忍者(ニンジャ・Ninjya)楠木正成【日本の侍(サムライ・Samurai)】

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鎌倉時代に実在した忍者 楠木正成 くすのきまさしげ

  • 氏名 楠木正成 くすのきまさしげ Kusunoki Masashige
  • 生没年 永仁2(1294)年?~延元元(1336)年
  • 出身 河内
  • 主 後醍醐天皇

楠木正成

楠木正成は、河内(大阪府東部)出身の南朝(なんちょう)方の忠臣ですが、神出鬼没の活躍を重ねたことで有名です。官命を左衛門尉(さえもんのじょう)、受領名を河内守(かわちのかみ)、摂津守(せっつのかみ)といった正成は、武将としては元弘元(1331)年に後醍醐天皇[1] … Continue readingに応じて河内に挙兵。赤坂城、千早城(どちらも大阪府千早赤坂村)に籠城(ろうじょう)し、攻め寄せる北朝(ほくちょう)方に抗しました。

以後も近畿各地で北朝方と激闘を演じ、後醍醐天皇による建武政権の樹立に貢献します。

建武3(1336)年、離反した足利尊氏(あしかがたかうじ)[2] … Continue readingを摂津湊川(みなとがわ・神戸市)で迎え撃ったが、背後を別動隊に攻められたため、弟の正季(まさすえ)と共に自刃して果てました。この時代を描いた『太平記(たいへいき)』は、正成を南朝屈指の忠臣、稀代の謀将(ぼうしょう)として描いています。

正成は中国の兵法書などにも詳しかったといわれていますが、正成が実は忍者で、楠(くすのき)流忍術を興したとする見方もあります。変装した正成自身が近畿各地を歩きまわり、北朝方の動向を探ったという話も伝えられています。また、『萬川集海』などには、正成が49人の忍者を従えていたこと、極意を一巻にまとめて嫡子・正行(まさつら)に授けたことなどが記されています。

さらに名取流(なとりりゅう・新楠流)、南木流(なんぼくりゅう・楠正辰⦅まさとし⦆伝楠流)、河陽流(がようりゅう・会津藩伝楠流)、河内流、行流(こうりゅう・楠木正成流)、陽翁伝(ようおうでん)楠流など、楠流から分かれたという忍術流派も少なくありません。忍術三大秘伝書のひとつである『正忍記』は、この系統の奥義を記した忍術書です。

楠木正成の出頭

楠木正成は、建武の中興として急出頭しました。正成は、河内国の散所の長、楠木正遠の嫡子でした。散所とは、中世、寺社の荘園で、交通(陸運・海運)の要衝にあたる土地に、交通労働者(駕籠かき・船頭・荷揚げ人足・馬借《馬車ひき・馬夫》日雇い人夫など)が、自然に集合し、これに旅芸人・博徒・香具師(行商・露天)・酒食店・遊女等が加わって形成した集落のことで、その長(保護者)は、悪党と呼ばれる最下級の新興武士でした。正成は、奇襲に忍術戦法で北条の大軍を、千早の小城に長期間釘付けにして、建武中興の契機を作り出した稀代の大忍将でした。彼は伊賀の忍家と特に深い関係を持ち、千賀地宗家から48名の忍者を割愛させ、近畿の要地に配置して、その調・謀の主力としたほか、その甥にあたる伊賀の猿楽師上島清次こと観世、観阿弥、世阿弥親子をその勢力下の大和結崎(大和五座の一つ)に於いて開座させ、その耳目として用いるなど、伊賀流の調・謀組織を自在に受け入れ、自己本来の調・謀源、散所の大衆と共に利用するという、大組織を構成したのです。正成と一体化して協力した伊賀忍家も、同時に散所を新しく調・謀源に組み入れ、実力を伸長させたのです。

正成の没後、その後を継いだ楠木正儀(正成の三男)も忍将として南朝を守りましたが、その時代、伊賀・甲賀の忍家は、輪番制を作って吉野の御所を警護し続けました。観世父子は、足利義満(室町三代の将軍)に仕えて一時、幕府の能楽の首座を占めましたが、四代義持の代、幕府を追われ、五代義教のときには世阿弥の子元雅が興行中、義教の家来に暗殺され、世阿弥も佐渡に配流されました。これは彼等が南朝の謀臣楠木正儀との特別の関係を秘していたことが、原因の一つだったと思われます。なお、初代の観阿弥も義満の治世、駿河国の浅間神社で演能後、急死していますが、これは駿河の守護大名今川範国に暗殺された疑いが濃厚です。観世父子は北朝方の武将達から、将軍義満側近の南朝方のスパイと目され、嫌悪の的であったのです。

不滅の名を残した爽快の忍将

楠木正成は建武中興(天皇親政)の契機を作った大功労者ですが、その出自が当時最低の下級武士(悪党)であったため、左兵衛尉に任じられたにすぎませんでしたが、それでも一般の上流武士の目から見れば、驚くべき大栄達でした。後醍醐天皇は、そのことを知りながら敢えて英断を下して、正成の功に報いたのです。帝は正成を信頼され、実質的には大武門である足利尊氏、新田義貞と同様、側近の智将として正成を用いられましたので、正成は帝の殊遇に感激し、心中堅く天皇の信頼に応えることを決意していたのでしょう。

正成は建武中興(天皇親政)が、新興の実力者である武士階級の支持の上に築かれることを切望しましたが、親政の方向が逆に、宮廷貴族の利権を守ることに傾くのを見て、内心申請の崩壊を予見していたようです。果たして足利尊氏の反乱が起こりましたが、それが実力者の支持するところであり、時流に合うものであることも、明察していたのでしょう。時流に抗する者は必ず敗北すると知りながら、あえて尊氏につかずに帝についたのです。親政が腐敗した貴族階級を温存することに失望しながらも、彼はそれでも後醍醐天皇の信に応える道を選びました。尊氏が大軍を率いて九州から東上してきたとき、彼は一時、叡山に籠もって持久戦に持ち込む計画を立てましたが、京都に執着する天皇側近の公卿たちに反対され、逆に新田義貞とともに、湊川で尊氏を迎撃することを命じられました。この勅命に従うことは、即戦死を意味していましたが、正成は敢えて一族を率いて湊川に赴きました。

明らかに正成は、命よりも、名をとったのです。彼は足利尊氏に討たれることとなりますが、爽快の忍将として不滅の名を残したのです。

城に籠もって糞尿で相手を攻撃

楠木正成は、河内国(大阪府)に生まれたとされていますが、42年という短い生涯の前半生については記録がないためにほとんど分かっていません。しかし、1332年の記録には「悪党楠木兵衛尉(ひょうえのじょう)」と記されており、幕府にたてつく悪党とされたことが確認できます。

忍者のルーツは、このような幕府や荘園領主に抵抗するため、独自の武力をもつようになった勢力、「悪党」とする説があります。楠木正成も、このような悪党であり、また、のちの忍者が得意とした奇襲ををはじめとする敵の意表をつく戦術も多用していたことから、忍者の祖先と言われるようになったのでしょう。

1331年、鎌倉幕府を倒すべく挙兵した後醍醐天皇に呼応した彼は、赤坂城(あかさかじょう)に立て籠もります。しかし、幕府軍の数の多さに劣勢となり、自ら城に火を放ちました。そして城内の焼死体を自分だと幕府軍に勘違いさせ、自らが死んだかのように錯覚させたと言われています。

また1332年、後醍醐天皇は幕府により島流しにされましたが、天皇の味方した者達はその後も幕府に戦いを挑み続けます。軍記『太平記(たいへいき)』などによれば、正成は1,000人の兵士とともに千早城に立て籠もり、100万人とも言われる幕府軍と相対したとされています。

このとき、正成軍は、城に攻めてくる幕府軍に石や丸太などを投げ、それがなくなるとさらには油や火、湯、糞尿などを投げつけて撃退したとされます。この戦法も、当時の武士たちには予想するできなかったようです。

また、のちの伊賀忍者の代表格とされる服部氏は、楠木氏と血縁関係にあるとの説もあります。正成の姉が伊賀の服部元成(はっとりもとなり)に嫁いだとする系図を論拠としたものです。後世の二代目服部半蔵、正成(まさなり)と、同じ漢字が使われているのは、単なる偶然でしょうか。

江戸時代に入り太平記を元とした兵法が立てられ、そこで楠流(くすのきりゅう)忍術とされる流儀が生まれました。言うまでもなく、楠木正成がその開祖とされています。


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脚注

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1 後醍醐天皇(1288~1339)文保2(1318)年、第96代天皇。花園天皇(はなぞのてんのう)の跡を受けて即位し、天皇親政を復活させた。正中の変(せいちゅうのへん)と元弘の変(げんこうのへん)の二度の討幕計画に失敗し、一時隠岐(おき)島に流刑されるが、元弘3(1333)年の討幕運動に成功して復位し、建武の新政と呼ばれる政治改革を推進する。だが、政局を安定させることが出来ず、足利尊氏らの離反を招き、建武3(1336)年、吉野へ逃れて南朝を樹立するが、勢力はふるわなかった。
2 足利尊氏(1305~1358)室町幕府の初代将軍。元弘3年、後醍醐天皇が隠岐を脱出すると、尊氏は幕府軍を率いて上洛したものの、後醍醐天皇の討幕運動に参加、源氏再興の旗を掲げて六波羅探題(ろくはらたんだい・鎌倉幕府が京都六波羅に設置した出先機関)を滅亡させる。建武2年、尊氏は鎌倉で建武政権を離反、翌年には新田義貞(にったよしさだ)を破り、同年11月に建武式目(室町幕府開創の基本方針)を制定して、事実上幕府を開設した。

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