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忍者(ニンジャ・Ninjya)大伴細人【日本の侍(サムライ・Samurai)】
目次 Contents
飛鳥時代に実在した忍者 大伴細人 おおとものさびと
- 氏名 大伴細人 おおとものさびと Ootomo no Sabito
- 生没年 不詳
- 出身 伊賀?
- 異名 大伴細入(おおとものさいにゅう)
- 甲賀流忍術の祖
- 主 聖徳太子
聖徳太子に仕えた元祖「シノビ」
諸説ある忍者の期限のなかでも、今日に残る文献のなかで初めて「志能備」と呼ばれた人物。聖徳太子のために働き、政治闘争での勝利をもたらしたほか、太子伝説の立役者とも伝えられています。
聖徳太子を陰から支えた忍者
大伴細人(大伴細入/おおとものさいにゅう とも)は、飛鳥時代に活躍し日本で初めての忍者とされることもある人物です。その理由は、甲賀の忍術書『忍術應義傳(にんじゅつおうぎでん)』において、細人を初めて「志能備(しのび・または志能便)」と呼んでいたことに由来します。これがのちの「忍び」、すなわち忍者の原型となったのです。
名前の呼び方は「さびと」「さいにゅう」「ほそり」など確定しておらず、忍術書によっては細人ではなく、細入と記されているものもあります。「さいじん」「ほそびと」とも呼ばれることもあり、どれが正しいのかわかっておりません。また、これは個人名ではなく大伴一族に仕えていた忍者集団の総称を指すとする意見もあるようです。
彼を用いたのは推古天皇の摂政を務めていた聖徳太子であったといいます。『忍術應義傳巻』などによれば、587年、推古天皇から実権を奪おうとした物部守屋(もののべのもりや)の動向を探っていたのが、甲賀の馬杉に住んでいた細人とされています。
伝書によれば、彼は陰謀を用いて物部守屋をおびき出し、討伐に一役買ったとされています。ただし、具体的な陰謀の内容や、彼がどのような活躍をしたかは分かっておりません。
「聖徳太子は一度に複数の人の話を聞き分けることができた」という語り伝えは、もしかすると、細人やその仲間たちの働きであったのかもしれません。
当時は、まだ伊賀流、甲賀流といった忍者の流派、または体系は生まれておりませんでした。しかし、忍術書『忍術應義傳巻』には、大伴細人を『甲賀郡博識廣智之人(こうがぐんはくしきこうちのひと)』としており、甲賀の地にゆかりのある人物だったことが憶測できます。
彼こそが甲賀忍者の祖であるという説もありますが、結局のところはっきりしておりません。ただし、甲賀に残る郷土資料『甲賀郡由緒概史略(こうがぐんゆいしょがいしりゃく)』や『辻氏家伝(つじしかでん)』によれば、忍術の秘伝書『忍術奥義之巻』をまとめたのは大友細人で、本名は杉原斎入(すぎはらさいにゅう)ではないかと想像されます。
細人にはさまざまな憶測や伝説があり、真偽のほどは分かりませんが、少なくとも、細人が日本で初めての「シノビ」であったことは確かなようです。
「忍び(しのび)」の語源にもなっている大伴細人
大伴細人(おおとものさびと)は、聖徳太子の側近として仕え、太子の裁判の下調査を担当したといわれています。太子は彼を志能便(しのび・よき情報の入手に志す者の意)と呼び重用したそうです。
大伴細人の経歴
大伴細人(おおとものさびと)は6世紀末頃に活躍したといわれるわが国最初の忍者で、物部守屋(もののべのもりや)[1] … Continue readingの討伐の際に活躍したと伝えられています。
細人は「さいじん」とも読みますが、下の名前を細入(さいにゅう)ととらえ、「さいり」「さいにゅう」と読ませる研究者もいるようです。
伊賀流忍者博物館に所蔵されている『忍者應義傳巻(にんじゃおうぎでんのまき)』には、細人のことが、「甲賀(こうか)群博識廣智之人(はくしきこうちのひと)」と記されています。
西暦587年、朝廷の大連(おおむらじ)・物部守屋(もののべのもりや)が穴穂部皇子(あなほべのみこ)と組んで実験を奪おうとしました。しかし、守屋は推古天皇(すいこてんのう)[2] … Continue readingや蘇我馬子(そがのうまこ)[3] … Continue readingの命で討伐されます。通説では守屋が討たれた場所は河内渋川(大阪府東大阪市)とされていますが、『忍者應義傳巻』には異なる説が記されています。このとき、陰謀を用いて守屋を甲賀馬杉(滋賀県甲賀市)へおびき出したのが細人で、のちに聖徳太子によって志能便(しのび)という名がつけられた、とも記されています。
甲賀流忍術の祖なのに伊賀出身?
一方、細人を伊賀(三重県西部)出身とする説もあり(奥瀬平七郎『忍術』)、また大伴氏配下の忍者集団の総称とみなす意見もあります。
聖徳太子は一度に多数の者の訴えを聞き分けたといわれますが、この超人的な能力を陰で支えたのが細人の地道な諜報活動であったのかもしれません。
内政・外交ともに時代が忍者の誕生を求めていた
なお、『日本書紀』推古天皇9年(601)年9月の条には、新羅(しらぎ)の忍者・迦摩多(かまた)を対馬(つしま・長崎県対馬市)で捕えたという記述があります。内政、外交の両面での軍事的緊張は、朝廷が大陸系の忍術を導入するきっかけとなったのでしょう。
推古天皇10(602)年10月の条によると、百済(くだら)の僧侶・観勒(かんろく)が遁甲(とんこう)や方術(ほうじゅつ)の書物を献上しています。なかには忍術に関わる記述もあったことから、朝廷は大友村主高聡(おおとものむらすぐりたかさと・甲賀伴氏の遠祖)を観勒に師事させて忍術を学ばせたそうです。
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Follow @gabaihayabusa脚注
↑1 | 物部守屋(?~587)6世紀の豪族で、敏達(びたつ)・用明(ようめい)朝の大連(おおむらじ)。仏教の受容に反対して蘇我馬子(そがのうまこ)と対立。用明天皇没後、穴穂部皇子(あなほべのみこ)を擁立しようとして失敗し、馬子らに討伐される |
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↑2 | 推古天皇(554~628)第33代の天皇で、名は額田部(ぬかたべ)。592年に異母弟の崇峻天皇(すしゅんてんのう)が蘇我馬子(そがのうまこ)によって暗殺された後、推されて即位した最初の女帝。甥(おい)の厩戸皇子(うまやどのおうじ・聖徳太子)と馬子を政治の中心に据え、中国の隋(ずい)との国交を開くとともに、冠位十二階や憲法十七条の制定など、飛鳥時代の最盛期を現出させた |
↑3 | 蘇我馬子(?~626)飛鳥時代の豪族で、父は稲目(いなめ)、子は蝦夷(えみし)。敏達・用明・崇峻・推古朝の大臣(おおおみ・天皇号成立以前の倭国王の称号)家とは深い姻戚関係で結ばれ、推古朝では厩戸皇子とともに政治を担った。 |
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