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忍者(ニンジャ・Ninjya)【日本の侍(サムライ・Samurai)】

忍者 ニンジャ Ninjya

目次 Contents

忍者(にんじゃ・Ninjya)とは

忍者(ニンジャ・Ninjya)は、主君のための情報収集を行うのが主な目的。戦うよりも、逃げて生き延び、情報を主君に届けることが重要でした。サバイバル術にたけた特殊な侍・士(サムライ・Samurai)といっていいでしょう。

忍者の源流

忍者の源泉は、6世紀(538年)仏教とともに中国から伝来した「孫子(そんし)」にあるとするのが有力説です。

「孫子」は、中国の春秋戦国時代(紀元前400年ごろ)斉の人、孫武(兵学者)が著わした「戦争(競争)に必勝する法」を研究した兵法の書で、世界最古・最高の兵学の聖典とされています。

その必勝法とは、敵と自分の総合戦力を常時調査比較し、戦う以前に、その勝敗を予見することにあります。つまり、敵の戦力が自分より勝っているときに戦えば敗北するわけですから、その間は戦いを避け、外交(知略)によって平和を保ち、その間に敵の戦力の破壊工作を続け、同時に自分の戦力を向上させ、戦力の優劣を逆転させた後に戦うというものです。

簡単なようですが、そのためには敵と自分の戦力を比較するデータ(情報)を集めるための諜報機関(秘密調査を担当する間組織)と謀略機関(敵の戦力を破壊する間組織)の常置が必要となります。加えて、それらの機関は、敵の保有する同機関より、質量ともに絶対優れたものでなければなりません。ここに、その後の忍者が存在した価値と、ありようが窺えるというのです。

日本で最初に忍者(間者)を使ったのは

蘇我馬子(そがのうまこ)と聖徳太子(しょうとくたいし)であろうといわれています。蘇我氏は仏教伝来当時、大和朝廷の豪族として、外来の文化や渡来人の受け入れ役を担当していました。仏教と同時に伝来した「孫子」に最初に触れた氏族ということになります。その族長の馬子と聖徳太子は、共に「孫子」の間(忍者)を用いています。

蘇我の馬子は、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま・漢系の渡来人)を謀略の忍者として使い、崇峻天皇(すしゅんてんのう)のほか、蘇我氏に反対する政敵(豪族の長)をつぎつぎに暗殺し、蘇我氏全盛時代を築きました。

聖徳太子は、謀略間は用いず諜報間(忍者)を使って広く天下の情報を集め、政治や裁判の判断の根拠としました。太子が使った間者は次の三者です。

時代別忍将(各級)忍者一覧

日本書記時代

古代①(蘇我氏勃興~全盛期)

古代②(大化改新~壬申の乱)

③(飛鳥~奈良時代)

④奈良時代

⑤平安時代(前期~中期)

⑥源平争覇期

⑦鎌倉期

⑧建武中興期

⑨戦国時代

⑩織田信長制覇期

⑪豊臣秀吉制覇期

⑫徳川幕府創建期

⑬徳川初期

⑭徳川中期

実在した忍者たち

[あ]

[か]

[さ]

[た]

[は]

[ま]

[や]

[や]

[わ]

架空の忍者たち

[あ]

[か]

[さ]

[な]

[は]

[ま]

[や]

[ら]

[わ]


出典


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