(ごじょうてんじんしゃ)(台東区)
    ※江戸三大天神、江戸五天満宮、東都七天神のひとつ。第十二代景行天皇の御代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷征伐の為、上野忍が岡を通り、薬祖神(上記の二柱)の大神に御加護を頂いた事を感謝し、この地に両神を祀ったとされる(約1890年前)。
  • 亀戸天神社 (かめいどてんじんしゃ)(江東区)
    ※日本三大天神、関東三大天神、江戸三大天神、江戸五天満宮、東都七天神のひとつ。九州太宰府天満宮に対して東の宰府として「東宰府天満宮」、あるいは「亀戸宰府天満宮」と称されていたが、明治6年に東京府社となってより亀戸神社と号し、昭和11年に現在の亀戸天神社と正称。
  • 菅原神社(すがわらじんじゃ)(世田谷区)
    寺子屋を開いていた石井兵助直慶が、寛文五年(1665年)二月吉日に勧請したと記されている。境内には江戸時代の力石又文政の年の天満宮の扁額等現存し、学問の神様として、広く崇敬をあつめている。
  • 大泉天神北野神社(おおいずみてんじんきたのじんじゃ)(練馬区)
    もとは『三十番神社(さんじゅうばんじんしゃ)』名前。神さまと仏さまがはっきりと分けられていなかった時代(神仏混淆時代)は、『土支田村の番神さま』と呼ばれていた。明治時代になり、神仏習合が禁止され、三十番神さまのおひとり北野大明神すなわち菅原道真公を御祭神として祀り、『北野神社』と改名された。
  • 梅島天満宮(うめじまてんまんぐう)(足立区)
    梅島町内会にも神社を祭ろうとの要望から梅島公園(梅島小学校地)に神社を造営。1948(昭和23)年9月23日筑紫太宰府天満宮の宮司西高辻信氏により分霊遷宮して、梅島町会の鎮守神とした神社。
  • 布多天神社(ふだてんじんじゃ)(調布市)
    創建年代は不明。社伝では垂仁天皇の治世とされる。延喜式神名帳に記述がある式内古社である。元の社殿は現在の布田5丁目にあったが、文明年間に多摩川が大氾濫を起こしたことをきっかけとし、1477年に現在地に移転した。かつての社殿地には古天神公園と名付けられた公園が整備されている。
  • 菅原神社 (すがわらじんじゃ)(町田市)
    町田三天神のひとつ。室町期の永享年間、近在の大沢左近正次が、先祖の大沢家の守り本尊であった天神像、当地井手の沢の山上に奉安。その子孫大沢玄蕃(げんば)が、江戸期初頭の寛永7年(1630)新たに渡唐の天神像を刻ませてここに奉安し、この地を寄進して本町田の鎮守としたことが縁起。
  • 町田天満宮(まちだてんじんしゃ)(町田市)
    町田三天神のひとつ。元応年間より菅原道真公をお祀りしていた大沢正純という者が柚木大沢村におり、京都の北野天満宮より戴いた菅原道真公の尊像を家の守り神としてお祀りしていた。子孫七代を経て大沢氏は一色村に移り住む際に、現在の本町田菅原神社の地にその尊像をお祀りし、境内地と社殿を村に寄進したことが起因。
  • 谷保天満宮(やぼてんまんぐう)(国立市)
    ※関東三大天神のひとつ。東日本最古の天満宮。野暮の語源⇒武蔵国多摩郡分倍庄栗原郷(現国立市谷保)に配流せられていた菅原道真公の第三子 道武公が、延喜三年の父君薨去の報を受け、道真公の尊容を刻み鎮座したのが起りである。養和元年十一月三日旧来の地(現国立府中インター付近)より神殿を現在の地に遷し、太宰府に模して梅香山安楽寺を興し、社務六院を置き祀典を司どった。明治十八年には府社に昇格し東日本における天満宮としては最も古く、湯島天神、亀戸天神とならび関東三天神と称される。
  • 穴澤天神社(あなざわてんじんしゃ)(稲城市)
    記録によると、今より二千四百年前の昔、人皇第六代孝安天皇の御代、四年に創建されたとされています。元禄七年(一六九四)の新社殿の造営の際、菅原道真公が合祀される。三沢川右側沿いの境内下に横穴厳窟があったことが、これが社号「穴澤」の起源。
  • 天神社(てんじんしゃ)(西東京市)
    創建は天正年間(1573年 – 1591年)の初めと推定される。明治元年(1868年)の神仏分離令および法華三十番神禁止令により三十番神信仰が禁止され、境内の摂社に祀られていた菅原道真石像を本殿に移し、社号を天神社と改められた。

神奈川県

  • 高田天満宮(たかだてんまんぐう)(横浜市港北区)
    正中二年(一三二五)五月二十五日夜、申酉の方角より光が現れ山中に鎮まり、昼夜電光乱れ飛んだ。小蛇が梅の若木の下に現れ、異香を放って正しく天神に観音の垂迹と思われたため榊の枝を置き、これを鎮めたことから、社が建立された。
  • 永谷天満宮(ながやてんまんぐう)(横浜市港南区)
    日本三躰天神のひとつ。道真公は大宰府に着任した翌年、鏡に向かってご自身の姿を三躰の木像に彫刻した。その内の一躰を所有する五男淳茂がが、後に関東に下向して永谷郷の下の坊に居館を構え、道真公自刻の御尊像を奉祀して朝夕崇拝したことが、永谷天満宮のはじまりであると伝わる。
  • 天満天神社(てんまんてんじんしゃ)(川崎市幸区)
    明治年間現多摩川敷地内に鎮座していたという。当時社が北を向いて居り北向天神と愛称され、市も開かれ、村民の信仰厚く非常ににぎわったと伝える。
  • 天満天神社(てんまんてんじんしゃ)(川崎市幸区)
    延喜三年菅公筑紫の配所に薨じ給うた後、三男道武公は父の尊像を親ら模刻し、其像を供奉して谷保村に来り、一社を草創してこれを安置したのが当社の起原という。
  • 荏柄天神社(えがらてんじんしゃ)(鎌倉市)
    古くは荏柄山天満宮とも称される。長治元年(1104年)晴天の空が突如暗くなり、雷雨とともに黒い束帯姿の天神画像が天降り、神験をおそれた里人等が社殿を建ててその画像を納め祀った縁起に始まる。関東を中心に各地に分社をもち、福岡の太宰府天満宮、京都の北野天満宮と共に三天神社と称される古来の名社。
  • 久里浜天神社(くりはまてんじんしゃ)(横須賀市)
    古くは入海で葦の原だったこの地に、江戸初期に越前国鯖江出身で大阪にて身を立てた砂村新左衛門が新田開拓に訪れ、以前から崇敬していた 摂津国西成郡上福島村天満宮の御祭神の御分霊を勧請し、新田鎮護の神社としてお祀りしたのが創建。

中部地方

新潟県

  • 吉田天満宮(よしだてんまんぐう)(燕市)
    祭主今井家の祖は、毎月岩室天神山の天満宮にお参りする慣例になっていたが、約二百年位以前(江戸中期)当主がお参りの帰途、児童が西川に流れて来た天神様の御像を拾い上げて遊んでいるのを見、感ずる所があって是を譲り受け、今井家の守護神として屋敷内にお祭りした。弘化三年(一八四六年)に、神様を同じ屋敷内にお祭りして置くのは畏れ多いという考えから、今の天神様のお屋敷に御移奉申し上げたのが今日の吉田天満宮である。
  • 菅原神社(すがわらじんじゃ)(上越市)
    1300年以上の歴史(天武天皇3年(西暦675年)延喜式神名帳に登載)を持ち、古くより天神様と慕われている。2町歩を超える境内は、老針葉樹が茂り前方後円型の「史跡 菅原古墳」がある。

富山県

  • 於保多神社(おおたじんじゃ)(富山市)
    弘長三年(1263)、当社神職畠山氏の祖・恵顗氏が、菅原道真が石榴を噛み出して火焔となしたの図を道真の師である法性坊尊意が模写した尊像を越中国新川郡新庄に安置し、錦重山浄禅寺と号したのが起源。

石川県

  • 小松天満宮(こまつてんまんぐう)(小松市)
    明暦3年・1657、加賀藩三代藩主前田利常公が小松城に穩居した際に、前田氏の氏神である北野天神を城北に当るこの地に社殿を造営して鎭祭したもの。
  • 金沢神社(かなざわじんじゃ)(金沢市)
    加賀藩11代藩主前田治脩(はるなが)が寛政6年(1794)に、兼六園の現在の梅林の地に藩校明倫堂を建て、その鎮守社として金城霊澤のほとりに、学問の神であり前田家の先祖でもある菅原道真公の御舎利を奉斉する神社を創建した。
  • 椿原天満宮(つばきはらてんまんぐう)(金沢市)
    永仁5年加賀国主富樫義親京都北野天満宮より丹波屋敷と称する山崎に勧請す。観応年間一向一揆により金浦郷田井村へ遷座され、金浦郷の総鎮守産土神となり、当宮を前田家祈願所とし城郭の鎮守と定める。金浦郷総社田井天満宮、椿原神社、椿原天満宮と称え奉り旧金沢五社の筆頭たる御社格。
  • 玉泉寺天満宮・泉野菅原神社(ぎょくせんじてんまんぐう)(金沢市)
    建武元年、越中国守畠山卜三、同国新庄に社殿を造営して菅原道真の神像を祀った。慶長16年、元より菅原公崇敬していた前田利長が、慶長16年の高岡入城の際に社殿を同地に移させたもの。
  • 輪島前神社(わじまさき神社)(輪島市)
    社号「輪島前天神社」。創祀年代不詳。少彦名神を奉祀して、天神社・手間天神社と称し、仁平4年京都北野から菅公を勧請して天満宮と称するようになる。

福井県

  • 天満神社(てんまんじんじゃ)(敦賀市)
    『気比宮社記』・『敦賀志稿』等の文献にも「天神様」あるいは「天満神社」と記されている。社伝によれば、花山天皇御宇の寛和2年(986)の鎮座と伝えられ、いつ頃からか、延喜(901~)この地の豪族泰豊国の女婿となり住居した藤原利仁公を配祀。

山梨県

  • 天満宮(てんまんぐう)(韮崎市)
    創建年月不詳、武田氏の天正年間の創建と伝えられている。旧上ノ山村の鎮守。『甲斐国志』には天神宮、社記には天満天神とも記されている。天神社は菅原道真公の霊を祀るものであるが、より古い時代には文字どおり天から天降る神としての信仰があり、天神は雷電を伴ふ強力な神として崇められている。
  • 天神中条天満宮(てんじんなかじょうてんまんぐう)(南巨摩郡富士川町)
    現在の社殿は江戸時代に青山善司郎重政等の寄進より建立されたと言われる。毎年3月第4日曜日に祭典がある。
  • 平野天満宮(ひらのてんまんぐう)(南都留郡山中湖村)
    学問文道の神である菅原道真と、武勇・医療・産業・五穀豊穣の神「須佐之男命」が祀られている平野天満宮。その奉納神楽として江戸時代から伝承される「天岩戸神楽」は、雌獅子神楽で女らしく膝頭を付け内股で舞うのが特徴。
  • 大嵐天神社(おおあらしてんじんしゃ)(南都留郡富士河口湖町)
    大同二年(807)創立。当初、大己貴命・少彦名命を祀り、天暦の頃(950)菅原道真公を合祀して天満宮と称し天神社と改称。

長野県

  • 深志神社(ふかしじんじゃ)(松本市)
    宮村宮と天満宮の創祀は、信濃国守護・国司であった小笠原氏の信仰と深く関わる。天満宮は、小笠原貞基公が応永9年(1402)、居館である井川館近くの鎌田の地に京都・北野天満宮より勧請されていたが、のち江戸時代の慶長19年(1614)6月25日(菅公の御誕生日)、後裔である小笠原秀政公が、宮村明神の北側にさらに勧請され、並び祀られた。
  • 御殿山天満宮(ごてんやまてんまんぐう)(松本市)
    江戸時代初期、安曇野の大樋山から大量の鉛が発掘され、松本城主として周辺を治めていた水野氏によってその祝福記念として浅間御殿が改修され、その裏山には守護神として菅原道真を勧請した。
  • 天神宮(大神宮神社境内・てんじんしゃ)(佐久市)
    稲荷町天神堂地籍にあった仏堂の「天神堂」が明治初め頃に神式の「天神宮」としてまつられるようになったものである。

岐阜県

  • 加納天満宮(かのうてんまんぐう)(岐阜市)
    文安2年(1445)、斎藤利永が加納の東南沓井城(旧加納城)を築き、その守護神として天満宮を勧請した。慶長5年(1600)関ケ原戦後、徳川家康は凱旋の折、岐阜城(旧稲葉山城)を廃し、加納城を構築。その際に天満宮が城廓内に入ったので、新しい加納城鎮護の神として、これを広江川(清水川)を背にした閑静な現在地に遷座し奉ったのが加納天満宮の起源。
  • 天神神社(柳津天神神社・てんじんじんじゃ)(岐阜市)
    現在の天神神社は、穴太部神社、北天神神社、中天神神社を合祀した神社。北天神神社は、源頼実(源頼定の説もある)が製作した菅原道真像を、1557年(弘治3年)に源頼実の子孫が創建した神社であり、祭神は菅原道真。
  • 長良天神神社(ながらてんじんじんじゃ)(岐阜市)
    承久年間(1219~1221)美濃国の目代に任じられた、北面の武士斎藤帯刀左衛門尉親頼を祖とする、美濃国の斎藤氏が氏神として、当神社を勧請する。寛正年間(1460~1466)斎藤帯刀左衛門尉利藤が本殿を造営し、永正年中(1504~1520)斎藤帯刀左衛門尉利安及長井越中守長弘によって本社を修復し、天正16年(1588)池田三左衛門輝政社壇を構築寄進する。
  • 新町天神神社(しんまちてんじんじんじゃ)(大垣市)
    美濃明細記(元文三年伊東実臣著)天神社 大垣新町、建仁の頃牛屋邑鎮座、後為城中。正保元年自城内遷座其の跡天神丸と云ふ。大垣市史。建仁の頃牛屋邑に鎮座す。大垣城築営の後城中となる。正保元年二月二十五日藩主戸田左ェ門氏鉄公城内より現今の地へ遷座す。其の跡を天神丸と云ふ。遷宮導師は牛屋山遮那院尭意なり。正保三年四月八幡宮例祭の節初めて御旅所となる延宝七年四月藩主戸田氏西公拝殿等造営あり。戸田家代々崇敬の神社たるにより社殿営繕等藩主より支給せり。従前社僧長光院管掌の所、明治維新の際神仏混淆分離に付長光院離社明治三年八月二十五日大垣藩より八幡神社神主牛屋水応より藩主へ伺を経たる上新町に於いて祭典修繕等総て管理し同町崇敬の神社とす。
  • 天満神社(てんまんじんじゃ)(高山市)
    室町時代の中流公家で武将の姉小路尹綱の軍が戦に敗れた際、同家に伝わっていた菅原公の本像がここに祀られ、以来学問の神、天神宮として信仰を集めるようになった。
  • 飛騨天満宮(ひだてんまんぐう)(高山市)
    この花里に謫居していた菅原道真公の三男菅原兼茂公は、延喜三年。父の死を聞き、この地にあった梅の木に自ら父の像を刻み、道真公の御霊を迎えて祠を建立したことが創建です。

静岡県

  • 静岡天満宮(しずおかてんまんぐう)(静岡市葵区)
    「川中天神」とも言われてきた。それは安倍川の流れの中にある巨石を、神が宿る石として崇めていたからである。静岡天満宮は、道真公のご次男景行公の配流先であり、菅原家と直接結びついている特異な神社である。高天神社(たかてんじんじゃ)(掛川市)
    高天神社は、高天神城跡にあり、かつての高天神城を守護する神社。高天神社例大祭は、東峰にあった神社を西峰に移したことに始まり、1年に1回、3月最終日曜日に東峰の社(元宮)に神様が里帰りされる行事として行われる。
  • 野賀天神社 (のがてんじんしゃ) (掛川市)
    場所の特定に至らず
  • 浜天神社 (はまてんじんしゃ) (掛川市)
    浜部落東端にある天神社は菅原道真を祀る。旧大渕村には天神三社があるが、野賀、雨垂、浜の順に還座。菅公を学問の神とする信仰は平安時代に起こり、江戸時代に入り栄える。
  • 雨垂天神社 (うたりてんじんしゃ) (掛川市)
    天神社は元禄8年(1695年)金平陸奥平の祖先が雨垂地区の砂防のため、大東町の高天神社の一神、菅原道真公を勧請し創建された。その後災害災難防除または学問の神として地区民から信仰されている。
  • 松室神社 (まつむろじんじゃ) (掛川市)
    詳細データなし

愛知県

  • 上野天満宮(うえのてんまんぐう)(名古屋市千種区)
    名古屋三大天神のひとつ。およそ千年前の平安時代中期に陰陽師・安倍晴明の一族がこの地に住んだ折、菅原道真公を慕ってその御神霊をお祭りされたのが上野天満宮の起源。
  • 山田天満宮(やまだてんまんぐう)(名古屋市北区)
    名古屋三大天神のひとつ。寛文12年(西暦1672年)当時尾張の国藩主徳川光友公が、菅原道真公の御神霊を太宰府(太宰府天満宮)より尾張の国に肖るための祖神としてお迎えし、奉祀したもの。
  • 桜天神社(さくらてんじんじゃ)(名古屋市中区)
    名古屋三大天神のひとつ。織田信秀が北野天満宮から菅原道真の木像を勧請し、那古野城に設けた祠に奉ったのが始まりとされる。
  • 有松天満社(ありまつてんまんしゃ)(名古屋市緑区)
    江戸時代後期の『尾張名所図会』によれば次のように記されている。文章嶺(ふみのみね):祇園寺の後の山をいふ。天満宮を安置す。神廟もと祇園寺境内にありしが、寛政の初め、寺僧卍瑞(まんずい)の開基にして、数千人より捧げし詩歌文章等をこの山頂に埋め置き、文政七年(1824年)、その上に今の神廟を基立し、あらたに八ツ棟造りの高廟を構え、以前に百倍の荘厳とはなりぬ。こは当所有信のやから、莫大な資材を寄附せしとぞ。それよりして文章嶺と称す。山の中腹に滝あり。いろはの滝という。これ御手洗なり。また瑞垣の内に、冷泉為泰卿御自筆の御詠をそのまま石に彫りて建つ。今左に記して以て世に公にす。
  • 吉田天神社(よしだてんじんしゃ)(豊橋市)
    往古、菅公の神像が鹿菅(しかすが)の海辺に漂っていたのを里人が石塚の辺りに小社を建てて祀っていたが、天文元年(1532年)岩崎玄朝が奉祀したことに始まる。
  • 鴨田天満宮(かもだてんまんぐう)(岡崎市)
    菅原道真公の三男・資忠卿が、鴨田村で日々拝禮していた道真公の像を、その臣・酒部甕彦がこれを受け継ぎ、霊像を守護したもの。後年、京の北野天満宮造営時には、この社も北野天満宮と称していた。
  • 岩津天満宮(いわつてんまんぐう)(岡崎市)
    多くの古墳が存在する岩津山は、古の人々にとっての聖なる場所であった。一条の稲光と共に、芭蕉の葉に乗った菅原道真公の御神霊がこの聖なる岩津山に降り立った。菅公の御神霊と土地を守る祖霊が出会い、岩津山は菅公の御神徳と霊気満ち満ちた霊山・天神山となりました。
  • 岡崎天満宮(おかざきてんまんぐう)(岡崎市)
    建保5年(1217)に創建された神社で、徳川家康公の御生誕地である愛知県岡崎市の中心部に鎮座している。
  • 長草天神社(ながくさてんじんしゃ)(大府市)
    知多郡英比ノ荘の地頭、藤田民部は、1494年(明応3年)に家人たちに長草の地の開墾を命じ、同時に民部の邸内に祀られていた菅原道真を、同年6月19日に産土神として迎えたのが長草天神社の起源とされる。
  • 北野天神社(きたのてんじんしゃ)(江南市)
    菅原道真をおまつりした神社で「北野の天神さん」の愛称で親しまれ、学問の神として尊ばれてきた。菅原道真は承和12年(845)の生まれで、その生涯を通じて至誠の道を垂範され、よく勉学に励まれて、右大臣の高位に任ぜられた立派な方でありますが、俊才のあまり藤原時平の中傷により、大宰権帥に左遷され九州へ流されました。牛車で送られる道中、牛により待ち伏せの賊の難をまぬがれたと伝えられ、以来牛は天神様の使いといわれ、教育の基本の象徴とされています。

三重県

  • 松葉山天満宮(まつばやまてんまんぐう)(熊野市)
    昔この地に狸が住んでいて、よく漁師について困るから、そのために天満宮を祀ったといわれている。
  • 菅原神社(上野天神宮・すがわらじんじゃ)(伊賀市)
    「お天神さん」、「天神さん」の愛称。往古、上野平楽寺の伽藍神で、農耕神祇(のうこうじんぎ)に発祥する神々を祀る神社だったが、天正9年(1581年)天正伊賀の乱の後、藤堂高虎による城下町建設の際この地に奉還され城郭鎮守として祀られた。

近畿地方

滋賀県

  • 大沢鳴宮天満宮(おおさわなるみやてんまんぐう) (彦根市)
    平田町字清草にあって、大沢鳴宮天満宮ともいわれ、平田鳴宮神社と同じ菅原道真公を祀る。 江戸時代後期、彦根藩井伊家では、この地を鷹狩り場とされ、そのために小さな村があった。 この地の産土神として、平田の鳴宮天満宮のご分霊をいただき、1844年<天保15年>に建立されたもの。
  • 天満天神社 (てんまんてんじんしゃ) (彦根市)
    創立祀代不詳。滋賀県教育課編の『神社由緒記』によると「安永年中迄は近郷の総社にて神輿渡御の節御旅所として、愛知郡三津村雑社日吉神社と云う。現今の所なり。旧彦根藩の信仰の社にて寛文元年拝殿鳥居御建立有之。近郷の氏神なり。」と記している。
  • 平田鳴宮天満宮 (ひらたなるみやてんまんぐう) (彦根市)
    平田の氏神様として延文年間(1360年前後)に創建。消失により元亀三年(1572)再建。大藪の方から鳴り渡り平田山に舞い降りた天の神をお祀りしたところから、鳴宮神社と称し、菅原道真公が祭神であるところから鳴宮天満宮とも。
  • 天満宮(守山天満宮・てんまんぐう)(守山市)
    天徳三年守山郷東門院境内に鎮座。天文十五年民家からの出火により焼失。明治十一年現在地に菅公の末裔京都高辻家の邸宅内に建立されていた社殿、神宝を移したもの。祭神の神像は、菅公御賀の肖像と寛平六年に菅公みずから刻まれた木像彫刻とされる。
  • 海津天神社(かいづてんじんしゃ)(高島市)
    延暦二十三(804)年、宮古山に遠祖第九代長教が大野神社(現大鍬神社式内論社)を創建、その後神託を受け大谷山(444m)南麓の当地を開墾し遷座、此の地方一帯の守護神として深く信仰される。更に、累代祀職の由縁に因り、天暦年間(950頃)、小野神社(海津大明神)を創祀、建久二(1191)年、贈太政大臣菅原道真公を勧請する。

京都府

  • 北野天満宮(きたのてんまんぐう)(京都市上京区)
    日本三大天神菅公聖蹟二十五拝洛陽天満宮二十五社順拝のひとつ。創建は、平安時代中頃の天暦元年(947)。西ノ京に住んでいた多治比文子や近江国(滋賀県)比良宮の神主神良種、北野朝日寺の僧最珍らが神殿を建て、菅原道真公をおまつりしたのが始まり。その後、藤原氏により大規模な社殿の造営があり、永延元年(987)に一條天皇の勅使が派遣され、国家の平安が祈念される。この時から「北野天満天神」の神号が認められ、寛弘元年(1004)の一條天皇の行幸をはじめ、代々皇室のご崇敬をうけ、国家国民を守護する霊験あらたかな神として崇められる。全国各地、およそ1万2000社とも言われる天満神社の多くは北野天満宮からの御霊分けである。
  • 水火天満宮(すいかてんまんぐう)(京都市上京区)
    日本最古の天満宮(最初に「天満宮」という社号が許可された神社)都の水害・火災を鎮める為に、第六十代 醍醐天皇の勅願で、道真公の師でもあった延暦寺の尊意僧正(第十三代天台座主 法性坊尊意僧正)に命じられ、延長元年(923年)六月二十五日、『水火の社天満自在天神宮』という神号の勅許を醍醐天皇より賜り、水火社天神天満宮として、菅原道真公の神霊を勧請し建立されたもの。
  • 菅原院天満宮神社(すがわらいんてんまんぐうじんじゃ)(京都市上京区)
    菅公聖蹟二十五拝洛陽天満宮二十五社順拝のひとつ。日本最古の天満宮(菅原道真の生誕の地)。菅原氏の邸宅があったところで、菅原道真、その父祖が祀られる。菅原道真の父是善ら祖父清公以来三代が居住し、道真生誕の地と伝えられる。道真没後、その菩提を弔うために菅原院の地に歓喜光寺が建立され、境内には道真と父祖の小祠が祀られた。歓喜光寺はその後六条河原院へ移るが、その小祠は残されて現在に至っている。境内には菅公産湯の井戸等ゆかりの遺物がある。
  • 霊光殿天満宮(れいこうでんてんまんぐう)(京都市上京区)
    1018年(寛仁2)菅原道真6世の孫、菅原定義が、九州配流の途中の道真が立ち寄った河内国若江の旧跡地に、創始したのが始まり。その後、道真左遷の時に、天から一条の光が下ったという当地に移され、そのことから霊光殿と称する。徳川家康も関りがあり、1636年(寛永13)当社に合祀されている。
  • 菅大臣神社(かんだいじんじんじゃ)(京都市中京区)
    菅公聖蹟二十五拝洛陽天満宮二十五社順拝のひとつ。通称「菅大臣天満宮」。この地はもと道真公の邸や、菅家廊下といわれた学問所の跡で、誕生の地とも伝えられ、天満宮誕浴の井が保存されている。また「東風吹かばにほひおこせよ梅の花 主なしとて春なわすれそ」と詠まれた飛梅の地も当神社である。古くは天神御所紅・白梅殿とも呼ばれ、境内には本殿、幣殿ほか多くの社殿が建つ。本殿はもと下鴨神社の本殿を、1869年(明治2)に移築したもの。
  • 錦天満宮(にしきてんまんぐう)(京都市中京区)
    菅公聖蹟二十五拝洛陽天満宮二十五社順拝のひとつ。平安時代前期の十世紀初頭、菅原道真公(菅公)の生家『菅原院』に創建される。菅公薨去の後、菅原院は『歓喜寺』と寺名に改称、その後、嵯峨天皇の皇子源融公の旧邸六条河原院に移山、塩竈宮を鎮守に天満大自在天神を祀る。三百年後、この地は、後に、時宗道場、歓喜光寺と称される京都八幡の善導寺に寄進され、同時に、歓喜寺(菅原院)は『天満宮』に改められ崇敬、奉祀される。錦天満宮は歓喜寺に由来しており、又、菅公聖蹟二十五拝の第二とされるのはこの伝承によるもの。
  • 文子天満宮(あやこてんまんぐう)(京都市下京区)
    洛陽天満宮二十五社順拝のひとつ。日本最古の天満宮(天神信仰発祥の神社、北野天満宮の前身)。菅原道真公の乳母をつとめていた多治比文子は、自分の家の庭に小さな祀をもうけ、道真公を拝んでいた。天神となった菅原道真公は多治比文子に現在の北野天満宮の地にまつってもらいたいと託宣したことから北野天満宮が祀られまつられるきっかけとなった。「北野天満宮の前身神社」と称する由縁。
  • 火除天満宮(ひよけてんまんぐう)(京都市下京区)
    洛陽天満宮二十五社順拝のひとつ。天正7年(1579)、九州での兵乱を避けるため、筑紫国大宰府(つくしのくにだざいふ)から一人の老神官が菅原道眞の像を背負って入洛し、六条通周辺に祀ったのが始まりといわれる。天正15年(1587)、烏丸二条の地に大雲院が開創される際に、鎮守社として迎えられ、その後、慶長2年(1597)現在地に創建された。
  • 北白川天満宮(きたしらかわてんまんぐう)(京都市左京区)
    延喜以前(9世紀以前)より天使大明神と唱え、病気平癒健康長寿の神、少彦名命が祀られていた。 足利八代将軍義政公が東山山荘(銀閣寺)造営に際し、寛正年間(1460~1466)やや東の千古山明神の森に遷座されている。
  • 吉祥院天満宮(きっしょういんてんまんぐう)(京都市南区)
    菅公聖蹟二十五拝のひとつ。日本最古の天満宮(菅原道真の生誕の地)。朱雀天皇が菅原道真を尊崇して勅祀した初の天満宮。また遺唐使だった道真の祖父が船で唐へ向かう途中、海上で霊験を得たという吉祥天女を帰国後自ら刻みまつったのがはじまりといわれている。
  • 高台寺天満宮(こうだいじてんまんぐう)(京都市東山区)
    北政所ねねが高台寺を創建した際、日ごろ崇拝していた綱敷天満宮の祭神菅原道真を勧請して高台寺の鎮守社としたもの。
  • 長岡天満宮(ながおかてんまんぐう)(長岡京市)
    菅原道真公が御生前に在原業平らと共に、 しばしば遊んで詩歌管弦を楽しまれた縁深いところ。 公が太宰府へ左遷された時、この地に立ち寄り「我が魂長くこの地にとどまるべし」と名残を惜しんだという縁故によって、公御自作の木像をお祀りしたのが創立。菅公聖蹟二十五拝のひとつ。
  • 生身天満宮(いきみてんまんぐう)(南丹市)
    日本最古の天満宮(菅原道真の存命中の創建)。全国で唯一、菅原道真公が生きておられる時に生祠として祭祀したことから、生身(いきみ)天満宮と称し、これが日本最古の天満宮といわれる所以。
  • 桜天満宮(さくらてんまんぐう)(亀岡市)
    太宰府に左遷された菅原道真を側近の高田正期が見舞った際、道真は喜び自ら土で自像を造り正期に与えた。道真が死去すると、ゆかりのあった桜が枯れ、代わりに麓にあった岩に桜の花弁が写りこんだため、正期は道真の御霊が乗移ったと感じ祠を建立し道真から授かった自像を祀ったと伝えられている。
  • 桜山天満宮(さくらやまてんまんぐう)(宮津市)
    古くより天神社・天満宮とも称する。もとはうしろの桜山にあったというが、その勧請年代は不詳。寛永年間(1624~1644)に宮津藩主京極高広が現地に再建したとも伝えられる。ここに祀られる菅公神像は、もと豊臣秀吉が身辺に守護神としてもっていたものを、側室松の丸(高広の父高知の妹)に与え、さらに高広に贈られたものと伝えられている。京極高広は境内地の一角に、田辺の円隆寺成就院より宥栄法印を招き成就院密厳寺を建てて天満宮の支配に任じた。
  • 千代桜天満宮(ちよざくらてんまんぐう)(向日市)
    延喜元年(西暦901年)、菅原道真が太宰府に左遷される際、別れを惜しむ者が道真のもとに集まった。桂川を渡り寺戸あたりの丘の中腹にあった見事な桜が100本余りを見ながら別れを惜しんだという。道真が去った後、村人が建てたのが千代桜天満宮である。

大阪府

  • 福島天満宮(ふくしまてんまんぐう)(大阪市福島区)
    菅公聖蹟二十五拝福島三天神のひとつ。福島には、三天神があり。上の天神、中の天神、下の天神と言う。現在の福島天満宮もともと上の天神と称された当天満宮上之社であり、社殿の戦災に遭われた天満宮中之社(中の天神)を合祀して、福島天満宮と改称た。
  • 天神社(てんじんしゃ)(大阪市福島区)
    福島三天神のひとつ。通称「下の天神」。
  • 安井神社(安居天満宮・やすいじんじゃ)(大阪市天王寺区)
    異称「安居天満宮」。天慶5年(942年)から菅原道真が祭られるようになったと伝えられている。菅原道真が大宰府に流されるときに、風待ちのために休息をとった為にその名がついたという伝承がある。また、大坂夏の陣で真田信繁(幸村)が、当神社境内で戦死したと伝えられ、境内に戦死跡之碑がある。
  • 菅原天満宮(すがわらてんまんぐう)(大阪市東淀川区)
    菅原道真公を祭神とし、寛永年間(1624~44年)、この地が開発されたときに勧請された。言い伝えでは延喜元年(901年)に菅原道真が大宰府へ左遷され淀川を船で下る途中、当地摂津の国、二重新家村住民の出迎えを受けて上陸され、逆川の土堤から東を眺めて京の名残を惜しまれた由緒ある土地であるとされている。
  • 生根神社(上の天神・いくねじんじゃ)(大阪市住吉区)
    異称「上の天神」。一帯は住吉大社の神領であったことから、住吉大社摂社であった生根神社(奥の天神。現在は住吉大社から独立)から、少彦名神の分霊を勧請して玉出の産土神としたのに始まると伝えられている。
  • 生根神社(奥の天神・いくねじんじゃ)(大阪市住吉区)
    異称「奥の天神」延喜式神名帳(西暦927年)に官幣大社として記録されている。古くから住吉郷の郷社であったが、江戸期に神宮寺とともに住吉大社の管理となり、明治5年に再び郷社に戻り現在は大阪市住吉区と住之江区に連なる地域の氏神様。別名「奥の天神」(奥天社)は住吉大社の奥の天満宮を称したとも、沖の天津神(少彦名命)から出た名称ともいわれている。
  • 天神ノ森天満宮(てんじんのもりてんまんぐう)(大阪市西成区)
    異称「紹鴎森天満宮」「子安石天満宮」「天下茶屋天満宮」。ご由緒によれば、菅原道真が左遷の折、この地で休憩され、その後祠が建立されたが、更にその後、京都北野天満宮の御分霊を奉斎して現在に至る。
  • 大阪天満宮(おおさかてんまんぐう)(大阪市北区)
    日本三大天神、菅公聖蹟二十五拝のひとつ。異称「浪華菅廟」「天満天神」。奈良時代 白雉元年(650年)孝徳天皇様が難波長柄豊崎宮をお造りになった頃、都の西北を守る神として大将軍社という神社をこの地にお祀りされた。以来この地は「大将軍の森」、後には「天神の森」と呼ばれている。
  • 綱敷天神社(つなしきてんじんしゃ)(大阪市北区)
    異称「綱敷天満宮」。今から千二百年ほど昔の弘仁十三年(西暦822年)に、第五十二代天皇であらされた 嵯峨天皇(さがてんのう)が当地に御行幸あそばされ、現在の御本社の位置に仮の御殿を構え一宿された事に由来する神社。
  • 露天神社(つゆのてんじんしゃ)(大阪市北区)
    菅公聖蹟二十五拝のひとつ。通称「お初天神」。創建以来一千三百年の歴史を持つ古社で、「難波八十島祭(なにわやそしままつり)」旧跡の一社である。曽根崎・梅田地域の総鎮守として現在も崇敬を集める。
  • 淀川天神社(よどがわてんじんしゃ)(大阪市北区)
    天平10年(738年)行基がこの一帯を開拓した時、その守護神として天穂日命を勧請したのが当社の渕源だといわれる。この神は天照大神の第2子で、子孫に野見宿禰・菅原道真・大江匡房等を出したので、今は道真の霊を祀って天満宮になっている。
  • 菅原神社(すがわらじんじゃ)(堺市堺区)
    通称「堺天神」。もとは「天神社」と言い、神宮寺の常楽寺(天台宗)があった。997年に天神社として菅原大神を奉祀する。明治5年天神社を菅原神社と改める。常楽寺廃寺。
  • 萩原神社(はぎわらじんじゃ)(堺市東区)
    異称「萩原天神」。天徳3年(960年)に菅原道真が祀られたとされる。また旧本殿は江戸時代初期に萩原山天満宮として建造されたもので、今は境内に保管されている。明治末期には近くの7社が合祀され、広大な氏子域を有するようになった。
  • 菅生神社(すごおじんじゃ)(堺市美原区)
    延喜式内社の一つ。天神(菅原道真を神格化)を勧請・配祀し、「菅生天満宮」と称して有名になった。境内には、菅原道真の出生の場所と伝えられている「菅沢」という沢がある。
  • 服部天神宮(足の神様・はっとりてんまんんぐう)(豊中市)
    通称「足の神様」。延喜元年(901年)、菅原道真が、大宰権帥として左遷され任地へ赴く途中、持病の脚気で動けなくなった際、当地での路傍の祠に平癒を祈念したところ、たちまち健康を取り戻したという言い伝えから「足の神様」として崇敬を受けている。
  • 上宮天満宮(じょうぐうてんまんぐう)(高槻市)
    菅公聖蹟二十五拝のひとつ。菅公没後100近く経った正暦四年(九九四)、菅公へ正一位左大臣の位を遺贈する勅使として菅原為理が太宰府へと赴いた帰り、当地の領主近藤氏の城館に宿泊。翌朝、出立しようとしても輿が動かなかったことから、里人が日神山上に天満宮本殿を造営し改めて三神を併祭し奉っている。実際の創建はこれより五十年も早く、京都北野社鎮座以前であり、全国天神社のうち二番目の古社とされている。
  • 子安天満宮(こやすてんまんぐう)(高槻市)
    菅原道真が大宰府左遷の折、身重の側室が道真を追いこの地に来た時に産気をもよおし、運悪く流血して死去。以後、婦人安産の神として知られ参詣客が多い。ちなみにこの土地の赤大路の地名は、その時の流血が道を覆ったことから来ている。
  • 蹉跎神社(さだじんじゃ)(枚方市)
    大宰府左遷の途中、菅原道真がこの地の菅相塚にて休息された。その後、菅公がご寵愛を受けた苅屋姫が、御跡を慕いこの地で遥に西を望み蹉跎(あしづりすること)して悲しまれましたことから、その旧跡が蹉跎山と名づけられた。
  • 菅原神社(すがわらじんじゃ)(枚方市 長尾宮前町)
    元和元年(1,615年)大坂落城の後、徳川家康の命により、旗本の久貝因幡守正俊公が長尾の荒野山林を開拓し新田や畑を造った。その際、「鎮守をたてて村の団結を図るが良かろう 」と京都長岡天神の分霊を受け、質素な氏神をこの地に建てたのが「菅原天神」の始まり。
  • 藤坂菅原神社(ふじさかすがわらじんじゃ)(枚方市 藤阪天神町)
    藤坂村の始めは津田村から分かれたもので古くはその名が永仁6年(1298)三宮奉加の村々中に記されている。其の頃は津田郷の脇宮として三宮座衆で祀られていたと伝えている。天正年中(1573年より1593年)津田城主主水頭正時は、当社の造営をなし村人は天満山を伐り開いて畑地や屋敷を広げた。天満のお茶屋はこの宮の前にあって坂道の傍の藤の古木と共に交野近在にその名を知られた。
  • 菅原天満宮(すがわらてんまんぐう)(枚方市)
    称念寺過去帳に正徳2年(1712)にこの地に住民が棲んでいたことが記載されている。
  • 千代田神社(ちよだじんじゃ)(河内長野市)
    正式名称「菅原神社」。もとは「天神社」とか「天満宮」。明治時代になって「菅原神社」と称し菅原道真公を主神として祀る神社。大正五年四月に村名が千代田村と改称され、「千代田神社」 と呼ばれるようになった。
  • 道明寺天満宮(どうみょうじてんまんぐう)(藤井寺市)
    ※日本三躰天神、菅公聖蹟二十五拝のひとつ。古くから、遠祖天穂日命をお祀りした土師神社に加え、聖徳太子の発願により土師寺が建てられた。また、道明寺には、道真公の叔母である覚寿尼公がも住んでいた。この地を第二の故郷として慕っておられた菅公が亡くなり、天暦元(947)年に残し置かれた木像を北丘にお祀りし、ご遺品をご神宝として安置し、土師寺を道明寺と改称した。
  • 屯倉神社(みやけじんじゃ)(松原市)
    異称「三宅天満宮」。天慶5年(942)に菅原道真を祭神として創祀された。この地にはもともと、土師氏(のち菅原氏に改姓)の祖神である天穂日命を祀る穂日の社があり、同社は、のち依羅三宅天満宮ともよばれた。道真に関わる伝承品が多く残されている。
  • 菅原神社(三箇菅原神社・すがわらじんじゃ)(大東市)
    住道地区の氏神で、1679年(延宝七年)の「三箇村検地帳」には既に名があり、当時は「氏神天満宮」と称されていた。社地内には稲荷社も鎮座し、天神様とともに五穀豊穣の神様である。
  • 紀部神宮(きべじんぐう)(池田市)
    異称「紀部神社」「木部天神社」。天平年間(729~749年)、『紀国造』の末裔である『紀部氏』が、その祖神を祀ったのが創始。長暦3年(1039年)『紀部大神』の称号を得、祭神として、『菅原道真』を主神とし、『天道根命(あめのみちねのみこと)』を配祀した。
  • 総福寺天満宮(そうふくじてんまんぐう)(泉佐野市)
    異称「日根野天満宮」。創建は不明だが鎌倉時代の「日根荘日根野村絵図」の禅林寺の場所に推定されている。境内社の天満宮社殿は一間社春日造り檜皮葺の小社。様式手法ともに桃山時代の特徴をよくとどめており、国の重要文化財に指定されている。

兵庫県

  • 綱敷天満神社(つなしきてんまんじんじゃ)(神戸市東灘区)
    別雷大神が天神山におまつりされていたことに始まり、聖徳太子が御影石を発掘され倉稲魂大神祀られてる。菅原道真公が別雷大神をまつる天神社に2度参拝した御縁で道真公も祀られている。
  • 柳原天神社(やなぎはらてんじんしゃ)(神戸市兵庫区)
    人皇第60代醍醐天皇の昌泰4年(901)正月、右大臣菅原道真公は、九州太宰府へ左遷される事となり、その途次、当地兵庫港に上陸し、折から咲き誇る梅花を賞で『風さむみ 雪にまかへて咲く花の 袖にぞ移れ 匂ふ梅が香』と詠じた。公の太宰府に崩ぜられるや、太宰府安楽寺の菅公廟より御分霊を迎え奉祀されている。
  • 綱敷天満宮(つなしきてんまんぐう)(神戸市須磨区)
    菅公聖蹟二十五拝のひとつ。神戸では須磨の天神さまと親しまれ、合格祈願・学業成就を始めあらゆる御祈願に御利益がある。その昔、菅原道真公が九州に渡るおり、須磨の浦に立ち寄り、須磨の漁師が造った大綱の円座で休憩された事にちなみ、菅原道真公がお亡くなられてから76年後にこの地に創建された。
  • 北野天満神社(きたのてんまんじんじゃ)(神戸市中央区)
    治承4年(西暦1180年)6月、平清盛公が、京都から神戸に都を移し、「福原の都」をつくるに当たって禁裡守護、鬼門鎮護の神として、京都北野天満宮から勧請して祀られたもの。
  • 大塩天満宮(おおしおてんまんぐう)(姫路市)
    菅公聖蹟二十五拝のひとつ。延喜元年(901)、菅原道真が太宰府左遷の途中、当地東方の日笠山に登り、牛谷の妙泉寺に霊鏡を奉納し、伊屋明神に詣でられた。寛弘年間(1004~1011)、菅公の祖神を祀る伊屋明神にその霊を奉祀したのがはじまり。
  • 津田天満神社(つだてんまんじんじゃ)(姫路市)
    菅原道真が太宰府へご左遷の際(延喜元年、901)、津田の細江に嵐を避けて船を寄せ、当社お旅所「史蹟菅公小憩伝説地」(県指定)の石碑がある思案橋のほとりで、とも綱を敷いて休憩されたと伝えられる。後世、里人が、菅公の御徳を敬慕して、この氏宮に主神として祀ったもの。
  • 廣畑天満宮(ひろはたてんまんぐう)(姫路市)
    創祀は霊泉「御水が池」の畔に祀った「廣辻神社」。延喜元年(901)菅原道真公が御西下の途中、当地浜の汀に上陸せられ、以来「広」の人々は(以前はこのように呼んでいた)公の御人格と御学識を深く敬抑し、太宰府で御薨去の後、天満大神として御鎮座を仰いだ。
  • 九所御霊天神社(くしょごりょうてんじんしゃ)(姫路市)
    天平年間に聖徳太子が播磨国分寺の大伽藍を建立されたときには、既に天人衣を着た天神をお祀りする天神社があり、付近一帯の総 鎮守の霊神であったと伝えられている。
  • 千姫天満宮(せんひめてんまんぐう)(姫路市)
    徳川家康の孫・豊臣秀頼の正室である千姫は、天神信仰があった。1615年(慶長20年)の大坂夏の陣で秀頼が自害し千姫は寡婦となる。翌1616年(元和2年)本多忠刻と再婚。千姫は本多家の繁栄を願い姫路の天門(乾・北西)の鎮めとするため1623年(元和9年)3月に男山に天満宮を建立し6枚の羽子板を奉納した。千姫が生活していた姫路城西の丸から拝礼出来るように東向きに造営されており、千姫は長局の廊下から拝礼していたと伝わる。
  • 家島神社(いえしまじんじゃ)(姫路市)
    別称:家島天満社。播磨灘の中央に、44とも数えられる家島諸島が浮かぶ。ここは国生み神話の伝承地、そして、海洋交通の要衝として重要な位置にある。家島本島は、諸島の中でも特に入り江が奥深く、絶好の港になっている。伝えられる処では、神倭磐彦命(神武天皇)が、大和橿原の地に向かわれる途次、当地へ御寄港になられたところ、港内が風波穏やかで、あたかも家の中にいるように静かであったので「いえしま」と名付けたという。当社はこの時、武運長久と海上航海の安全を祈願して天神をお祀りしたに始まると伝わる。境内入り口には、菅公上陸の地とされる「詩オ書き石」と呼ぶ岩場があり、大鳥居横には万葉の歌碑がある。
  • 長洲天満宮(ながすてんまんぐう)(尼崎市)
    菅公聖蹟二十五拝のひとつ。太宰府左遷の折、長洲の浦に舟待ちされ、村人は公より「人知れず移る涙は津の国の長洲と見えて袖ぞ朽ちぬる」の歌と自画像を賜った。公の没後、その徳を称えて叢祠を建て画像を奉斎したが、後世領主が他に移封された折に画像を強いて持ち出したところ凶事多く、返却したという伝えがある。
  • 天神社(休天神・てんじんしゃ)(明石市)
    菅公聖蹟二十五拝のひとつ。通称「休天神」。道真は延喜元年(901年)、大宰府への途中でここに立ち寄り、明石の駅長(うまおさ)の出迎えを受ける。道真が讃岐守だった時、何度か立ち寄ったことがあるらしく、駅長とは面識があった。大宰府へ行った道真が亡くなったと聞いたその駅長が、道真を祀る祠を延喜3年(903年)に建てたのが当社の始まり。
  • 打出天神社(うちでてんじんしゃ)(芦屋市)
    元々は地元の守り神を祀る「産土神」として創建されたが、芦屋荘が京都・北野天満宮の社領だった事、そして打出が西国街道が通る交通の要衝だったことから天神信仰ブームが比較的早く伝わり、平安時代末期には菅原道真公を御祭神とする天神社としての体裁が整えられていたと考えられる。1667(寛文7)年には、初代宮守・南嶺氏が願主となって菅原道真公の木像が納められたという話が残されている。
  • 天満神社(てんまんじんじゃ)(宝塚市)
    延元年間(14世紀初)、摂津国住吉郡吾孫子(現:大阪市住吉区我孫子町)の豪族であった若池貞満が、天満宮を奉じて祀ったと伝えられる。
  • 曽根天満宮(そねてんまんぐう)(高砂市)
    日本三大天神、菅公聖蹟二十五拝のひとつ。菅原道真公は無実の罪により九州大宰府へ左遷される。その途中伊保港に船を寄せて、曽根天満宮西方の日笠山に登られ「我に罪無くば栄えよ」と祈って山上の小松を植えられた。これが霊松(れいしょう)曽根の松で、現在も幹が保存されている。その後、四男淳茂公(あつしげこう)が、家臣13人と共にこの地を訪れ、父君ゆかりの場所に社殿を建てお祀りしたのが創始とされる。
  • 天満神社(てんまんじんじゃ)(加古郡稲美町)
    元は王子権現や隣接する天満大池を神格化した池大明神を祭神としていたが、菅原道真が大宰府に向かう途上に当地で休息をしたという伝承から道真を主祭神とする天満宮になったと伝えている。
  • 河上神社天満宮(かわかみじんじゃ)(洲本市)
    河上神社は、古くは国幣にあずかり崇拝されてきた神社である。相殿の天満宮は延喜元年(九〇一)菅原道真公が筑紫に下向される途上播磨灘で強い北風にあい船を都志浦に寄せられ「川上に貴き霊神あり」と聞かれて当河上神社にお参りし祈念されたという。その由縁をもって菅公が太宰府に於いて薨ぜられた後里人たち敬慕して此所に管廟を営みお祀り申し上げ以来 淡路唯一の天満宮として崇められている。

奈良県

  • 菅原天満宮(すがわらてんまんぐう)(奈良市)
    菅原家発祥、菅原道真公生誕の地である道真公を祀る日本最古の天満宮。毎年2月25日にはお田植祭(おんだまつり)が行われます。 また、梅の時期には毎年「盆梅展」が行われ、丹精込めて育てられた古木や巨木からふくよかな梅の香りが一足早い春を告げます。
  • 佐保川天満宮(さほがわてんまんぐう)(奈良市)
    佐保川天満宮は、多聞山に「眉間寺(みけんじ)」の鎮守として祀られたのが始まりとされる。多門山に祀られていたことから、天神の宮、草天神、茱萸天神などとも呼ばれていた。
  • 天神社(てんじんしゃ)(奈良市)
    承保5年(1078年)の草創とされる。後に、元興寺禅定院鎮護の社、興福寺大乗院の鎮守社となる。祭神はもともと少彦名命であるが、この神は手間天神という別名を持つことより、てまてんじんとも呼ばれた。平安時代、白河天皇の御世に、菅原道真公を相殿に祀る。
  • 飛鳥神社(あすかじんじゃ)(奈良市)
    高市郡明日香村の真神ヶ原に鎮座していた飛鳥神社を、平城遷都にあたって平城京左京四条に奉遷し、国家鎮護の霊社としたことに始まる。応安2年(1369年)、現在地に遷座。菅原道眞が祀られたのは、京終郷と高畠村の水論で高畠村は将軍家に訴えたが、北野天神に祈願したところ京終郷が利運を得たためとされる。
  • 水鏡天神社(みずかがみてんじんしゃ)(奈良市)
    菅原道真が九州太宰府に配流の際、本地に立ち寄り、本殿右の井戸に姿を写したと伝えられ、社名の由来ともなった。
  • 柏木天満宮(かしわぎてんまんぐう)(奈良市)
    奈良県奈良市柏木町にある神社。単に天満神社とも。本殿は春日大社末社。祓戸神社旧本殿の移しとの説がある。
  • 天満神社(てんまんじんじゃ)(宇陀市)
    春日神社がこの地の氏神で、天満宮はここに遷座して来て、主神とされている。宇陀野や河内の交野は皇室の遊猟地であって、一般の狩猟を禁じた野であった。これを禁野と言う。羽槌社はそこに鎮座していた倭文織の神と思われる。
  • 與喜天満神社(よきてんまんじんじゃ)(桜井市)
    菅公聖蹟二十五拝のひとつ。祭神は菅原道真。昭和3年発見の菅原道真神像、ならびにその頭部から検出の正元元年(1259年)在銘御影鏡から少なくとも神社の鎮座時期は鎌倉時代の初期とみられる。今の社殿は文化5年(1818年)に再建されたものである。
  • 威徳天満宮(いとくてんまんぐう)(吉野町)
    奈良県吉野郡吉野町吉野山の金峯山寺の境内にある神社。菅公聖蹟二十五拝の第7番。当宮としての御朱印の有無は不明。御祭神は菅原道真公、境内末社として、厳島神社・朝原神社・稲荷神社がある。天満神社ともいい、社伝によれば、平安時代の天徳3年(959年)9月5日に鎮座。
  • 高天彦神社(たかまひこじんじゃ)(御所市)
    古代豪族、葛城氏の最高神で、記・紀神話の中で、出雲へ国譲りのための使者を命令した高皇産霊神を祀っている。ほかに市杵島姫命(福岡県宗像郡宗像神社三宮に祀られています女神の一人)・菅原道真も祀る。神社の形体は古く、桜井市の大三輪神社と同様にご神体は山(神社背後の白雲峰)であるので、本殿はない。高天の広大な大地は、記紀に登場する天孫降臨神話の舞台となったところではないかと言い伝えられている。

和歌山県

  • 津秦天満宮(つはたてんまんぐう)(和歌山市)
    菅原道真公を主祭神としている。道真公は、昌泰4(901)年1月25日左遷の詔により、2月1日太宰府に向われる途中、和歌吹上の浦に船をつけられ、当時、入海であった津和田村の「千早の杜」をたずねられ、(現、津秦天満宮の境内地)「わがたよる千早の宮のます鏡くもらぬすがたうつしてぞゆく」「ふりかえりかへり行くかも別れにし、千早の杜の見ゆるかぎりは」と御子、好寛公とのつきぬ名残りを惜まれ、御子を隣村の神前の里、中務家に預けられた。『紀伊續風土記』では、筑紫安楽寺より、菅原道真公の画像を勧請したともいわれ、また当地の道真公を敬信していた農民が、京都北野天満宮に参詣した時の霊夢によって、社殿を建てたとも伝えられている。
  • 和歌浦天満宮(わかうらてんまんぐう)(和歌山市)
    日本三大天神のひとつ。学問の神様である菅原道真が祀られ、大宰府天満宮、北野天満宮とともに日本の三菅廟といわれる。建築にあたったのは紀州根来出身の平内吉政・政信親子。後に政信は江戸幕府の作事方大棟梁になった当代屈指の工匠。楼門は一間楼門として最大規模。本殿は国重要文化財で、内外部ともに美しい極彩色が施されている。

中国・四国地方

島根県

  • 白潟天満宮(しらかたてんまんぐう)(松江市)
    菅原道真公をまつった神社で、地元では「天神さん」と呼ばれ学問の神様として親しまれている。境内に道真公の幼少時代の神像「おかげ天神」が建立され、毎月25日は近隣の天神町商店街で「天神市」が斉行される。
  • 菅原天満宮(すがわらてんまんぐう)(松江市)
    菅原道真公の誕生の地と言われる、島根県宍道町菅原にある。「鼻繰御神梅」「野見宿禰の墳墓」など古来からの言い伝えがあり、のどかな出雲の田園に囲まれ訪れる人を神話の世界にいざなう。
  • 玉造天満宮(やまつくりてんまんぐう)(松江市)
  • 湊神社(みなとじんじゃ)(隠岐の島町)
  • 釜屋神社(かまやじんじゃ)(隠岐の島町)
  • 天満宮(てんまんぐう)(出雲市)

鳥取県

  • 賀茂神社天満宮(かもじんじゃてんまんぐう)(米子市)
    古くより天神町に鎮座し、庶民の崇敬を受けるが由緒は不詳。「7月25日の例祭は神輿町中残らず巡幸し、夜は海上神事あり。府内の老若男女天満のすずみと称して、月の内より数多の船四方に漕ぎ違い、琴、三味線をもって舞い歌うもあり。酒肴を商う船漕廻り、陸には海辺に床几を設け氈を敷いて賑わう有様、浪花天満の納涼をうつして其のさま筆に尽しがたし」と米府神社由来記に記載され米子では盛大な夏祭りとしての言い伝えがある。明治元年、北野神社と改称し大正4年稲荷神社に合祀される。昭和36年賀茂神社に稲荷神社が合祀される際、米子唯一の天神様として尊崇厚く、天満宮の名を残し、合祀後は「賀茂神社 天満宮」とされる。

岡山県

  • 硯井天満宮(すずりいてんまんぐう)(玉野市)
    菅原道真が藤原時平の讒言によって左遷され大宰府へ船で向かう途中、現・玉野市八浜町の周辺に上陸した際、干潮時の海岸の砂浜のくぼみに水がふき出しているのを見つけ、それを飲むと、不思議なことにもとは海中であるはずの場所にもかかわらず塩気の無い清水であった。そのことを「神の恵み」と感謝した道真は、手を打って拝んだ。すると、くぼみから新たに水が湧き出し、その後も手を打つたびに水が湧き、しかも、湧き出す水には金の砂が混じっていたという。そのことに驚いた道真は、その水を硯にうつし、一首の歌を詠み、里人に与えたという。海ならず たたえる水の 底までも 清き心を 月ぞ照らさん
    後に、歌を詠んだ人間が道真であることに気づいた里人たちが、水の湧いた場所に井戸と鳥居を建て、その近くの山に天神社をまつった。
  • 威徳天満宮(いとくてんまんぐう)(西粟倉村)
    長徳5年、この地方に流行病がはやった際、光り輝く不思議な老人の言うとおりにすると、病が治まった。「我は菅原道真なり」と言い、その老人の姿はかき消すかのようになくなっていったという言い伝えがある。後年、ここでは、村人達が御社の前を牛馬に乗って通ることがあれば又祟りを受けて長く患う人が出てはいけないと、村の長達が相談して元の引谷の、山裾の松の木の根元の処にお帰り願おうと、御社を造って祀ったもの。学問の神様菅原道真を祀る学業の神社として地元の住民が合格祈願に訪れる。

広島県

  • 尾長天満宮(おながてんまんぐう)(広島市東区)
    平安時代まだこの地は広く海でありましたが、現在の尾長山に明星峰(尾長山)天神社という小さな社がありました。延喜元年(901)、道真公が太宰府に左遷されたとき、当地に着船されました。明星峰天神社に参詣後、しばらく休息を取られました。久寿元年(1154)、安芸国守平清盛主従がこの明星峰に参詣の際、山中にて大豪雨と落雷の災難に遭い、進退絶命を感じましたが、不思議にも九死に一生を得ました。清盛は雷雨の中で知らず知らずのうちに、遥かに道真公の御加護を熱願していたことに気付き、深く神徳に感銘を受けました。よってこの一帯を信仰の山「菅大臣(かんだいじ)の峰」と名付け、峰に社殿を創建して、道真公の神霊をお祭りすることとしました。
  • 廿日市天満宮(はつかいちてんまんぐう)(廿日市市)
    廿日市天満宮は鎌倉時代の承久2年(1220年)に藤原親実公が厳島神社の神主として幕府より任命され、廿日市の桜尾城に着任の後天福元年(1233年)に守護神として鎌倉の荏柄天神を勧請してこの篠尾山に社殿を造り鎮座されたもので、それよりこの山を天神山と言うようになりました。
  • 沖友天満宮(おきともてんまんぐう)(呉市)
    芸藩通志には、「天禄2年(971)7月初めて建つ」と記録されており、1000年余りの古い歴史を持つ神社であることがわかります。天満宮の牛は「神の使い」とされており、その理由は諸説ありますが、菅原道真公にちなんだ数多くの言い伝えが残っています。
  • 御袖天満宮(みそでてんまんぐう)(尾道市)
    菅公聖蹟二十五拝のひとつ。学問の神様 菅原道真公を奉っています。
    その昔、菅原道真が京より大宰府へ流される途中、尾道へ立ち寄りました。その際に民衆に親切にしてもらったお礼に着ている服の袖を渡されたことに由来するそうです。

山口県

  • 梶返天満宮(かじかえしてんまんぐう)(宇部市)
    今より1080年前、延喜元年菅原道真公が九州大宰府に流される道中、三田尻港を出てまもなく海上大暴風雨にあい梶返の辻地蔵岬に避難して風のやむのを待った。その場所が、当時着巌森と呼び現在の社殿地である。当時はこの地を梶返地蔵見崎ヶ崎などど呼んでいた。この付近の人は梶返地蔵岬を船出され三年後に九州大宰府で死去された道真公の徳を慕って社を建て、着巌社といい後に着巌天満宮ともいった。この地が梶返と呼ばれるのは道真公の乗っておられた船の舵をかえしたことからだといわれている。
  • 古熊神社(ふるくまじんじゃ)(山口市)
    通称「山口の天神様」。福部童子は、御祭神 菅原道真公の子ども。菅公御左遷の時に父を慕って京都から太宰府に向かって旅立たった。御年11歳。山口の地まで辿り着かれた後 夏病みにかかり、ここより先に進むことが出来なくなった。そこで共の者が太宰府へ行き、父 道真公に 福部様が山口まで来て病に倒れたことを告げると自分は行くことが出来ないので、御簾に自分の姿を写した物を共に託した。福部童子は、その御簾を見て安心され「私はこの地で果てるけれど、ここの人たちが夏病みにかからないように守りましょう」と言われて亡くなった。薨去後 今市 甘露院に葬られる。山口市駅通りに福部童子のお墓所がある。
  • 防府天満宮(ほうふてんまんぐう)(防府市)
    日本三大天神、周防の国三大天神菅公聖蹟二十五拝のひとつ。日本最古の天満宮(最初に立てられた菅廟)道真公は、九州大宰府への西下の途中、時の周防国(山口県)国司である土師氏(道真公と同族)を頼り、本州最後の寄港地となる防府の勝間の浦に御着船になり、「此地未だ帝土を離れず願わくは居をこの所に占めむ」と願い、九州へと旅立たれた。大宰府にて薨去されたちょうどその日、防府勝間の浦に神光が現れ、酒垂山(現・天神山)に瑞雲が棚引き人々を驚かせた。国司を始め里人たちは道真公の御霊魂が光となり雲となって「此地」に帰ってこられたと悟り、翌年の延喜4年(904)道真公の願われた通り、御霊魂の「居」を「この所」である松崎の地に建立して「松崎の社」と号した。
  • 今津天満宮(いまづてんまんぐう)(岩国市)
    その昔、祭神の菅原道真公が太宰府に左遷される際に航路で安芸の国を過ぎ、この地へ行き着いたことがの始まり。当時「鞠布の地」と呼ばれていた頃に公が気に入り、休息地として過ごされた。そして櫂を使って丘を上がったのが当地と言われており、現在でも船を岸につなぎとめていた所に記念碑が建てられている。
  • 冠天満宮(かんむりてんまんぐう)(光市)
    元々は、光井の地にあることから「光井天満宮」と称されていた。菅原道真公が祀られ、多くの崇拝を受けている。太宰府への下向の際、風波をさけて今の光市の戸仲の浦に立ち寄られた時に、百姓の神太夫(じんだゆう)が手厚くもてなしたお礼として冠を脱いで神太夫に与えられた。その神太夫も亡くなり30数年を経て承平4年(934年)10月7日の夜より三夜にわたって神太夫の長男の太郎次に夢中のご託宣があり、「東の山の梅の古木に今宵のうちに花を開かしめん、その地に社を建て冠を神体として祀るべし」太郎次隣家の人々と語らい尋ね見れば果たして梅花咲き満ちて春のようだったと言われている。
  • 柳井天満宮(やないてんまんぐう)(柳井市)
    今から約300年の昔、柳井の豪商 貞末宗故(さだすえそうこ)が公用で大阪へ上ったとき、天満天神(大阪天満宮)へお参りした。そのとき履いていた木履(ぼくり)の歯にはさまった天神様の像を持ち帰って、元禄10年(1697年)に祀ったのが始まりだといわれている。
  • 金谷天満宮(かなやじんじゃ)(萩市)
    鎌倉時代の初め、1186年に長門国守護職 佐々木四郎高綱が大宰府より勧請したとされる。享保5年(1720)に萩城下への入口である現在地(萩市椿)に遷宮された。
  • 金麗社(きんれいしゃ)(美祢市)
    菅原道真を祀る天神様で、古くから土地の人に親しまれてきた神社。大田絵堂の戦いの時には諸隊の本営となり、高杉晋作や山県有朋らが軍議を行った。また、戦勝祈願のもとどりが奉納されていた。
  • 厚狭天満宮(あつさてんまんぐう)(山陽小野田市)
    厚狭天満宮の歴史は、実に複雑であるが、まずは寛永2年(1625)9月、地元の大庄屋、枝村家7代当主(酒造業)が、萩の奥金谷に祀られていた金谷天満宮の分霊を、七瀬川(厚狭川)の河東(本町1区)自宅屋敷内に鎮座したことが始まり。

徳島県

  • 徳島眉山天神社(とくしまびざんてんじんしゃ)(徳島市)
    もと潮音寺の鎮守として、瑞巌寺一顎和尚が甲州景恵時寺から携えてきた高さ6寸の渡唐天神木象を祀ったのが起源とされる。文化6年(1809)現社地に1社を創建、潮音寺の神像を祀り、旧藩主蜂須賀公代々代々保護し、文教の神として尊崇した由緒ある社である。

香川県

  • 滝宮天満宮(たきのみやてんまんぐう)(綾歌郡綾川町)
    菅公聖蹟二十五拝のひとつ。光孝天皇の御代、仁和2年正月16日、菅原道真公が御歳42歳のときに讃岐の国司に任ぜられた。同年4月御来任、阿野南条郡滝宮の官舎に住まわれた。現在の神社境内地はその官舎跡

愛媛県

  • 綱敷天満神社(つなしきてんまんじんじゃ)(今治市)
    菅原道真公が筑紫へ下向の時風波の難により当地へ流着され、郡司越智息利ら里人と共に道真公の至誠に接し、後に片身の神像を素波神と称して奉祀した。伊予旧記によれば天慶5年9月25日の創建と伝えられている。

高知県

  • 潮江天満宮(うしおえてんまんぐう)(高知市)
    道真公が太宰府(だざいふ)で、延喜3年(903)2月25日に薨去(こうきょ)されると、侍臣白太夫は遺品を護持してこれを高視朝臣に伝えるため、はるばる土佐に来国した。白太夫は老齢と難路に苦しみ健康を害し、ようやく長岡郡大津村舟戸(現高知市)の霊松山雲門寺にたどりついたが病を発し、延喜5年(905)12月9日79歳で歿した。高視朝臣は、白太夫の没後その遺品をおさめ、これを霊璽(みたましろ)として祀ったのが潮江天満宮の由来である。

九州地方

福岡県

  • 菅原神社(すがわらじんじゃ)(北九州市戸畑区)
    菅原道真が太宰権帥に左遷され、筑紫の太宰府におもむく途中、天籟寺の地に一夜宿をとったという。のち太宰府に道真の廟が建立された時、その由来によって現在地に勧請したのに起ると伝えられている。
  • 菅原神社(すがわらじんじゃ)(北九州市小倉北区)
    右大臣・菅原道真公は延喜元年(901年)四月廿五日、太宰権師として京都より左遷され、筑紫へ向かう途中、神嶽川のほとり、とある小島(今の「天神島」)に一休み、風光明媚な企救の浦を賞でられた跡と伝え、菅公亡き後、その遺徳を偲び、一祠を建立したのがはじまり。
  • 水鏡天満宮(すいきょうてんまんぐう)(福岡市中央区)
    天神地区」の名の由来。太宰府に左遷されて博多に着いた菅原道真は、今泉辺りを流れていた四十川(しじゅうがわ・現在の薬院新川)の水面に映った自身のやつれた姿を見て、嘆き悲しんだという。これにちなんで今泉に建てられた容見(すがたみ)天神は、福岡藩初代藩主・黒田長政によって水鏡天満宮として現在の地に移された。福岡城の鬼門除けとして移された水鏡天満宮は、以来福岡の地を守ってきている。ちなみに「天神」とは菅原道真のことであり、このときの移転が天神の地名の由来。
  • 鏡天満宮(かがみてんまんぐう)(福岡市博多区)
    鏡天満宮(かがみてんまんぐう)は、福岡県福岡市博多区川端にある神社(天満宮)である。鎮座地は菅原道真が博多に到着した時に鏡で姿を映した場所と伝えられ、そのときの鏡を神体とすることから「鏡天満宮」という社名になった。
  • 綱敷天満宮(つなしきてんまんぐう)(福岡市博多区)
    菅公聖蹟二十五拝のひとつ。祭神は菅原道真。道真が袖の湊上陸の折、漁人が舟の綱を輪にして敷物を作り休憩の場所にしたという伝説による。江戸期には綱輪天神と呼ばれた。町名である綱場の地名は、戦国期の日明貿易資料に「綱庭」と見え、綱は宋(960~1279)の時代に「船団」を意味することから、貿易や船に由来する地名と考えられている。現存しないが、元禄の頃国学者松下見林(1673~1703)が綱敷の神影(菅公画像)を寄進したことがあるという。
  • 立帰天満宮(たちかえりてんまんぐう)(福岡市中央区)
    本社の御神体は菅公御手作の尊像と伝えられている。延喜二年(九〇二年)のある日、菅公は天拝山(筑紫野市)に登られはげしい雷雨の中、七日七晩の間国家の安泰と御自身の無実の罪を天に祈られました。この天拝に先だち近くの龍王の滝で百日間の斎戒沐浴をされた折に、手ずからご自分の像を彫られこの地に置かれたとのこと。
  • 埴安神社(はにやすじんじゃ)(福岡市中央区)
    埴安命(はにやすのみこと)は土の神様とされている。かつては探題塚の上にありましたが、現在は新町公民館の敷地に他の石碑類とともに祀られている。
  • 野方天満宮(のかたてんまんぐう)(福岡市西区)
    この神社は、この筑紫(ちくし)の地方にゆかり深き神、菅原道真(すがわらのみちざね)を祭神に祀り、この地に古くより野方(のかた)と呼ばれてきたところのその一角に鎮座している。
  • 駛馬天満宮(はやめてんまんぐう)(大牟田市)
    学問の神様で有名である菅原道真公がお祀りされている。菅原道真公が大宰府に流された時、明鏡に向かい自画像を描かれ、悲嘆にくれている都に残された北の方(奥方)や子息を慰めんために自画像を送られた。その自画像をご神体として、宮原の地に承平三年(933年)十一月二十五日に社殿を造営しました。全国の天満宮の中でも古くから鎮座されている。
  • 船津天満宮(ふなつてんまんぐう)(大牟田市)
  • 北野天満宮(きたのてんまんぐう)(久留米市)
    天喜2年(1054年)に創建。時の関白藤原道隆の孫、貞仙僧正が、京都の北野天満宮より菅原道真公の分霊をこの地に祀ったことが始まり。祭神、菅原道真公ゆかりの花といえば「梅」。御神橋を渡り、朱色に潤色された華麗な桜門をくぐると、玉垣の内に「神梅」が枝を伸ばしている。これは、太宰府の「飛び梅」になぞられたもの。境内には県の天然記念物に指定されている樹齢900年の大樟がある。祭神、菅原道真公とカッパについての伝説もあり、その伝説を証明するかのように、現在でも「カッパの手」が天満宮の宝物として大事に保管されている。
  • 櫛原天満宮(くしはらてんまんぐう)(久留米市)
    後鳥羽天皇の御代、文治5年9月(西暦1189年)御分霊を仰ぎ、当地区の鎮守の神さまとしておまつりされた。天文年間(西暦1532年から1554年)のいくさによる災害で、それまでの444年間の古い記録が残念なことになくなってしまい、詳細は不明。 鎌倉幕府をひらいた源頼朝がご創建したとも伝えられている。南北朝期観応3年(1352)2 月に書写されたとされる「安楽寺領注進目録」には、櫛原庄の記載があり、安楽寺すなわち現在の太宰府天満宮の領地があったことがわかる。
  • 青木天満宮(あおきてんまんぐう)(久留米市)
    老松宮の「社領弐拾五町、天正年中まであった」と伝えられる。建立は、市の宮の南方、広々とした田園に囲まれた老松茂る場所に後二条院の御宇正安2年(1300)に当村の領主堀右京進が天満宮を勧請したのが始まり。
  • 東林寺天満宮(とうりんじてんまんぐう)(久留米市)
    宝暦2年(1752年)2月22日、東林寺住職の玄境法印は筑前国武蔵(福岡県筑紫野市)にて宿泊した際に、武蔵寺にて秘蔵されていた 菅原道真公 自作と伝えられる御神像を東林寺に迎え、天満宮を建立せよという夢のお告げを受けた。また同日同夜、武蔵寺住職の定応法印にも、御神像を東林寺に遷し奉るべきとの夢のお告げがあった。このことにより同年5月25日に御神像を東林寺に迎え、境内に天満宮を創建したのがはじまり。
  • 水田天満宮(みずたてんまんぐう)(筑後市)
    水田天満宮は、御祭神 菅原道真公をお祀りいたし鎌倉時代の嘉禄二年(鎌倉時代1226年)に菅原長者大蔵卿為長朝臣が後堀河天皇の勅命により建立し、明治維新までは後堀河天皇 勅願所の提灯が御本殿の左右に灯されていました。
  • 梅安天満宮(うめやすてんまんぐう)(中間市)
    文永年間(1264年 – 1274年)に「太宰府の菅公」を勧請したもので、延享年間(1744年 – 1747年)に惣社山より現在地より移されたものという。この神社で特筆すべきは、「うそ替え神事」が行われることであろう。7月24日の夏祭りに氏子による手作りの「木うそ」が授与され、その「木うそ」に書かれた番号によって抽選で賞品が当たる。この点が、木うそを交換しあう太宰府天満宮のうそ替え神事や、前年買い求めた木うそを神前に納めて新しい木うそを買う亀戸天神社のうそ替え神事とは異なる。このうそ替え神事にちなみ、本殿の前には一対の石造のうそが置かれているが、これは天満宮の中でも珍しいものである。太宰府天満宮や亀戸天神社にもうその石像はあるが、いずれも単独である。
  • 太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)(太宰府市)
    日本三大天神、日本三躰天神、菅公聖蹟二十五拝のひとつ。道真墓所。太宰府天満宮は、菅原道真公の御墓所上にご社殿を造営し、その御神霊を永久にお祀りしている神社。 「学問・至誠しせい・厄除けの神様」として、日本全国はもとより広く世のご崇敬を集め、年間に約800万人の参拝者が訪れている。
  • 綱敷天満宮(つなしきてんまんぐう)(築上郡築上町)
    綱敷天満宮は菅原道真公ゆかりの天満宮である。「左遷された道真公が大宰府に赴任する途中、嵐に遭遇し、この浜にたどり着いたとされている。 この時、漁船の網の綱を敷いて休んでいただいた。道真公はここでしばらく休養され筑紫に向かわれた。」という故事」により「綱敷天満宮」と称されたとされている。 道真公はここでしばらく休養され筑紫に向かわれた。 後に、豊後国主木下延俊両公によって現在の社殿が造営されたという。
  • 菅原神社(すがわらじんじゃ)(田川郡福智町)

佐賀県

  • 唐津天満宮(からつてんまんぐう)(唐津市)
  • 牛嶋天満宮(うしじまてんまんぐう)(佐賀市)
    牛嶋天満宮は佐賀城下鬼門鎮護の神社で、仁平元年(1151年)に御祭神の菅原道真公から第16代目に当たる牛嶋教正公が創建され、慶長年間、鍋島勝茂公により現在地に祀られた神社。

長崎県

  • 松森天満宮(まつのもりてんまんぐう)(長崎市)
    通称「松森神社」。諏訪神社、伊勢宮とともに長崎三社に数えられている。1625年に今博多町に創建し、1656年に現在の地へ遷宮。江戸時代より学問の神として信仰されている。
  • 國片主神社(くにかたぬしじんじゃ)(壱岐市)
    異称「国分天満宮」。嵯峨天皇弘仁2年(811)10月日輪の神勅を承けて鎮座給う。國片主と名付けられたのは、遠き神代に於いて少彦名命が大國主命と共に国土を二分して経営され給うに依る。又古来國分天満宮、國分天神と称するは学問の神菅原道真公を祀るが故なり。文德天皇仁壽元年(851)正六位上、後九代の各天皇より九回に亘り各一階づつ増し奉る。(壱岐事典より)
  • 天満神社(てんまんじんじゃ)(壱岐市)
    村社 天満(てんまん)神社。学問の神様菅原道真公をお祭りしている。石田天満宮、国分天満宮等とともに壱岐五天神とされている。室町時代に島民の願いで福岡の太宰府天満宮の分社として造られた。鳥居は江戸期石造肥前型鳥居。神社本庁登録壱岐150社の一つ。
  • 千々石天満宮(ちじいわてんまんぐう)(雲仙市)
    1577年(天正五年)、佐賀の龍造寺氏が島原半島攻略に乗り出した際、千々石(雲仙市)の釜蓋城にも数万の軍隊が押し寄せました。釜蓋城守の千々石大和守直員(千々石ミゲルの父)は家臣とともに奮戦しましたが、数万の龍造寺軍に押されついに自刃することとなります。その際、千々石大和守が遺言として建立させたのがこの天満宮であったといわれています。菅原道真を主祭神とし、千々石大和守・木戸万九郎・町田兵七郎ら千々石合戦で戦死した人々が合祀されています。

熊本県

  • 梅林天満宮(ばいりんてんまんぐう)(玉名市)
    承平6年(936年)に太宰府天満宮から勧請されたと伝えらる。戦国時代頃焼失したらしく、現在の社殿等は江戸時代以降の建築と考えられる。平成15年には本殿・拝殿・楼門・鳥居が国の登録文化財となる。
  • 天満町天神(てんまちょうてんじん)(玉名市)
    通称「高瀬七天神」のひとつ。
  • 手取天満宮(てとりてんまんぐう)(熊本市)
    後光明天皇の御代 承応年間(西暦1650年頃)手取被分町の住人肥後藩士 平井勘右衛門正恒はかねてより天満宮を崇敬し、或る夜菅公が枕に立たれこの家の井戸にきていることを告げられ、翌朝邸内の井底より尺余の天神尊像を得て、一宇を創祀し鎮祭。宝永五年三月平井家大火に罹り焼亡の砌、神祠も延焼。近くの鎮護山長安寺境内の梅の樹より夜々光明を放つ徴があった。寺僧之を怪しみ梅の樹の下に至れば天神様の尊像厳然として出現された。僧かしこみて使いを出し、平井氏は年来の信徒等を率いて来たがその奇瑞を感じ、元の如く邸内に復祭を議れしが火災を遁れてこの地に来られし故に、この長安寺境内に鎮祭されることとなった。
  • 山崎菅原神社(やまさきすがわらじんじゃ)(熊本市)
    創建された年については諸説あるが、一説には延久2年(1070)3月のある夜、菊池肥後守則隆公(菊池氏の初代)の霊夢に菅原道眞公が現れ、託宣によって筑前國太宰府安楽寺天満宮(現在の太宰府天満宮)より肥後國詫磨郡白川のほとり南領森本(もりのもと)に勧請されたとされている。
  • 萩原菅原神社(はぎわらすがわらじんじゃ)(八代市)
    熊本県八代市萩原町にある神社。近代社格では村社。萩原天満宮(はぎわらてんまんぐう)とも。御朱印の有無は不明。征西将軍の勧請により、萩原祈祷の森に創祀されたとされている。
  • 内牧菅原神社(うちのまきすがわらじんじゃ)(阿蘇市)
    本社は永禄年間邊春丹波守盛道内牧在城の折、内牧城内に勧清盛道奉幣祈願の社なり。天正の初め薩州島津義久氏当地攻略の時落城と共に自刃す。天正十六年加藤清正肥後を領せらるに当たり家臣加藤馬之允可重を城代たらしめ天神社を蛭池に遷し奉り慶長元年下屋敷に遷座す。同年社内に一寺を建立し天満の二字を採り天松山満念寺と号す。以来明治初年まで満念寺の社僧が祭祀を司る。
  • 十島菅原神社(とおしますがわらじんじゃ)(球磨郡)
    学問の神様として知られる菅原道真(すがわらみちざね)を祭神とした神社。この地域で最大の天神様として、領主である相良氏をはじめ、民衆まで、幅広く信仰を集めていた。境内の池に十の島があることが名前の由来。

大分県

  • 福良天満宮(ふくらてんまんぐう)(臼杵市)
    慶長初期(1600年頃)、高僧円誉上人が平清水に龍原寺(三重塔のある寺)・福良村小野路に称名寺(現:福良天満宮)を開山する。慶長十三年(1608)、臼杵稲葉藩主二代目典通公が鷹狩に出かけた際、愛鷹の行方が不明となり、鎮南山の麓におまつりされていた菅原神に願を掛ける。忽ち少し離れた福良丘の松に飛び帰り典通公は宮地をまず宮畠に移し、「呼鷹殿」と称す神殿を称名寺(現:福良天満宮)内に建て、竣功後今の宮地に移し菅原姓大畠氏善知が住職として天神に仕えた。つまり善知は天満寺の開基とされている。
  • 杵築天満社(きつきてんまんしゃ)(杵築市)
    元和年中(1615-24)、地元の諸富氏が海難にあい、伊予の天満社に祈ったところ無事に帰還できたので、据場に社を建て分霊を勧請したが、手狭なため、延宝8年(1680)現在地に遷座された。
  • 犬丸天満宮(いぬまるてんまんぐう)(中津市)
    菅原道真は左遷されて太宰府に向かう途中で暴風雨に遭い、難を避けるために、延喜元年(901年)2月に当神社近くの海岸で九州に上陸し、当地に3・7日間(21日間)滞在したとされる。中津藩の歴代藩主も代々参拝し、現在でも大名行列が行われている。
  • 萩原天神社(はぎわらてんじんしゃ)(大分市)
    河内国から康安元年(1361年、南北朝時代、康安は北朝方の元号)にこの地に移った堤氏が文亀三年(1503年)に菅原道真公の木像を供奉し祀ったもの。

宮崎県

  • 宮崎天満宮(みやざきてんまんぐう)(宮崎市)
    北野聖廟より村内字宮園というところに勧請したもので、建久年間、伊東大房丸が日向一国を領地のとき、神領五町歩を寄付し、殊に崇敬した神社である。

鹿児島県

  • 菅原神社(藤川天神・すがわらじんじゃ)(薩摩川内市)
    異称「藤川天神」、道真の墓所とされる伝承がある。なお、近隣には同名の神社が多い。村上天皇の応和三年癸亥の年勅願所として創建され、筑前太宰府の別宮であったが、天正十五年の太閤入薩に際し兵火に罹り、文書什器悉く焼亡した。寛文九年六月二十三日島津光久公(寛陽公)が、泰平寺住持實秀法印に命じて再建された。京都北野天満宮、筑前大宰府天満宮とともに、日本三大天神と称された。境内に薩州巡行時の管公腰掛石がある。
  • 菅原神社(荒平天神・すがわらじんじゃ)(鹿屋市)
    創建年代不詳。荒平天神と称され、住昔より近郷の崇敬が篤く、毎月二十五日は縁日として参拝者が多い。海浜より約一町の海中の島にあり、鳥居は満潮時海中に立ち歩渉できない。境内即ち島内は処々奇岩のある風光明媚の地であり、夏は海水浴場となり人出が多い。

 

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