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そもそも徐福さんってどんな人?
佐賀県に住む陸奥五郎(むつごろう)君が始めた特別研究『全国の徐福伝説』。まずは、徐福さんってどんな人だったのか?という謎から始めましょう。
『史記』にみる徐福
秦の始皇帝の命を受け、不老長寿の薬草探しの旅へ
司馬遷の『史記』の巻百十八「淮南衡山列伝」によると、秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述があるそうです。
東方の三神山とは、蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)のことです。そのうち、蓬莱山はのち日本でも広く知られており、『竹取物語』にも「東の海に蓬莱という山あるなり」と記されています。「方丈」とは神仙が住む東方絶海の中央にあるとされる島で、「方壷(ほうこ)」とも呼ばれます。瀛州はのちに日本そのものを指す名前となりました。「東瀛(とうえい)」とも呼ばれます。魏晋南北朝時代の487年、「瀛州」は、行政区分として制定されています。
秦の始皇帝をだました男!?
同じ『史記』の「秦始皇帝本紀」には、別な面の徐福像が記されています。
始皇帝に不死の薬を献上すると持ちかけ、援助を得たものの、その後、始皇帝が現地に巡行してみると、実際には出港していなかったと言うのです。改めて出立を命じたものの、その帰路で始皇帝は崩御したという記述となっており、「不死の薬を名目に実際には出立せずに始皇帝から物品をせしめた詐欺師」とされています。ちょっと複雑な気持ちになりますね。
現在一般に流布している徐福像は、ほとんどが「淮南衡山列伝」に基づいたもののようです。
伝説に出てくる架空の人物ではなかった!
徐福は、中国では長い間、伝説の人とされていました。しかし、1982年、江蘇省において徐福が住んでいたと伝わる徐阜村(徐福村)が存在することがわかり、その村には現在も徐福の子孫が住んでいると確認されました。この村では代々、先祖の徐福について語り継がれてきたそうです。徐阜村に大切に保存されていた系図には徐福が不老不死の薬を求めて東方に行ったきり帰ってこなかったことが書かれているそうです。
ごろう君は、『帰ってこなかった人の子孫がなぜ中国にいるの?』と一瞬思いましたが、そこが歴史のロマンとミステリー。この村が現在の中国のどのあたりにあるのか、現在調査中です。
日本で伝承される徐福像
日本に伝わる徐福像も、土地によってさまざまで興味深いものがあります。
今から2,300年前 秦の始皇帝時代の話
今から2,300年前、縄文から弥生時代へと変わろうとしていたころのことです。現在の中国では、秦の始皇帝時代になります。
徐福、始皇帝に不老長寿の薬を探してきたいと申し出る
方士の徐福は、はるか東の海に蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう)という三神山があって仙人が住んでいるので不老不死の薬を求めに行きたいと申し出ました。(この話は司馬遷の『史記』がもとになっています)
第一次遠征は失敗
願いが叶った徐福は莫大な資金を費やして一度旅立ちますが、得るものがなくて帰国しました。何も得られなかったと始皇帝に報告は出来ず、この時は「鯨に阻まれてたどり着けませんでした。」と報告しました。
第二次遠征 童男童女3,000人を率いた大船団
そこで始皇帝は、今度は大勢の技術者や若者を伴って再度船出することを許可しました。徐福は若い男女ら3,000人を伴って大船団で再び旅立ったのです。
そして日本にたどりつく
何日もの航海の末、船はばらばらになり、東方の海上にあるどこかの島に到達しました。徐福の乗った船がどこにたどり着いたかは不明ですが、中国の歴史書に、「平原広沢の王となって中国には戻らなかった。」書かれています。この「平原広沢」は日本であるといわれています。
日本の「秦(はた)」さんは、徐福の子孫!?
中国を船で出た徐福は、日本にたどり着いて永住し、その子孫は「秦」(はた)と称したとする伝説もあります。
もしかして計画的移民!?
徐福は船出するときから不老不死の薬を持って帰国する気などなかったかもしれません。万里の長城の建設で多くの民を苦しめる始皇帝の政治に不満をいだき、東方の島、新たな地へ脱出したという考えも成り立つかもしれません。つまり、徐福らの大船団での旅立ちは計画的移民だったのかもしれません!
徐福が持ち込んだ農作元や技術
徐福は中国を出るとき、稲など五穀の種子と金銀・農耕機具・技術(五穀百工)も持って出たと言われています。一般的に稲作は弥生時代初期に大陸や朝鮮半島から日本に伝わったとされますが、実は徐福が伝えたのではないかとする説もあるようです。
そう考えると、徐福は、日本の国つくりに深く関わった人物なのかもしれませんね。
徐福に関するQ&A
※以下の内容は、伝説の扉「徐福伝説」を参考にさせていただきました。
Q 徐福とは、どんな人なのですか?
徐福は、今から2,300年前、現在の中国から日本に渡ってきた方士だとされています。秦の始皇帝が強大な力で支配していた時代です。この頃の日本は狩猟生活から定住生活への変化が見られた縄文時代の後期から弥生時代でした。
徐福が、始皇帝に『遙か東方の海上に三神山がありそこに不老不死の仙薬がある』と告げたところ、始皇帝から『それならその妙薬をとって来るように』と命じられたのでしょう。童男童女、技術者らをともなって大船団で東に向けて船出したとされています。徐福は第一次遠征に失敗し、そして二度目の遠征で、そのまま秦には戻っていません。徐福一行が着いたところは日本だったとされており、日本各地に徐福渡海の伝説が残っています。
Q 徐福の職業は?
方士です。方士とは呪術師や祈祷師、薬剤師であり、占星術・天文学にも秀でた学者のことをさしています。
Q その『方士』とは何ですか?
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典には以下の説明があります。いわゆる知者になるのでしょうね。
【中国古代の方術を行なった人。方術とは、卜筮、医術、錬金術などをさす。『史記』の「封禅書」と「秦始皇紀」に初めてその名がみえる。戦国時代の後期から燕や斉の地方を中心に不老不死の仙薬について説いた人で、その説を秦の始皇帝や漢の武帝も信仰した。この呼称は三国時代まで使われ、晋代に入っておもに「道士」といわれるようになった。】
Q いつ頃の人ですか?
今から2,300年前のことです。日本では縄文時代後期~弥生時代にあたります。当時の中国は秦とよばれ、始皇帝が治めていました。
この後の、前漢の時代、司馬遷(しばせん)という人が「史記」のなかで、【秦始皇帝時代の28年(紀元前219年)に、徐福が始皇帝に不老不死の薬が東方海中にあると申し出た】と書き記しているのです。
Q 徐福という名前は?
徐福(じょふく)の正しい名前は徐市(じょふつ)です。「徐」という姓は身分が高いことを示しており、名の「市」は「いち」とは読まず「ふつ」といいます。市は高官が儀式の時に着る衣服の意味を持っています。
徐の一族は、高貴な家系であったようで、「徐偃王(えんおう)」を祖先として、中国各地に住んでいたようです。また、中国では「xu-fu:シューフー」と発音しているようです。(出典:池上正治著「徐福」)
日本で徐福の子孫だとされる家系や地域があります。それによると、姓には「福岡」「福島」「福田」など「福」の字がつけられいるそうです。また、秦の国に由来し、秦(はた)とう姓はも徐福の末裔だとする説があります。
Q 徐福の出身地は?
斉の国 琅邪(ろうや)(現在は山東省の東部です)とされています。
1984年、江蘇省連雲港市かん楡(ゆ)県金山郷で徐阜村(徐福村)発見されています。ここは古来は琅邪郡であったところだそうです。別に山東省の龍口(りゅうこう)も徐福の出生地とする説があります。
大国だった「斉」は、始皇帝によって紀元前221年に滅ぼされます。また、徐福の生誕は紀元前278年だったとする説がありますが、詳細は不明です。
Q 徐福の航海の目的は?
秦の始皇帝の時代、中国から見てはるか東の海には方丈(ほうじょう)山、蓬萊(ほうらい:扶桑ふそう)山、瀛洲(えいしゅう)山の三神山があり、そこには不老不死の神仙が住んでいると考えられていました。神仙は不老不死の薬を持っているとされ、その薬を始皇帝のために譲ってもらおうと金銀を持って出航したのです。
一度目の航海は何も見つけられず失敗しますが、失敗したとは言わず、大魚に行く手を阻まれるなど大変な航海でたどり着けなかったと理由をつけて報告しました。そのため、始皇帝は多くの童男童女や様々な技師たち、多くの道具を用意して再び航海することを命じます。
しかし、徐福は二度と中国には戻ってきませんでした。一説には日本の王になったとも言われています。「平原広沢を得て留まり王となる」との伝承があります。
このことから、始皇帝の真の目的は日本への集団移民だったとする考え方もあります。実際、秦の始皇帝によって徐福の国「斉」も滅ぼされてしまいます。当時の人々は、万里長城の修復のための労役、焚書坑儒(ふんしょこうじゅ:始皇帝の考えに批判的な学者たちを穴に埋めて殺した)など始皇帝の圧政に苦しんでいたようです。それから逃れるために、秦を脱出したとする推測です。
勝手に国を出ることは大罪です。そのため、仙薬を求めるという理由を考えたのです。もちろん、日本に着いた徐福が真剣に仙薬を探していたことが九州地方の伝承として残っているので、最初は日本のどこかに蓬莱山があることを信じていたと考えられます。しかし、本当の仙薬は見つかりませんでした。「本当の」というのは、徐福らが発見したフロフキ(カンアオイ)やハマユウ、テンダイウヤクなどを仙薬だと思い込んだときがあるからです。紀伊半島や山梨に伝わる話から推測すると、仙薬探しよりもむしろ村人たちに新しい技術を伝えることが主になっており、徐福の渡航は、結果的に『日本への集団移民』になっています。
Q 徐福の年表
- BC.278 一説に徐福誕生とする。
- BC.259 始皇帝が誕生した。
- BC.221 斉の国を滅亡し、秦の始皇帝が即位した。
- 始皇帝は不老不死の薬を探し求めていたところ、徐郷県(山東省龍口市)で徐福と出会う。
- BC.219 秦の始皇帝が国々をまわっていたとき、斉の国の人徐福が上書(君主に書状を差し出す)した。その内容は、東海中に三神山があり、仙人が住んでいます。童男童女とともに仙人を探したいというものです。始皇帝は徐福に航海を命じた。徐福が日本に渡来した。仙薬は見つけられない。
- BC.214 始皇帝が万里の長城を修復させた。
- BC.213 焚書(ふんしょ)思想の弾圧をした。
- BC.212 坑儒(こうじゅ)学者の生き埋めをさせた。
- 大鮫魚がいたのでたどり着けなかったと言う徐福の報告を聞いた始皇帝は、再度の命を出す。
- BC.210 徐福らは童男童女3,000人と技術者、五穀や数々の道具を船に乗せて大船団で出航した。
- 始皇帝が崩御した。
- BC.208 徐福が死去した。2月8日のことだったとされる。
(富士古文書、参考文献・資料より整理・推測)
Q 日本までの経路は?
中国の遼寧(りょうねい)省、浙江(せっこう)省に徐福が出航したという話が伝わっています。
↓
韓国の済州島、釜山に徐福が立ち寄ったという話が伝わっています。
↓
対馬海峡
↓
日本の九州から東北に至る地域に徐福が上陸したという話が伝わっています。
Q 徐福が神として祀られている場所は?
- 山梨県富士吉田市 - 機織りの神
- 青森県小泊 - 航海安全・豊漁の神
- 和歌山県新宮市 - 医薬の神
- 佐賀県佐賀市 - 農耕の神
- 京都府伊根 - 子どもの病を治す神
全国各地にある徐福伝説
日本で徐福の存在を証明する物は何も存在しませんが、各地に興味深い徐福伝説が存在します。
ごろう君は、佐賀県、鹿児島県、宮崎県、三重県熊野市、和歌山県新宮市、山梨県富士吉田市、京都府与謝郡、愛知県、、秋田県そして青森県に伝わる徐福伝説を調べてみることにしました。
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