忍者(ニンジャ・Ninjya)秦河勝【日本の侍(サムライ・Samurai)】

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飛鳥時代に実在した忍者 秦河勝 はたのかわかつ

  • 出生 不明
  • 古墳時代から飛鳥時代にかけての人物
  • 姓は造

秦(はた)氏は6世紀頃に朝鮮半島を経由して日本列島の倭国へ渡来した渡来人集団で、そのルーツは秦の始皇帝という説もあります。秦河勝は秦氏の族長的人物であったと思われます。

山城国葛野(京都府)の出身。聖徳太子の側近として活躍しました。各種の芸能人と香具師(やし/旅商人・露天商)の群を率いて、芸能の公開と露天の出店により、祭典を賑わせることを職としていました。

聖徳太子の忍びでもあった河勝

河勝の子孫は、日本の各種芸能の祖となり、香具師の祖となりました。聖徳太子は、河勝とその一族を京都太秦(きょうとうずまさ)に集住させ、広隆寺を建立させたほか、各地の民情を報告させたとされています。

秦河勝の経歴

用明天皇2年(587年)に発生した丁未の乱(ていびのらん)では、地方豪族であった物部守屋(もののべのもりや)の追討戦に従軍し、厩戸皇子(うまやどのみこ)を守護しつつ守屋の首を斬ったといわれます。

推古天皇11年(603年)聖徳太子より弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしゆいぞう)を賜り、広隆寺(こうりゅうじ・別名蜂岡寺/はちおかでら)を建て、それを安置しました。

推古天皇18年(610年)、朝鮮半島の南東部にあった新羅(しらぎ)の使節を迎える導者の任にもあたりました。

皇極天皇3年(644年)駿河国富士川周辺で、大生部多(おおうべのおお・シャーマン)を中心とした常世神を崇める集団(宗教)を追討しています

亡くなったのは赤穂(あこう・兵庫県赤穂市)の坂越(さこし)とされ、神域の生島(いきしま)には秦河勝の墓があります。この坂越湾に面して秦河勝を祭神とする大避神社が鎮座しています。

秦河勝に関する逸話

  • 奈良県を流れる大和川の上流部(初瀬川・はつせがわ/はせがわ)の氾濫により、三輪大神の社前に流れ着いた童子を見た欽明天皇は、以前の夢で「吾は秦(しん)の始皇帝の再誕なり、縁有りてこの国に生まれたり」と神童が現れていたことから、「夢にみた童子は此の子ならん」として殿上に召しました。。後に帝は、始皇帝の夢に因んで童子に「秦」の姓(かばね)を下し、また初瀬川氾濫より助かったことから「河勝」と称したとする逸話が残っています。
  • 皇極天皇3年(644年)7月に富士川のあたりで、大生部多(おおうべのおお)は長さ4寸ほどの虫を指して、「これは常世の神である。この神を祭る人は、富と長寿が得られる」といい、虫祭りをすることを勧めました。巫女たちも神のお告げといつわり、「常世の神を祭ると、貧しい人は富を得、老人は若返る」と触れ回りました。このために信仰は広まり、都でも田舎でも常世の虫をとって安置し、財宝を差し出したが、何の利益もなく、損失ばかり。秦河勝は民衆が騙されるのに腹を立て、大生部多を捕え打ち懲らしめたところ、巫女も恐れて祭りを勧めることをやめたとのことです。時の人は以下のような歌を詠んでいます。
    ウヅマサハ、カミトモカミト、キコエクル、トコヨノカミヲ、ウチキタマスモ。〈太秦(うづまさ)は神の中の神という評判が聞こえてくる。常世の神を、打ちこらしたのだから。〉

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