聖徳太子 子や孫に伝えていきたい日本の大偉人

聖徳太子

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日本の大偉人 聖徳太子

聖徳太子(しょうとくたいし)。574-622。用明天皇の皇子。厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみのみこ)、上宮太子(うえのみやのみこ)などとも呼ばれています。推古天皇の甥として摂政をつとめました。
冠位十二階、十七条憲法を制定し、小野妹子を遣隋使として派遣。また、仏教に帰依し、法隆寺、四天王寺など多くの寺院を建立。仏教の注釈書『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』を著した、日本の偉人として教え継がれてきました。

その聖徳太子は、様々な学説により、学校の教科書からその名が消され、「厩戸皇子」(うまやどのみこ・うまやどのおうじ)という表記に変わってきています。かつては日本銀行券の”お札(さつ)”にも用いられ偉人の象徴的存在だった方が、今や”歴史上の一人物”、あるいは”実在したかどうかすら疑わしい人”として、その偉業が歴史から抹殺されつつあるのです。

世界中の神話、伝説、そして歴史は、その国の人の心の拠り所であり、郷土愛や祖国愛の源です。その内容が「現在の価値観」で検証できるかどうかを言い出せば、おそらくその大半が「ウソ」や「脚色」となり、うさんくさい話として扱われることになるでしょう。

自分の国の神話や伝説や受け継がれてきた歴史は、「伝統」という大切な文化です。わが子や孫へ、誇りある日本の神話、伝説、歴史を受け継いでいきたいものです。

聖徳太子はなぜ日本の大偉人なのか

「一度に十人の人の話を聞いてそれぞれに的確に答えることができた」という逸話が残る聖徳太子。非常に聡明で天才的な方だったのでしょう。経典もよく研究していて、太子が注釈をつけたお経が大陸で出版されて評判になり、再販までされたと言われているそうです。まだ日本に仏教が入って間もない頃の話ですから、聖徳太子の天才ぶりがうかがえます。

憲法の礎をさだめたから

日本初の「国体・憲法」を明示する十七条憲法を定めました(推古天皇十二年、西暦604年)。十七条憲法は、実に憲法らしい憲法です。あまり細かなことは書かず、国のあるべき姿を骨太に示しています。
この憲法は日本の歴史の中で長く尊敬されて、鎌倉幕府第二代執権となった北条泰時(ほうじょうやすとき)が武家のあり方を定めた貞永式目(じょうえいしきもく・御成敗式目)にも影響を与えています。貞永式目が五十一か条になっているのも、聖徳太子の十七条憲法を意識して、その三倍の数にしたと言われています。
十七条憲法の第一条は「一曰。以和為貴。無忤為宗。人皆有黨。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成。(和をもって貴しとなせ。いさかいをおこさぬことを根本とせよ。人は徒党を組みたがり、悟った人格者は少ない。君主や父親にしたがわず、近隣とももめる。しかし上の者も下の者も和睦の気持ちをもって議論すれば、自ずから道理にかない、何事も成就する。)」です。
これは、第十二代 崇峻(すしゅん)天皇が蘇我馬子の手にかかって暗殺された後の制定であることを考えると、実に意味深い条文で、和の精神に満ちたものです。崇峻天皇を擁立するために聖徳太子は蘇我馬子と同盟し、自ら戦場に出て物部(もののべ)氏と戦いました。物部氏の軍隊は強くて三回攻めてもうまくいかないので、四回目には木で造った四天王像を祀って「敵に勝たせてくださるならば寺塔を建てましょう」と誓願して戦いに臨みました。それでようやく物部氏に勝利し、誓願のとおり四天王寺を建てるのです。
そこまでして擁立した崇峻天皇が蘇我馬子の手にかかって暗殺されたとき、聖徳太子は非常の後悔されたようです。その悔恨を含めて「和を以て貴しと為す」を第一条においた憲法を作られたのだと思います。
西欧が封建制を経て議会制民主主義に移行したヨーロッパよりもはるかに早く、日本では、古代から合議制が取り入れられたのです。誇らしいことですね。

日本という独立国として外交を行ったから

聖徳太子の頃に、日本は初めて海外との交渉を始めました。シナ大陸に興った大国・隋(ずい)に使節団を送ったのです。遣隋使です。それ以前の古い時代にも九州当たりの豪族が大陸と交渉していたことはありましたが、中央政府が大陸と直接交渉を始めたのは、この聖徳太子のときが初めてです。
遣隋使の使者に選ばれたのは小野妹子(おののいもこ)です。妹子は太子から隋の煬帝(ようだい)に宛てた国書を持っていきました。その国書のなかに「日出処天子至書日没処天子無恙云々(日出処の天子、書を没する処の天子に致す。つつがなきや)」という一文がありました。これは「東の国の天天皇が西の皇帝に書を致す」というような意味です。聖徳太子は最初から日本と隋を対等において交渉を始めたのです。隋の歴史を記した「隋書」には、この国書を読んだ隋の煬帝が「大いに喜ばざる」、つまり憤慨していたと書かれているそうです。
煬帝は、日本なんでたかが東夷=東のほうの異民族の住む小さな島だと思っていたのでしょう。それが大国である隋と同等に交渉しようとするのが気に食わなかったのです。おまけに日本は「日出處」と書いてあるのに対し、隋は「日没處」と書いてあるわけです。
力と武力で皇帝に君臨していた隋の煬帝。周辺の地域からは朝貢されて当然としか思っていたでしょうから、聖徳太子からの申し入れに激怒したのかもしれません。
返書が託されたと思われますが、それが日本には届いた記録はないそうです。あまりにもひどい内容なので、小野妹子が帰途に処分したのかもしれませんね。


皇統という神道の家系にいながら仏教の理解にもつとめたから

十七条憲法第二条では「篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧のことである」とされています。ここでは「仏(ほとけ)、法(のり)、僧(ほうし)を尊べ」といって神道については触れていません。どうして神道を尊べと言っていないのかとしばしば問題にもされてきています。しかしこれは、皇室の人にとって神道を尊ぶとは先祖を尊ぶのと同じことだから、わざわざ憲法に書くまでもないとかんがえられたのではないでしょうか。
実際、聖徳太子は仏教の寺院を参拝すれば、その後には必ず神道の神社にも参拝しておられたとされています。神道への尊崇は皇室の方には当り前のこととはいえ、参拝という形で身をもって示すことで神道を奉ずる人へも配慮をしておられたのでしょう。

奈良の法隆寺は、聖徳太子が建てた世界最古の木造建築物とされています。2001年2月20日、奈良文化財研究所が法隆寺五重塔の檜の心柱を年輪年代法で測定し、伐採年が594年(推古天皇二年)であることを確認しています。
1878年に法隆寺から皇室に献上された「法華経義疏」には、太子直筆の見解が随所に書き込まれており、これは現存しています。

法華経義疏

聖徳太子抹消派の主張もまとめてみました

ネットに展開されている情報をまとめると以下のような内容が多く見られました。

聖徳太子の称号は「憲法十七条」をはじめ、数々の功績によるもの。

ところが、最近の研究から、推古王朝は彼一人でなく天皇、蘇我氏、厩戸王3者の共同体制による運営とされ、
① 冠位十二階などは「多くの人物」の手による合作
② 憲法十七条は彼よりも「後の時代」に完成した
③ 遣隋使は小野妹子より「以前から」派遣されていた
など、彼自身の実績とは直接関係ないとする可能性も指摘され、徐々に疑問が生じている。
少なくともこの時代に、彼が天皇の摂政として存在したのは確かだが、「聖徳太子」の称号に値する“すべてをひとりで成し遂げた”人物ではなかった、つまりは「“聖徳太子”はいなかった」とする見方が現実味を帯びてきている。

そのうえで、「聖徳太子が作り上げられた」背景として天武天皇が皇位継承争いの際に、自らの血筋を優位にするために脚色したのではないか、とする説もありました。

厩戸王が死去して50年後、凄惨な皇位継承権争い(壬申の乱)が起きます。天皇の権威は失墜し、勝者となった天武天皇(631?~686)は「天皇中心の中央集権律令国家づくり」をすすめていきます。
そのとき天武天皇は「厩戸王」というひとりの人物に着目します。彼と同時代に行われた数々の施策を誇大評価し、これらの偉業すべての部分で関与したとする「聖徳太子」をつくり上げたのです。ライバルである有力豪族に対し、神代から続く自らの血筋の優秀性と日本国の統治者であるという正統性を再認識させようとしたのでは、と考えられています。
こうしたことを背景にして戦前につくり上げられた「聖徳太子」像は、いま大きく揺らいでいるのです。

さらに、「科学の発達・発展により、さまざまな歴史的事実が明らかになっており、歴史は絶えず『進化』を続けています。」と結ばれているものもありました。その論旨で行けば、時代が流れれば流れるほど、科学が発達し、より正確な史実が判明するということにもなりますね。将来、今の定説が『完全に間違っていた』と証明される可能性もあるわけです。常に謙虚な態度で歴史と向き合うことこそ、歴史学者としてあるべき姿であると思われます。

 

やはり日本の偉人として歴史に残したい聖徳太子

なぜ、日本の国民が、長い時間をかけて受け継いできた偉人伝承を、平成という今の時代に否定したり抹消しようとするのか、その意図は分かりません。しかし、私たち日本人が尊敬し敬ってきた聖徳太子が「戦前につくり上げられた虚像」だとし、教科書から抹消する動きには、素人ながらも、やはり違和感を感じます。
これを主張する方々も、学者である前に、数千年の歴史の中で生かされている一人の日本人なのです。数百年、数千年後は、ご自身も先祖の一霊となるのです。人として、先人や父祖に対する尊崇の念を持っていただきたいですし、伝統の重さを学んでいただくことを願ってやみません。

世界最長の歴史をもつ日本の皇統

 

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