結婚っていいな!奥田瑛二・安藤和津 ご夫妻

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『パートナー・オブ・ザーイヤー2003』を受賞のお二人

奥田暎二安藤和津夫妻

出典:「いい夫婦の日」をすすめる会HP

「いい夫婦の日」をすすめる会が、毎年11月22日に選出する「パートナー・オブ・ザ・イヤー」賞。
多才な才能を発揮し俳優・映画監督そして画家として大活躍中の奥田瑛二(おくだえいじ)さん、色兼備のエッセイストでTVコメンテーターとしても有名な安藤和津(あんどうかず)さんのご夫婦は、「パートナー・オブ・ザ・イヤー2003」に選ばれています。

選出の理由は、一般の方からは「知的で大人のカップル」「お互いを尊重しあい、認め合いながらともに成長されている理想のご夫婦」「それぞれの才能や個性がうまく調和されているご夫婦」といった声が寄せられ、「パートナー・オブ・ザ・イヤー審査委員会」は、2003年度のテーマ“夫婦で奏でるライフセッション”にふさわしいカップルだとして、奥田瑛二さん・安藤和津さんご夫妻を選んだとされています。

安藤和津さんの華麗なる経歴

安藤和津さんは、元法務大臣の犬養健(いぬかいたける)氏と、柳橋の元芸者で、料亭“をぎ乃”経営者の荻野昌子さん(おぎのまさこ、-2006年4月)の子として生まれました。いわゆる妾の子ども(非嫡出子)でしたが、のちに子として認知されています。犬養健さんは、515事件で暗殺されたとして歴史の教科書にも出てくる第29代内閣総理大臣・犬養毅氏ですから、安藤和津さんは犬養毅氏の孫ということになります。
安藤和津さんからみると、評論家で小説家の犬養道子さん(いぬかい みちこ、1921年4月20日 – 2017年7月24日)さんは異母姉、共同通信社の社長をつとめた犬養康彦氏(いぬかい やすひこ、1928年4月1日 – 2015年7月12日)は異母兄で、国際協力機構(JICA)理事長や元国連難民高等弁務官の緒方貞子さん(おがた さだこ、1927年9月16日 – )は従姉の娘ということになります。
学歴は、学習院初等科・女子中等科・女子高等科を経て、上智大学文学部独文科を中退。その後、2年間の英国留学などを経て、1979年(昭和54年)に、俳優の奥田瑛二さんと同棲後に結婚することになります。

奥田瑛二さん・安藤和津さんの馴れ初め

安藤和津さんが20歳過ぎた頃から、お母さまの荻野昌子さんはお見合い相手を連れてくるようになりました。ただ、お見合いを重ねても「私、結婚してもこの人のパンツや靴下洗えない」と言って、片っ端から断っていったとのこと。
その後、友人のパーティーで、奥田暎二さんと出会うことになります。当時の奥田暎二さんは、まだ売れない俳優で、およそお母さまの理想とかけ離れている状態でした。ところが、安藤和津さんの家で奥田瑛二さんが倒れ、1ヶ月ほど看病することになりました。詳しい事情は分かりませんが、このことがきっかけとなって、お二人は交際するようになったようです。安藤和津さんは、奥田暎二さんの寝汗をかいた寝巻を洗濯機で洗うことになりました。今まで、お母さまが勧めるどの男性も断ってきたった安藤和津さん。そんな娘の世話を焼く姿を見てお母さまが、『結婚したら』と勧めたと言われています。
同棲生活を経て、お二人は1979年1月に結婚されました。
結婚相手としての条件は最悪のようですが、お母さまが奥田暎二さんとの結婚を認めた理由について、後年、安藤和津さんはこう語っています。
「何より奥田は自分の言うことを聞いてくれるお婿さんになると母は思ったのでしょう。でも、その勘は大ハズレでしたね。」(引用:安藤和津 夫・奥田瑛二との結婚を勧めた母親との関係を語る)

奥田暎二さんの派手な女性遍歴

「パートナー・オブ・ザ・イヤー2003」を受賞した奥田暎二さんですが、その一方で、女遊びなどの浮気癖はそうとう有名です。個々の浮気相手のことは、ネット検索すればいろいろ出てきますが、ここでは触れないこととします。

安藤和津さんは、亭主の一夜限りの浮気から長年続いた不倫相手まで散々悩まされたそうです。「離婚を思いとどまったのは女の意地。1年365日中364日はダメ夫でも、1日だけとてつもなくいい人になることがあり、それが結婚生活を長続きさせた」とおっしゃたとか。
安藤和津さんをここまで支えたのは、お母さまであの荻野昌子さんの経験からくる大胆なアドバイス。浮気にほとほと疲れ果てて実母に愚痴ったところ、『いい男と結婚したんだからしょうがないよ。浮気が嫌なら、醜男と結婚すれば良かったんだよ』と諭されたそうです。このことから『モテ男と結婚できた自分は幸せ者』と考え方を180度変えるようにしたとのことです。住む世界が違う方々なのかもしれませんね。

奥田暎二さんの「いい人」ぶり

安藤和津さんのお母様である荻野昌子さんは、後年、脳腫瘍で介護が必要になりました。その際、奥田暎二さんは積極的に介護し、下の世話までみたそうです。
このことについて、安藤和津さんが、奥田瑛二さんの介護の様子を語ったことがあります。

「一緒に住んで面倒をみよう」 奥田がそう言ってくれたことはありがたかった。そこから介護の日々が始まりました。
夜は寂しさから15分おきに起こされ、2時間おきにおむつの交換。大柄な母のトイレ介護では、肩を脱臼したりギックリ腰になったこともありました。
「お義母さん、ぼくならいいよね」偶然帰宅した奥田が駆け寄ってそう言うと、母は「うん」とうなずきました。下半身裸で、汚物まみれの母のお尻を抱えた奥田は、お尻を洗うのも手伝ってくれて、そのままベッドまでおんぶしてくれました。
脳腫瘍と診断されて3年。<あー、いつの間にか、夫と母はこんな関係になっていたのね>
引用:安藤和津 母の介護支えた奥田瑛二の印象的なエピソード語る

感動するというより、どこか、ドラマを観ているような気になりますね。でも、奥田暎二さんの行動自体はすごいと思います。


奥田瑛二さんについて

<ここからの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「奥田瑛二」を素材として二次利用しています>

奥田 瑛二(おくだ えいじ、1950年3月18日 – )は、日本の俳優、映画監督、画家。旧芸名、奥田 英二(読み同一)。本名、安藤 豊明(あんどう とよあき)

愛知県東春日井郡高蔵寺町(現、春日井市)出身東邦高等学校卒業明治学院大学法学部中退。ゼロ・ピクチュアズ所属。妻はエッセイストの安藤和津、長女は映画監督の安藤桃子(旧名・安藤モモ子)、二女は女優の安藤サクラ

奥田瑛二さんの略歴

小学校5年生のときに見た大友柳太朗の『丹下左膳』を観て衝撃を受け、役者を志す。役者になるには体格を良くするべきと考え、中学では野球部、高校ではラグビー部に入る。特に高校に入ってからは身長が大きく伸びたという。

大学進学を前に上京し役者を目指す旨を春日井市議会議員であった父・豊に打ち明けるも反対されるが、「政治の勉強をするため」と説得して了解を得る東邦高等学校卒業後、明治学院大学法学部に入学。同時に父の伝で丹羽兵助代議士の秘書となり、住みこみの書生生活を送る。大学では演劇部にも参加しており、当時は辺真一も先輩部員として在籍していた。議員秘書としての仕事もこなす学生生活を過ごすうちに自身の本分の是非に悩み出奔。大学も中退する。その後、改めて役者を志願し、いくつかの劇団を当たったがタイミング悪く、試験を受けることも出来ず頓挫。高校の先輩でもある俳優の天知茂に師事し、約2年ほど付き人を務めたが、将来に不安を感じ夜逃げ同然に飛び出してしまう

生活のために夜の仕事で食いつないでいたとき、客に促されモデルの仕事を始め、CMなどにも出演するようになる。だが、俳優の夢を捨てきれず、当時のマネージャーの協力を得て、1976年に『円盤戦争バンキッド』の主人公・天馬昇 / バンキッドペガサス役でデビュー。しかし、その後しばらくは役に恵まれず不遇時代を過ごし、家賃が払えずにアパートから逃げ出し、一時期は公園でホームレスのような生活をしていたという。この頃に知り合い、後に妻となった安藤和津は、家に招いて食事を振る舞っていたと回想している。また、この間、品川岸壁の荷揚げ、スナックのウェイターなどの職を転々としながら、食い繋いでいた

1979年、日活の『もっとしなやかに、もっとしたたかに』で実力を認められ、続いて『もう頬づえはつかない』に桃井かおりの相手役として出演する。『宮本武蔵』の又八役を演じて以降、TVドラマ『金曜日の妻たちへIII 恋におちて』(1985年)、『男女7人夏物語』(1986年)、『金曜日には花を買って』(1986年 – 1987年)などへの出演により人気が上昇。これらの役柄によって女性ファンを獲得し、「不倫してみたい俳優」ナンバー1という称号も手に入れた[3]。しかし、本人はあくまで映画志向が強く、テレビ出演を続けつつも映画にのめり込んでゆく

1986年には『海と毒薬』(ベルリン映画祭銀熊賞)で熊井啓監督と出会う。36歳にして映画では初の単独主演をつかみ、毎日映画コンクール男優主演賞などを獲得した。これでひと皮むけ、『千利休 本覺坊遺文』(1989年、ベネチア映画祭銀獅子賞)、『式部物語』(1990年モントリオール映画祭芸術貢献賞)、『ひかりごけ』(1992年)と立て続けに熊井作品に出演する。これらの熊井作品で海外でも知られる存在となり、1992年にはクロード・ガニオン監督によるカナダ映画『ピアニスト』で天才ピアニストにふんし、猛特訓したという演奏場面も披露した

1993年公開の映画『棒の哀しみ』ではブルーリボン賞を始め国内の映画賞を多数受賞した。以降も、ヤクザからアダルトビデオ会社社長、パチンコ屋社長など、アウトローな役を難無く演じる積極性を武器に、50本以上の映画に出演している。

2017年、娘の安藤サクラが妊娠・出産したことにより孫が誕生した。

奥田暎二さんの映画監督歴

元来「天職」と自覚していた役者だったが、42歳のときに「監督やるぞ!」と思い立ち、周囲に宣言。しかし、経験不足からか自信を持てずに挫折。その後基礎から映画製作を学び、48歳にして助監督を経験。50歳を迎えた2001年に『少女〜AN ADOLESCENT』で念願の監督デビューとなる。

2006年1月に松坂慶子を主役とした『るにん』を公開。共に国内外の映画賞で多数の賞を獲得。3作目となる『長い散歩』は、奥田が「どうしても仕事がしたかった」という緒形拳を主役に配し、モントリオール世界映画祭で、日本映画として1982年の佐藤純弥監督作『未完の対局』以来2作目となるグランプリを受賞。さらに国際批評家連盟賞とエキュメニック賞も同時受賞し、計3冠を獲得するという快挙を成し遂げた。

奥田暎二さんのエピソード

  • 1979年、犬養毅元首相の孫で犬養健元法相の娘であるエッセイストの安藤和津と結婚。娘が2人おり、長女の安藤桃子(旧名・安藤モモ子)は助監督として、二女の安藤サクラは女優として父親の作品に参加するなど芸術一家でもある。弟・安藤豊彦は苔玉作家、父・安藤豊は元春日井市議会議員である
  • 俳優・声優の伊武雅刀は高校の1学年先輩にあたる。
  • 特技は、ギターブルースハープ、挿絵、絵画連城三紀彦の連載小説『花堕ちる』や、和津夫人の童話『月うさぎ』などで描いた挿絵は玄人はだし。1991年には個展も開いている。音楽方面では、1986年に谷村新司とのデュオでシングル盤「クラシック-CLASSIC-」をリリースしている。
  • 進め!電波少年』の松村邦洋がアポなしで突然現れた際、松村の願い(「僕をモデルに絵を描いて欲しい」)を快く引き受けた。また足を怪我した際も「つばをつけて足を直してあげたい」とやって来た松村に快くつばをかけさせ、関係者に非常に好印象であった
  • 業界屈指の色気を持つ俳優であり、テレビ番組に出演する際には「ちょいワル」と呼ばれるスーツの着方を実践。また、津川雅彦明石家さんまらとたびたび合コンを開催。女性陣のセッティングを自ら担当する(加えて女性側の幹事に「キレイな子を連れてこなかったら殺す」と脅迫する)というこだわりの持ち主である。しかしそんな女性好きが高じてか、1999年に絵画モデルの10代女性にセクハラをした疑惑が浮上し、会見で「妻には初めて手をついて土下座した」と明らかにした。また、極めて酒癖の悪い人物としても有名で、酒席で下半身を露出して週刊誌、女性週刊誌で記事になったこともある。
  • 2016年、『土曜スタジオパーク』にゲスト出演した際に『円盤戦争バンキッド』でのエピソードを語った。当時は一生懸命だったので恥ずかしさはなかったという。また今でも変身ポーズは覚えていると語り、スタジオで披露した。アクションは最初の5本までは実際に行っていたといい、その後担当したスタントマンのスタイルが悪く見ていて辛かったという。『バンキッド』終了後にオーディションなどを受けた際、子供番組をやっていた事で馬鹿にされたことがあったが、後に売れてからは相手のプロデューサーから謝罪されたことなどを話した。また、『バンキッド』で共演した柳生博は、当時の奥田について「変な役者だった。ものすごくリアル」などと述べ、自分の方が先輩だったのにも関わらず怖かったとも述べた。怖かった感想を持たれたことについて、奥田自身は「学生時代に政治の世界に突っ込んでいたから」などと見解を述べている
  • 愛知県で生まれ育ち、東邦高校出身であることから中日ドラゴンズのファンに思われがちだが、実のところ阪神タイガースの大ファンであり、オールスターのテレビ中継に同級生でもある川藤幸三と一緒にゲストとして出演したことがある。また、元阪神の捕手で現楽天コーチの山田勝彦や元巨人捕手の山倉和博、元中日投手の朝倉健太は高校の後輩にあたる。
  • 自動車免許の更新に行かなかった事で免許が失効になったこともある。
  • 「自分じゃない自分になりたい」という感性から、本名で呼ばれることが嫌いと述べている
  • 句歴20年以上の俳人である。『サンデー毎日』で川上弘美と俳句談義をしている。
  • 次女・サクラがヒロインを務める2018年度下期のNHK連続テレビ小説『まんぷく』を毎日欠かさず視聴し、「元気をもらっている」と発言している。『まんぷく』のオファーを受け、当初は迷っていたサクラに対し、背中を押したという

奥田暎二さん出演作品

テレビドラマ

映画

オリジナルビデオ

舞台

  • 真夜中のパーティー(1983年、パルコ劇場) – ドナルド 役
  • 逢魔が恋暦(1988年、松竹) – 茂兵衛 役
  • 四谷怪談 十六夜の月(1996年、新宿梁山泊) – 伊策 役
  • 夏の庭(1997年、パルコ劇場) – 古香老人 役
  • ラヴ・レターズ(1998年、パルコ劇場)
  • エリザベス・レックス(2004年、オン・タイム) – ウィル 役
  • 兵士の物語(2007年、東京文化会館)
  • 幽霊たち(2011年、パルコ劇場) – ホワイト、ブラック(二役)

劇場アニメ

吹き替え

ゲーム

ラジオドラマ

バラエティ

ドキュメンタリー

  • ドキュメント72時間 札幌すすきの 24時間にぎりめし屋(2012年7月17日、NHK) – 語り
  • わが心の聖地〜思いの道 願いの道〜(2013年10月 – 2014年9月、BS日テレ) – ナレーター
  • 日中共同制作 カンフーの聖地へ 世界遺産少林寺 奥田瑛二の鉄道とバスの旅(2014年8月10日、BS朝日) – ナビゲーター

CM

ミュージックビデオ

奥田暎二さんの音楽作品

シングル

  • クラシック -CLASSIC- / オールドタイム(1986年、ポリスター) – 谷村新司とデュエット
  • 想い出はタンゴに染めて / 卒業試合(1987年、ポリスター)
  • イタイのそこが / エンド・マーク(1989年、ポリスター)

アルバム

  • ふらふら(1987年、ポリスター)
  • ブラック・バージン(1989年、ポリスター)

奥田暎二さんの個展(開催地)

  • フォーシーズンスホテル
  • 銀座三越
  • ホワイトギャラリー

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安藤和津さんについて

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安藤 和津(あんどう かづ、1948年3月6日 – )は、日本のエッセイスト、タレントである。戸籍名は、安藤 和子(あんどう かずこ、旧姓:荻野、犬養)。プロダクションパオ所属。

略歴・人物

東京柳橋に、後に法務大臣を務める犬養健の子(非嫡出子)として生まれ、のち子として認知される。犬養とは年が離れていたため、親子というよりはむしろ孫と祖父と見られることも多かったという。祖父は内閣総理大臣を務めた犬養毅。母の荻野昌子は実家の石材店が倒産したため女学校をやめて柳橋の芸者に転じ、後に料亭「をぎ乃」を始めた。和津が友人と映画などに出かける予定と知ると、友人宅に電話して確認するほど厳しく管理されて育ったという。評論家犬養道子は異母姉、犬養康彦は異母兄で、国際協力機構(JICA)理事長の緒方貞子は従姉の娘にあたる。

学習院初等科・女子中等科・女子高等科を経て、上智大学文学部独文科を中退する。2年間の英国留学などを経て、1979年(昭和54年)に俳優の奥田瑛二と同棲を経て結婚する。長女は映画監督の安藤桃子、次女は女優の安藤サクラ

「犬養和」時代に、TBSラジオ土曜ワイドラジオTOKYO』で中継キャスターとしてデビューし、TVリポーターやニュースキャスターを務めた。元CNNキャスター。一時期ニッポン放送テレフォン人生相談』のパーソナリティを務めていたこともある。

在宅介護した母を看取った後に鬱病を13年間患い、後に寛解。こうした体験を基にした著述や講演を行っている。

次女・サクラがヒロインを務める2018年度下期のNHK連続テレビ小説まんぷく』を毎日欠かさず視聴している。DREAMS COME TRUEが手掛ける同作の主題歌「あなたとトゥラッタッタ♪」も気に入っている

安藤和津さんの出演作品

テレビ

ラジオ

安藤和津さんの出版物

著書

翻訳

  • ダン・カイリー『ピーター・パン・パートナー―「母離れできない男」と、どうつき合うか』祥伝社、1994年1月、ISBN 978-4-39665012-4

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最近の 奥田暎二さん 安藤和津さん ご夫妻

NHK朝ドラ『まんぷく』が好調の陰に 奥田瑛二さん・安藤和津さん

2018年10月20日07時00分に配信された、NEWSポストセブンでは「朝ドラ『まんぷく』が好調、陰の功労者は安藤和津・奥田瑛二」と題する内容、お二人の近況がうかがえます。

奥田暎二安藤和津近況

まんぷく

以下、同記事を二次利用させていただきます。

 秋を感じる爽やかな陽気だった10月上旬、日曜日の朝9時前。抱っこひもで1才の娘を抱えたママは、とんとんと優しく子供の背をたたいてあやしながら、都内の住宅街をゆっくりと歩いていた。無造作に髪をまとめたすっぴんの彼女が、朝ドラ女優・安藤サクラ(32才)だと気づく人はいない。

 のんびり歩くこと10分、彼女が入ったのは大きな一戸建て。そこは夫・柄本佑(31才)の実家だった。

「サクラさん、今は大阪で月〜金曜、朝〜夕方まで朝ドラの撮影が入っていて超多忙です。佑さんは東京で仕事があるので、平日は娘さんと大阪のマンションで2人暮らし。家に帰っても息つく暇がない。週末東京に帰ったら、もうグッタリだと思いますよ」(NHK関係者)

 17年ぶりに初回視聴率が23%を超え、大ヒット中のNHK朝ドラ『まんぷく』。インスタントラーメンを開発した日清食品の創業者夫妻をモデルにした物語で、ヒロインをサクラが演じている。

 撮影場所は物語の舞台でもある大阪。単身赴任ならぬ“母娘赴任”だが、サクラをバックアップする態勢は充分だ。

「サクラさんを迎えるにあたって、NHK大阪には局内託児所が作られました。サクラさんは毎日そこにお子さんを預けているので、安心して撮影に臨めているようです。クランクインも早めに設定されたので、その分毎日午後6時か7時には撮影を終えて、サクラさんがお子さんの面倒を見られるようにしています。でも、本当に『まんぷく』を支えている“陰の功労者”はサクラさんのご両親、安藤和津さん(70才)と奥田瑛二さん(68才)ですよ」(前出・NHK関係者)

 昨年10月、サクラがオファーを受けたのは娘を出産したばかりの時だった。念願の朝ドラ主演だったが、サクラは子育てに専念するためオファーを断ろうとしていた。

「そんなサクラさんに、奥田さんは“やればいいじゃないか。これは挑戦じゃなく冒険だ”と後押しし、和津さんは“孫の面倒は私が見る”と言ってくれた。佑さんの母で女優の角替和枝さん(63才)からは“これをやらないなら、一生この仕事をやめてしまいな”と喝を入れられ、佑さんの父・柄本明さん(69才)もやるべきだ、と。それで引き受ける決意ができたそうです」(芸能関係者)

 5月に撮影が始まると、和津は大阪に足しげく通っては、娘と孫の世話を始めた。

「和津さんは、週の数日を大阪のマンションで過ごすこともある。親子ともに夫とは“W別居生活”です。サクラさんは“お母さんのおかげで東京にいるより楽なくらい(笑い)”と言っていました。収録現場に顔を見せたこともあるとか。

 なんでも、サクラさんが現場に行っている間に和津さんが洗濯や掃除や買い物をして、夕食の支度を済ませ、作り置きのおかずまでたっぷり作って娘と孫の帰りを待っている。子供が夜泣きをするとミルクを飲ませたりおむつ替えまで手伝ってくれるそうです」(番組関係者)

※女性セブン2018年11月1日号

 

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