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忍者(ニンジャ・Ninjya)源義家【日本の侍(サムライ・Samurai)】

源義家

鎌倉時代に実在した忍者 源義家 みなもとよしいえ

山伏兵法を学んだ中央の武士で、まず第一に挙げられる人物は、源氏初期の大忍将八幡太郎義家でしょう。

義家は鞍馬八流の山伏兵法を身につけ、父頼義とともに奥羽地方に転戦、地方武士の反乱(前9年、後9年の役)を鎮圧した日本最古の本格的忍将でした。

義家の実弟、新羅三郎義光[1] … Continue readingも名忍将として知られています。

義家は、文武両道に優れた武将として伝わり、12世紀頃の今様(いまよう)のなかでも、

『鷲のすむみやまには、なべての鳥はすむものか、おなじき源氏と申せども、八幡太郎はおそろしや』(『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』)

として、その勇猛ぶりが謳われています。

義家が生まれた時代は、歴史的にも摂関政治から院政時代に移り変わるなど変化していき、武士も、単なる家来から独立した新興勢力になるなどして、貴族の荘園制を奪う存在になっていきました。武士が力を持ち始めた頃であり、義家はその新興勢力のシンボルになったのでしょう。

 義家は、白河天皇の警護を務めることになります。「前9年の役」(1051~1062)で先勝した河内源氏が、武門の中でも最高の格式を持つ家と言われるようになりました。源頼朝は義家の孫であり、足利尊氏の祖先にあたることから、後世にも、義家に関する多くの逸話・伝承が生まれています。

「後3年の役」(1083~1088)では、朝廷から私戦と見られ恩賞は受けられませんでした。義家は自分の所領を共に戦った部下に分け与えました。その温情に感激した東国の武士との繋がりが強くなったともいわれます。

源義家に関する伝承

「武略神通の人」といわれた義家については伝承もきわめて多く、とくに全国各地の八幡神社には義家伝説が多数伝えられています。

その生誕に関して、父頼義が八幡宮に参詣したとき夢告により宝剣を得たが、その同じ月に妻が懐胎し、生まれたのが義家であったといわれています。

そのほか『古今著聞集』『古事談』や『陸奥話記』『奥州後三年記』『源平盛衰記』などの説話や軍記物に所伝が頻出します。

有名なものとしては、「前九年の役」の衣川(ころもがわ)の戦で敗走する安倍貞任(さだとう)に

「衣のたては綻(ほころ)びにけり」とうたいかけたところ、貞任が「年を経し糸のみだれのくるしさに」

と答えたので、その教養に感じて矢をおさめたという話(『陸奥話記』)です。

京へ帰って貞任討伐の自慢話をしたところ、大江匡房に「惜しむらくは兵法を知らず」と言われ、かえって喜んで匡房に弟子入りして兵法を学んだこと。

そして「兵野に伏すとき、雁列を破る」との兵書の教えから、後三年の役では斜雁の列の乱れをみて伏兵を知ることができたという話(『奥州後三年記』)などがあげられます。

これらから、義家の、戦闘での武勇伝と従者や武勇之仁に対する武将としての思いやり、その名や声を聞いただけで猛悪な強盗も逃げ出したという勇猛さ、さらには義家によって物の怪(もののけ)や悪霊さえも退散するという神格化された人物像などがうかがえます。


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脚注[+]

脚注
1 新羅三郎義光は現代武道合気道の源流ともなる柔術の祖としても知られています。義光は戦死者の骨格や筋肉などを丹念に調べ上げ、武術に活かす術を研究したといいます。この研究結果はやがて柔術として体系化され、甲斐源氏藩御止め技(秘技)として受け継がれていきました。
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