忍者(ニンジャ・Ninjya)風魔小太郎【日本の侍(サムライ・Samurai)】

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戦国時代に実在した忍者 風魔小太郎 ふうまこたろう

  • 氏名 風魔小太郎 ふうまこたろう Fuuma Kotarou
  • 生没年 不詳
  • 小田原北条氏「乱波」の頭領

風魔小太郎は、怪獣のごとき風貌、体躯をしていたことが伝えられています。

風魔(風摩、風間と記す書もあります)は、小田原北条氏に使嗾(しそう・そそのかすこと。扇動すること)された忍びの者、「乱波(らっぱ)」と称された忍者集団の頭領ですが、その北条氏の戦歴を記した軍記物『北条五代記』によれば、小太郎は身長七尺二寸(約2.2メートル)の大男だったといいます。しかも手足の筋骨がごつごつとしていて、そこかしこが瘤(こぶ)だっており、頭は七福神のひとり、福寿禄(ふくじゅろく)のそれに似た長頭で、鼻高く、髭黒々として、口がぱっくりと両脇に裂けて、牙(と同書では記しています)が4本出っ張っていました。その口で大音一声発するや、その声はなんと50町(約5.5キロメートル)先まで達したというのです。

どうも魔界から転生してきたかのような怪物男として伝承されている風魔小太郎ですが、これは小太郎率いる乱波の本領がゲリラ戦にあったことを思えば、その親玉としてふさわしい面相、様相であったろうと納得いく話です。

乱波は元来、野武士、野盗といった不逞の輩召し出された者どもでした。「甲斐より以西の国々は透波(すっぱ)とよびしと見えたり」(『武家名目抄』)とあり、その語源は一説に中国語の「白波」(盗賊の異称)ともいわれています。
その透波、乱波は、むろん くさ(間謀)、かまり(斥候)も務めたが、敵陣の攪乱にも使われました。
ことに北条氏の乱波は夜討ちの先導、夜襲における攪乱を得意とし、そのために梟(ふくろう)のように夜目の利く特殊な訓練を積んでいたと思われます。

北条氏がことのほか夜討ちに重宝した乱波の等、風魔党の首領小太郎は、同名数代(一説によると五代)を数えるといいます。『北条五代記』に書かれた冒頭の小太郎は、年代からみてその最後の風魔小太郎と思われます。

さて、甲斐(かい)の武田勝頼(たけだかつより)1)武田勝頼(1546~1582)武田信玄の四男で、はじめ母方の姓である諏訪(すわ)氏を称した。天正元(1573)年に信玄が病没すると家督を継ぎ、領国経営に努めるが、天正3年に織田信長・徳川家康の連合軍に三河長篠(ながしの)で大敗し、領国維持が困難になる。また天正6年、謙信没後の越後上杉氏の家督争いで景虎(かげとら・北条氏康七男)ではなく景勝(かげかつ)を支持したため北条氏政とも対立。東西を強敵に囲まれる。天正10(1582)年、親族の穴山信君(あなやまのぶきみ・梅雪⦅ばいせつ⦆)らに裏切られ、彼らの手引きで織田・徳川連合軍が甲斐に攻め込み、天目山(てんもくざん)で一族と共に自害して果てた。が、駿河(するが)に出陣を開始したのは、天正7(1579)年9月でした。武田軍は狩野川(かのがわ)の支流、黄瀬川(きせがわ)の岸に陣を敷き、北条軍と度々対陣することとなりました。翌年の8月には戸倉城(静岡県清水市)の戦いがあり、天正9(1581)年の秋まで、駿河・伊豆の国境で対戦が続けられました。『北条五代記』には、その天正9年のことと記されていますが、前年に父北条氏政(ほうじょううじまさ)2)北条氏政(1538~1590)小田原北条氏四代目の当主。氏康の長男。永禄2(1559)年ごろに家督を継ぎ、上杉氏の関東出兵を退け、上野(こうずけ)南部に勢力を拡大。その後も北関東や下野(しもつけ)などに領国を拡げたが、天正18年に豊臣秀吉の上洛命令に背いたため包囲されて降伏、弟北条氏照(ほうじょううじてる)とともに秀吉から切腹を命じられて果てた。より家督を継いだ弱冠19歳の北条氏直(ほうじょううじなお・実権はまだ氏政が握っていたと考えられます)3)北条氏直(1562~1591)小田原北条氏五代目の当主。氏政の子。天正10(1590)年、豊臣秀吉の上洛命令に応じず、25万余の大軍でもって囲まれ、籠城3カ月余りの後に降伏、高野山(こうやさん)に追放される。翌19年、秀吉から一万石を与えられたが、病死した。のもとで、武田軍を大いに苦しめたのが、異形の相貌(そうぼう)が伝えられる風魔小太郎とその一党でした。
このとき小太郎は、200人の手下を四手に分けて、夜間、黄瀬川を渡らせ、武田軍の陣営に忍び入らせました。「雨の降る夜も降らぬ夜も、風の吹く夜も吹かぬ夜も」(『北条五代記』)とあるのは、この潜入が執拗に行われていたことを誇張して伝えられたものでしょう。
かれら風魔の党は、敵兵を生け捕りにする、あるいは、つないで馬の綱を切って放つ、さらには、そこかしこに火を放つ、また紛れ入って、嵐のごとく鬨(とき)をあげるなど、縦横無尽に攪乱してのけました。
このために武田軍では同士討ちが絶えず、一夜明けてみれば味方同士が斬り合った果ての屍(しかばね)が多くさらされたといいます。このうえは、風魔小太郎を討たんとする武田の10人ほどの敗残兵たちがいました。かれらは首尾よく風魔の党200人のなかに紛れ込むことができましたが、すぐに敵兵であることを暴かれ、ひとり残らず打ち取られています。
風魔党では、しごとを終えた後で総勢が集合したとき、合言葉と同時に一斉に立ち、また座る、「立ちすぐり、居すぐり」(「すぐり」とは「選り(すぐり)」のことでしょうか)という味方確認のしきたりがありました。武田軍の一行はこれを知らなかったのです。

風魔の党は北条氏康(ほうじょううじやす・氏政の父)4)北条氏康(1515~1571)小田原北条氏第3代当主。北条氏綱(ほうじょううじつな)の子で、天文10(1541)年に家督を相続。扇谷(おうぎだに)上杉氏を滅ぼし、山内(やまのうち)上杉氏を越後に追うなど関東の旧勢力を駆逐あるいは掌握して、着々と版図を拡げ、関東八州をほぼ掌中に収めて北条氏の黄金時代を築く。文武両道に優れた名将と謳われ、卓抜なる政治手腕も兼ね備えていたといわれる。の有名な「川越夜戦(かわごえやせん)」5)川越夜戦 天文14(1545)年、山内上杉憲政(うえすぎのりまさ)、扇谷上杉朝定(うえすぎともさだ)、古河公方(こがくぼう)、足利晴氏(あしかがはるうじ)らが連合して北条綱成(ほうじょうつなしげ)の河越城(かわごえじょう)を囲んだ。籠城6カ月、翌年4月1日に北条氏綱は約8,000の兵を率いて河越に出向き、上杉方と交戦、奇襲攻撃によって上杉方を一掃し、北武蔵における北条氏の覇権を不動のものにした。ただし、戦いは夜に行われたわけではないらしい。において、敵上杉への斥候に功あったといいますが、詳細は分かっておりません。
ことに功績のあった二曲輪猪助(にくるわのいのすけ)という者は、小太郎の忍術の弟子だったことが『関八州古戦録』に書かれていますが、小太郎の出自そのほか正確なことは、一切分かっておりません。


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1. 武田勝頼(1546~1582)武田信玄の四男で、はじめ母方の姓である諏訪(すわ)氏を称した。天正元(1573)年に信玄が病没すると家督を継ぎ、領国経営に努めるが、天正3年に織田信長・徳川家康の連合軍に三河長篠(ながしの)で大敗し、領国維持が困難になる。また天正6年、謙信没後の越後上杉氏の家督争いで景虎(かげとら・北条氏康七男)ではなく景勝(かげかつ)を支持したため北条氏政とも対立。東西を強敵に囲まれる。天正10(1582)年、親族の穴山信君(あなやまのぶきみ・梅雪⦅ばいせつ⦆)らに裏切られ、彼らの手引きで織田・徳川連合軍が甲斐に攻め込み、天目山(てんもくざん)で一族と共に自害して果てた。
2. 北条氏政(1538~1590)小田原北条氏四代目の当主。氏康の長男。永禄2(1559)年ごろに家督を継ぎ、上杉氏の関東出兵を退け、上野(こうずけ)南部に勢力を拡大。その後も北関東や下野(しもつけ)などに領国を拡げたが、天正18年に豊臣秀吉の上洛命令に背いたため包囲されて降伏、弟北条氏照(ほうじょううじてる)とともに秀吉から切腹を命じられて果てた。
3. 北条氏直(1562~1591)小田原北条氏五代目の当主。氏政の子。天正10(1590)年、豊臣秀吉の上洛命令に応じず、25万余の大軍でもって囲まれ、籠城3カ月余りの後に降伏、高野山(こうやさん)に追放される。翌19年、秀吉から一万石を与えられたが、病死した。
4. 北条氏康(1515~1571)小田原北条氏第3代当主。北条氏綱(ほうじょううじつな)の子で、天文10(1541)年に家督を相続。扇谷(おうぎだに)上杉氏を滅ぼし、山内(やまのうち)上杉氏を越後に追うなど関東の旧勢力を駆逐あるいは掌握して、着々と版図を拡げ、関東八州をほぼ掌中に収めて北条氏の黄金時代を築く。文武両道に優れた名将と謳われ、卓抜なる政治手腕も兼ね備えていたといわれる。
5. 川越夜戦 天文14(1545)年、山内上杉憲政(うえすぎのりまさ)、扇谷上杉朝定(うえすぎともさだ)、古河公方(こがくぼう)、足利晴氏(あしかがはるうじ)らが連合して北条綱成(ほうじょうつなしげ)の河越城(かわごえじょう)を囲んだ。籠城6カ月、翌年4月1日に北条氏綱は約8,000の兵を率いて河越に出向き、上杉方と交戦、奇襲攻撃によって上杉方を一掃し、北武蔵における北条氏の覇権を不動のものにした。ただし、戦いは夜に行われたわけではないらしい。
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