サッカー日本代表マーク「やたがらす」って何?

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その質問は いきなり

小学校2年の悠斗(はると)君。今年から学校のサッカーチームに入りました。パパ・ママからのお誕生プレゼントにもらった、日本代表サムライブルーのユニフォームを着て大喜びです。

鏡に映った自分の姿を見た悠斗君、「ねぇママ。この胸のところにある鳥のマークは何?」。

ママ「えっ、鳥のマーク?何だっけ、パパ?」
パパ「そういえば、鳥が描かれているね。黒いからカラスだろうけと…」

その鳥の名前は「ヤタガラス(八咫烏)」

調べて分かったのは、公益財団法人 日本サッカー協会(JFA)の日本代表ユニフォームの胸に描かれたのは、「ヤタガラス」(八咫烏)ということでした。同協会のホームページには、

JFAのマークの意味は?
JFA旗に描かれた三本足の烏は、日の神=太陽を表しています。光が輝いて四方八方を照らし、球を押さえているのは私たち日本のサッカー界を統制・指導することを意味しています。准南子(えなんじ)という中国の古典や芸文類聚五経正義という本に、太陽の中に三本足の烏がいると書かれています。また、日本神話にも、神武天皇御東征の際に、タカミムスビ(日本神話の神)によって三足烏が神武天皇の元に遣わされ、熊野から大和への道案内をしたと言われています。

JFA旗の黄色は公正を、青は青春を表し、はつらつとした青春の意気に包まれた日本サッカー協会の公正の気宇を表現しています。このシンボルマークは、東京高等師範学校の内野台嶺(JFA理事)ら当時の協会役員らが発案し、彫刻家の日名子実三氏がデザイン化。1931(昭和6)年6月3日に理事会で正式に採用することが決まりました。(JFA HPより抜粋)

との説明があります。

JFAの歴代ジャージのページでは、過去の日本代表のユニフォームがズラッと紹介されていますが、1989年のころから登場しているみたいですね。


その伝説のこと もう少し教えて

古事記に書かれた、初代天皇の神武天皇達を導いた神々の使いということになります。

神武天皇(じんむてんのう)とは

神武天皇は、最初の天皇であり、天照大神(あまてらすおおみかみ)の子孫であり、日本を平定した人として、「古事記」「日本書紀」に書かれています。伝説の人であり、事実の裏付けはありませんが、奈良県橿原市の畝傍山東北陵にお墓もあります。(江戸時代末期に神武天皇の墓と定められる)

生前の名前は「カムヤマトイワレビコノミコト(イワレビコ)」。「神武天皇」とは、死後につけられた送り名です。

  • 生年月日:紀元前711年2月13日
  • 崩御:紀元前585年。127歳で没。
  • 出生地:日向(ひゅうが)(現在の宮崎県)
  • 先祖:天照大神(あまてらすおおみかみ)の5代後。ひ孫の孫。天照大神といえば伊勢神宮の神さまです。
  • 家族:4人兄弟の末っ子

神武東征(じんむとうせい)とは

初代天皇のカムヤマトイワレビコノミコト(神武天皇)が、宮崎県高千穂の里を出発し、大和を制圧して即位するまでの話です。

45歳の神武天皇は「天照大神の子が高千穂に降り立って179万2千470年余りたったのに、まだ自分たちは西のはずれにいる。全土を制覇して大和を都にしよう」を決意し、日向高千穂(宮崎県)を後にし、大分(宇佐)、福岡(筑紫)、広島(安芸)、岡山(吉備)を経由して、大阪方面へ向かいます。一気に東進したのではなく、福岡まで1年、岡山まで8年もかけた旅だったそうです。

大和(奈良)の豪族 強敵 長髄彦(ナガスネヒコ)の登場

大阪(浪速、白肩津)から 和歌山(紀国、男之水門)に向かう神武天皇に、強敵が現れます。自らも神々を祖先にもち、当時、大和を治めていた豪族の長髄彦(ナガスネヒコ)です。

ナガスネヒコの軍勢は強く、神武天皇軍はとても歯が立ちませんでした。神武天皇は「太陽の神の子孫である自分たちが太陽(東)に向かって戦うのは良くない」と考え、方向を変え、紀伊半島の東へ回り込むことにしたのです。

熊野から奈良は苦難続き

熊野では大熊が現れ、軍勢は気を失います。この大熊は、熊野の荒ぶる神の化身とされています。

そこへ熊野のタカクラジという人が、天照大神(アマテラスオオミカミ)と高木神(タカミムスビ)から届けられた太刀を持って来ました。

意識を取り戻した神武天皇が太刀を握ると、荒ぶる神の大熊は自然に切り倒されしまい、軍勢も目覚めました。

ついに登場!八咫烏(やたがらす)の案内で宇陀(うだ)へ

その後、高木神(タカミムスビ・高い木の神さま)が送った八咫烏(やたがらす)が、神武天皇勢を大和の宇陀へと道案内しました。

八咫烏(やたがらす)について、熊野本宮大社のHPには、

『八咫烏とは、当社の主祭神である家津美御子大神(素盞鳴尊)のお仕えです。日本を統一した神武天皇を、大和の橿原まで先導したという神武東征の故事に習い、導きの神として篤い信仰があります。

八咫烏の「八咫」とは大きく広いという意味です。八咫烏は太陽の化身で三本の足があります。
この三本の足はそれぞれ天・地・人をあらわす、といわれています。

天とは天神地祇、すなわち神様のことです。地とは大地のことで我々の住む自然環境を指します。
つまり太陽の下に神様と自然と人が血を分けた兄弟であるということを、二千年前に示されていたのです。』

と記されています。

宇陀の兄宇迦斯(エウカシ)のわな

宇陀(奈良県)の豪族エウカシは、足を踏み入れると挟まれて圧死する罠を仕掛けます。しかし弟が神武天皇に密告しました。弟に裏切られたエウカシは、神武天皇に「お前が先に入れ」と迫られ、自らその罠にかかって死んでしまいました。

忍坂(おさか)の土雲(つちぐも)、八十建(やそたける)

忍坂(おさか)では、土雲(つちぐも)という八十建(やそたける)が待ち構えていました。土雲とは、天皇に従わなかった土地の小豪族たちのことです。八十建は、たくさんの勇士の意味があります。

神武天皇は、土雲の勇士たちにごちそうを食べさせます。勇士たちが飲み食いしているとき、刀を隠し持った料理人たちが、勇士たちを殺してしまいました。

大和へ 宿敵ナガスネヒコを下す

ウィキペディアコモンズより

いよいよ大和を治める豪族、長髄彦(ナガスネヒコ)との対決です。強敵のナガスネヒコには、ここでも再び苦戦します。

そのとき神武天皇の弓の先に、金色のトビ(鳥のトンビ)が止まりました。このトビの不思議な輝きに、ナガスネヒコの軍は幻惑され、戦闘不能になりました。

ナガスネヒコが神と祭る饒速日命(ニギハヤヒノミコト)は、ナガスネヒコに戦いをやめるように言いますが、ナガスネヒコは言うことを聞きません。

そこで、ニギハヤヒノミコトは、ナガスネヒコを殺し神武天皇に従うことにしました。

大和を制覇、天皇として即位

神武天皇は橿原宮で即位しました。日本書紀では、このとき52歳とされています。

その後、、紀元前660年から紀元前585年の75年間、天皇としての在位。127歳で死去。


ところで「八咫烏」が日本サッカーのシンボルになった理由は?

和歌山出身の高等師範学生が普及に注いだ情熱

なぜ、日本の神話に登場し、和歌山の熊野地方で信仰される八咫烏が、日本サッカーの象徴となったのでしょうか。そこには、和歌山出身で日本にサッカーを本格的に紹介した明治の指導者、中村覚之助氏(1878~1906年)に由来すると考えられています。

戦前からシンボルだった八咫烏

八咫烏は、熊野那智大社(和歌山県那智勝浦町)と熊野本宮大社(同県田辺市)、熊野速玉大社(同県新宮市)の熊野三山に祭られており、今では日本サッカー協会の関係者がW杯の前などに参拝し日本代表の必勝を祈願するなどの、深い交流が続いています。

大正10(1921)年に、大日本蹴球(しゅうきゅう)協会として設立された日本サッカー協会は、昭和6年から、八咫烏をシンボルマークとして使用しています。これは協会創設などに尽力した漢学者、内野台嶺(たいれい)(1884~1953年)の発案だったといわれています。

その理由は、日本サッカーの生みの親といわれる覚之助が、内野の東京高等師範学校(現筑波大学)の先輩で、那智勝浦町(当時の那智町)の出身だったことから、覚之助の功績をたたえる意味でゆかりの地のものを採用したのではないか、というのです。

日本サッカーの始まり

日本でサッカーを競技として初めて紹介したのは、覚之助の師にあたる東京高師教授の坪井玄道(1852~1922)でした。

坪井は、高師の校長で、柔道の講道館を創設した嘉納治五郎の命で外国に視察に行き、明治35年にスポーツに関する幾つかの書物を持ち帰っています。このうちサッカーに関する書物を翻訳したのが在学中の覚之助で、明治36年に「アッソシエーションフットボール」という名で出版されました。

当時の日本は日露戦争前夜。「富国強兵」を進める中で、教育としても西洋のスポーツを採り入れようとしていました。中でもサッカーは体の鍛錬やチームスポーツの一体性といった面で注目され、他校から問い合わせも多かったため、翻訳本の出版が決まったとされています。

サッカー熱

同書では、イギリスのフットボール協会が定めた統一ルールを詳しく紹介。ボールの大きさやフィールドの広さなど基本的なことはもちろん、「オフサイド」などさまざまなルールが説明されていました。一方で、覚之助のサッカーにかける思いもつづられています。

日本には個人競技が多いが、団体競技には社会が一体となって近代化に進む効果が期待できること、サッカーは心身の鍛錬に優れていることなどを挙げ、「我国に於ける最も盛んなる遊戯となさんと欲す」と記述。さらに、「若(も)し、それ、遂に我が国中苟(いやしく)も都会を以て称せらる市に必ず此の『フットボールクラブ』の成立するを見るに至らば実に愉快なる現象と云ふ可し」(国内の各都市にフットボールクラブができれば、このうえないことだ)と結んでいます。

日本サッカー初の対外試合

また覚之助は同書の出版前年の明治35年には、高師で蹴球部を創部しました。覚之助は学生でしたが、選手としては加わらず、部の運営やルールの指導などにあたったといわれています。

蹴球部は37年2月6日に横浜公園で、横浜の外国人のクラブと初めて対外試合を行いました。実施に向けての交渉は覚之助が行い、同クラブに「挑戦状」まで送ったといわれます。結果は0-9と大敗でしたが、統一ルールのもとで初めて行った日本サッカー史上の記念すべき試合です。

その翌日には、覚之助と蹴球部の選手ら14人で記念撮影をしていますが、その写真の裏に覚之助は「不幸連戦連敗空シク恨ヲ懐イテ帰リシ」と負けた悔しさを表現。「今日以後吾人ノ期スル所ノモノ只遠カラズ」と今後のチーム強化への意欲も記しています。

その初の対外試合から100年余り。覚之助は28歳の若さで病死しましたが、八咫烏をシンボルに抱く日本サッカーは、世界に向けて普及・発展を続けています。


 

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