教えて!西郷どん 初心者のための西郷隆盛ガイドブック・マップ

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西郷隆盛は、明治政府軍と闘った逆賊という立場になり、靖国神社には祀られていないとされます。それでも、日本人が大好きな偉人 西郷隆盛。その西郷どん(せごどん)どんの魅力をまとめました。下の「西郷どんマップ」の番号は、説明文の番号をあらわしています。

西郷隆盛を知るにはココ!西郷どん ゆかりの施設

  1. 西郷南洲顕彰館

    南洲公園内にあり、西郷隆盛をはじめ明治維新の先覚者たちの偉業を伝える資料館です。西郷隆盛の遺品やジオラマなどが展示されています。同じ敷地内には西南戦争の戦死者が埋葬された南洲墓地、西郷隆盛が祀られた南洲神社もあります。
    〒892-0851 鹿児島市上竜尾町2-1
    099-247-1100
    9:00~17:00 月曜(祝日の場合は翌日)、12 /29~1/1
    一般 200円、小・中学生100円(20名以上団体割引あり)
    普通車:50台、バス:10台
  2. 鹿児島市 維新ふるさと館

    幕末から明治にかけて活躍した人物を多く輩出した加治屋町にあることから、この「維新ふるさと館」には、幕末の様子がわかる展示が揃っており、西郷隆盛大久保利通など明治維新期に活躍した人物について詳しく知ることができます。西郷隆盛の生誕地や大久保利通生い立ちの地にも近いので、この施設見学の前後に周辺を散策してみることもおすすめです。地下1階の維新体感ホールでは、西郷隆盛などの等身大ロボットが展示され、マルチスクリーンで臨場感あふれるドラマなどが上映されています。
    〒892-0846 鹿児島市加治屋町23-1
    099-239-7700
    9:00~17:00(入 館は16:30まで)
    年中無休
    大 人300円、小・中学生150円(20名以上団体割引あり)
    普通車:24台、バス:8台
  3. 鹿児島県歴史資料センター黎明館

    鶴丸城(鹿児島城)跡に建つ鹿児島の歴史がわかる人文系の総合博物館。国宝、重要文化財を含む約18万点の実物資料を収蔵し、鹿児島県の歴史、民俗、美術・工芸を紹介。常設展示場(1階から3階)には、西郷隆盛直筆の手紙や書、所用の刀、軍服、陣羽織、狩羽織などがあります。(展示の内容は変わることもあります。)
    〒892-0853 鹿児島市城山町7-2
    099-222-5100
    9:00~18:00(入 館は17:30まで)
    月曜(祝日の場合は翌日)、毎月25日(25日が土・日曜の時は閉館)、12/31~1/2
    大人310円、高校生・大学生190円、小・中学生120円(20名以上団体割引あり)
    普通車:200台、バス:5台
  4. 尚古集成館仙巌園(せんがんえん)

    尚古集成館では、幕末の薩摩藩が果たした役割について、島津家の歴史、海外とのかかわりなどの視点から学ぶことができます。付近一帯は、西郷隆盛を見出した島津斉彬のおこした「集成館事業」が行われた場所で、尚古集成館本館と、仙巌園内の反射炉跡が、平成27(2015)年、世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産にも登録されています。仙巌園(せんがんえん)は、(薩摩藩主・島津家の別邸。桜島を背景に、約5万平方メートルの敷地面積を誇ります。斉彬は藩主就任後、仙厳園の隣接地に洋風工場群・集成館を創設し、富国強兵策を進めました。
    (尚古集成館)〒892-0871 鹿児島市吉野町9698-1
    099-247-1511
    (仙巌園)〒892-0871 鹿児島市吉野町9700-1
    099-247-1551
    8:30~17:30 年中無休
    大人1,000円、小・中学生500円(尚古集成館・仙巌園 共通)
    普通車:500台、バス:50台 (バス1,000円/回、普通車300円/回)
  5. 西郷南洲記念館

    西郷隆盛が島津久光によって2度目の遠島を命じられた沖永良部島。西郷隆盛を表す言葉としても有名な「敬天愛人」の思想をこの地で確立したといわれており、記念館が建てられています。西郷南洲記念館前には当時の牢獄を再現した牢があり、その中に西郷隆盛の像があります。
    〒891-9112 大島郡和泊町和泊587-3
    0997-92-0999
    9:00~17:00 月曜(祝日の場合は翌日)、12/29~1/3
    高校生以上200円、小・中学生100円
    沖永良部空港から車で約15分普通車:10台
  6. 薩摩伝承館

    約3000点のコレクションの中から、約380点を展示してある薩摩の歴史と文化を伝える美術館です。西郷隆盛のゆかりの品々、書などを展示した「薩摩の間」のほか、幕末から明治にかけて世界で評価された薩摩金襴手のコレクションなどを楽しめる「維新の間」など多様な薩摩焼の魅力を伝える空間で構成されています。
    〒891-0404 指宿市東方12131-4
    0993-23-0211
    8:30~18:00 年中無休
    大人1,500円、大学生1,200円、高校生600円、小・中学生300円
    JR指宿駅から車で約10分(指宿白水館敷地内)
    普通車:200台、バス:20台

西郷どん 知恵袋

  • 問い:西郷さんの好きな動物は?
  • 答え:西郷さんの犬好きは広く知られていて、銅像にもなっている薩摩犬の「ツン」は有名です。
  • 問い:飼っていた犬は「ツン」だけ?
  • 答え:飼っていたのは一匹ではなく、多いときには十匹以上の犬を自邸に飼っていました。明治維新後に暮らした武村の屋敷の敷地が広いのは、たくさんの犬を飼うためだったからともいわれています。名前は「シロ」「クロ」「カヤ」など毛並みなどの見た目から名前を付けていました。珍しい名前としては、「攘夷家」という犬もいて、これは外国人にだけ吠える性質を持っていたからだといいます。
  • 問い:どうしてそんなに犬を飼っていたの?
  • 答え:これらの犬は狩りの際に役立てられました。時には犬の調教などに苦労もしたようです。国分郷士の山内甚五郎は、その際の指南役でしたし、弟の信吾こと従道から譲られた洋犬は懐かずに苦労したという話もあります。
  • 問い:趣味や特技は何ですか?
  • 答え:釣りが好きだったようで奄美大島の屋入(現龍郷町)でも釣りをしたと伝わります。また、手先の器用さも西郷さんの特徴で、沖永良部島では細かい作業が必要な烏賊餌木を漁民から求められて作っていたようです。また、狩りに使用する際の草鞋なども自分で編んでいたといいます。食べ物に関しては自邸において、味噌作りやしょうゆ作りにも精を出すなど意外な一面がありました。奄美大島では結婚するまで自炊もしていました。
  • 問い:農作業にも従事していたって本当?
  • 答え:下級武士の家に生まれた西郷さんは、武士であっても農作業をすることが生活のなかで普通でした。特に薩摩藩では、武士が農業をすることを恥じとする考え方は薄く、大家族だった家計を支えるために、郊外の土地を開墾してさつま芋などの作物も生産していました。また、若い頃の西郷さんは郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)という農政に関する仕事に従事していたことから、農業には詳しかったようです。明治6(1873)年に新政府の仕事を辞して鹿児島に戻ってからは、自身を「武村の吉」と称して、それまで以上に農作業を楽しみとしていました。また、明治8(1875)年に吉野開墾社を設立すると、その学校の畑がある吉野の寺山を訪れて、さつま芋づくりなどを行いました。吉野には、収穫物であるさつま芋を自邸へと運搬する際に馬の背中に積んださつま芋が坂道でバランスを崩して落ちたのを呆然と眺めていたというエピソードが残されています。地域の人々が拾ったために大丈夫でしたが、拾った人も最初は、落とし主が西郷さんとは気づかなかったようです。その場所には「駄馬落の碑」というものがあります。なんとも西郷さんらしいお話ですね。
  • 問い:好きな食べ物はなんですか?
  • 答え:鰻です。そのほか豚肉も。狩りの帰りに鹿児島の八坂神社横の鰻屋を訪れ、猟犬にまで食べさせたという話があります。また、武の自邸であん
    この入ったかるかんまんじゅうを食べたり、国分では今も伝わるお菓子に「角まんじゅう」と名付けたと言われていますので、甘いものも好んだようです。
  • 問い:家族のことを教えてください
  • 答え:鹿児島で3回、住む家が変わっている西郷さん。どの家でもたくさんの家族と暮らしていました。まず、生家である下加治屋町では、一番多い時で、祖父母と両親、弟3人と妹3人の11人の大家族でした。次の上之園の借家では、奄美諸島への配流や京・大坂など上方での活動で留守がちでしたが、慶応元(1865)年にイトと結婚しています。明治維新後に暮らした武の屋敷では、妻のイト、奄美から引き取った菊次郎、菊子、イトとの間の子である寅太郎、牛次郎、酉三、戊辰戦争で亡くなった弟の吉二郎の妻とその子供2人、小兵衛の妻とその子、沖永良部島でお世話になった川口雪逢と大家族で暮らしていました。
  • 問い:西郷さんって本当に太っていたの?
  • 答え:実際の写真が存在しない西郷さんですが、残された衣服や親戚岩山トクさんの証言などからも当時の平均身長や体重からしてもはるかに巨体(推定で身長178㎝、体重110kg)であったことは知られています。それだけに体調管理については、東京にいる頃ホフマンというドイツ人医師からアドバイスを受けています。それは食事制限と運動だったので、特に鹿児島に戻ってからは山野を駆け巡る狩りに出向くことが頻繁にありました。その際には
    温泉湯治も行い、体調管理に努めています。
  • 問い:西郷さんは鹿児島の人だから焼酎が好きなんですよね?
  • 答え:焼酎はもちろん、お酒は苦手だったようです。しかし奄美大島では大老・井伊直弼の一周忌に朝から酒を飲んだ記録がありますので、全く飲まなかったわけではないようです。ただ、煙草は大好きで、奄美大島に滞在中も、煙草が切れたときに大久保から送られてきて喜んでいます。また、考え事をする際に煙管で目や頭の周辺を撫でまわすことを癖としていました。
  • 問い:本当に西南戦争で死んだの?
  • 答え:明治10(1877)年9月24日の城山での戦いにおいて西郷さんは亡くなりました。ただ、その際に首と胴体が時間を置いて別々に発見されたことから、西郷生存説が生まれることになりました。そのひとつが、西郷さんは火星に行ったというものです。死亡後ではありませんが、西南戦争も終盤になる頃たまたま地球に火星が大接近していて、通常よりもかなり明るく夜空に輝く日々が続いていました。そこで、それを見上げた人々が、その輝きのなかに西郷さんが見えるとうわさするようになったのです。もうひとつは、ロシア皇太子が明治24(1891)年に来日した際に、鹿児島にも立ち寄りました。その際、わざわざ鹿児島に寄ったのは、ロシアに逃れた西郷さんが来るためだといううわさが広がりました。こうしたうわさは、人々の間に西郷さんは生きていてほしいという願いのようなものが背景にあったためかもしれません。

西郷どんマップ

西郷隆盛の生まれ故郷・終焉の地 鹿児島城下

西郷隆盛が生まれ、 そして最期を迎えた地である鹿児島城下は、 現在の鹿児島市街地にあたります。誕生地のある加治屋町周辺は、同時代に活躍した人物を多く輩出した地域で、まさに明治維新のふるさと。 城下の外れにあたり、下級武士が多く暮らす地域でした。全国各地を飛び回り、いろいろな地域で暮らした西郷ですが、晩年は家族と鹿児島で過ごしたこともあり、ゆかりの地が多くあります。

  1. 西郷隆盛誕生地(加治屋町)(さいごうたかもりたんじょうち・かじやちょう)

    西郷隆盛が生まれ育った家は鹿児島城下を流れる甲突川の河畔地域・加治屋町にりました。文政10(1827)年12月7日、西郷隆盛(幼少名:西郷吉之助)は鹿児島城(鶴丸城)下の下加治屋町で生まれています。この辺りは下級武士が住んでいたところです。西郷隆盛の弟・西郷従道や妹の西郷琴もここで生まれました。その敷地は明治22年に、近くにある大久保利通生い立ちの地とともにほぼ同じ広さ、同じ大きさの石碑が建てられ公園化され、今も守られています。
    <アクセス>
    JR鹿児島中央駅から徒歩約10分。維新ふるさと館前から徒歩約1分。Pなし。
  2. 西郷南洲翁宅地跡(上之園町)(さいごうなんしゅうおうたくちあと・うえのそのちょう)

    西郷が江戸で働いている安政2(1855)年、生活に困窮した西郷家は、生まれ育った加治屋町の家を手放し、この地に移り住んでます。慶応元年に坂本龍馬が鹿児島を訪れた際は1泊したともいい、妻イトに龍馬がふんどしの借用を願ったというエピソードが残されています。
    <アクセス>
    JR鹿児島中央駅から徒歩約5分。Pなし。
  3. 西郷隆盛蘇生の家(吉野町磯)(さいごうたかもりそせいのいえ・よしのちょういそ)

    安政5(1858)年、安政の大獄で、京にいた勤王の僧・月照も危うくなり、近衛家から保護を頼まれた西郷隆盛は、鹿児島に連れて帰ります。しかし、幕府を怖れた薩摩藩の重役たちは、西郷隆盛に月照を日向へと送るよう命じます。これはすなわち「死」を意味しており、島津斉彬の亡きあと悲観していた2人は、三船沖にさしかかったときに、船先から海に飛び込みます。
    助けられた近くの花倉の浜に行き、漁師の家にかつぎ込まれのが下記の西郷隆盛蘇生の家です。西郷隆盛は息を吹き返しましたが、月照はすでに亡くなっていました。現地にある茅葺き屋根の家は昭和44(1969)年に復元されたものです。石碑なども残されています。
    <アクセス>
    JR鹿児島中央駅から国道10号沿いに北上、車で約25分、バス停花倉から徒歩すぐ。Pなし。
  4. 西郷武屋敷跡(武町)(さいごうたけやしきあと・たけまち)

    明治2(1869)年に、西郷隆盛が鹿児島に戻ってこの土地を購入。西南戦争を始める前の4年間を過ごした屋敷です。戊辰戦争後に旧荘内藩士菅実秀らが教えを乞いにこの屋敷を訪れたことから「徳の交わり」の像が据えられています。西郷屋敷跡は、現在、西郷公園として整備され、使用したと伝わる井戸等が残っています。
    <アクセス>
    JR鹿児島中央駅から徒歩約10分。Pなし。
  5. 座禅石(城山)(ざぜんいし・しろやま)

    青年期の西郷隆盛大久保利通が、心身を鍛えるために座禅をくんだという石が残っています。もともと誓光寺という寺があった場所で、島津家の菩提寺である福昌寺で住職も務めた無参和尚が指南したと言われています。
    <アクセス>
    JR 鹿児島中央駅から車で約10分。バス停坐禅石公園から徒歩すぐ。Pなし。
  6. 西郷南洲野屋敷跡(西別府町)(さいごうなんしゅうのやしきあと・にしべっぷちょう)

    鹿児島城下の郊外にあり、西郷家の畑仕事のための屋敷跡です。西南戦争時には、妻・イトが11人の家族と生活していました。西郷が最期を迎えた城山が遠くに望める場所でもあります。
    <アクセス>
    JR鹿児島中央駅から車で約20分。かごしま文化工芸村から徒歩約10分。Pなし。

西郷どんの島暮らし

西郷は二度奄美群島で暮らしています。一度目の遠島は潜居という形で、安政の大獄により京都から逃れてきた勤皇の僧・月照と入水自殺を図るものの自分だけが死にきれず幕府から身を隠すことが目的。身を隠すことが目的。二度目は一度目の遠島から許された直後に、藩の実権を握っていた国父・久光の命令に背いたための流罪でした。ゆったりとした時間の流れる美しい島の風景とそれぞれの島で出会った人々は、その後の西郷の人間形成に大きく影響しています。

  1. 枕崎港(まくらざきこう)

    枕崎港は、奄美大島・龍郷から召還された西郷が1か月弱の船旅からようやくたどり着いた本土の港です。文久2(1862)年2月11日に、カツオ漁船で到着しています。港近くの立志清右衛門宅に宿泊したと伝わっていて、現在は石垣のみとなっています。
    〇所在地/枕崎市港町 〇アクセス/ JR 枕崎駅から徒歩約 10 分 〇駐車場/なし
  2. 山川港(やまがわこう)

    2度の奄美群島行の際に風待ちなどで滞在した港です。琉球行きの船も寄港する天然の良港でもあります。文久2(1862)年6月には滞在中に眼病を患いここで治療もしたとされています。
    〇所在地/指宿市山川 〇アクセス/ JR 山川駅から車で約 5 分 〇駐車場/なし
  3. 屋久島(一湊)

    遠島のため徳之島に向かう際は、山川港から出発しました。一時黒島方面に流されましたが、文久2(1862)年6月18日一湊に到着。1週間ほど滞在したことが同じ罪で喜界島へ流された村田新八の日記に残っています。
    〇所在地/屋久島町一湊 〇アクセス/宮之浦港から車で約 15 分 〇駐車場/なし
  4. 口永良部島(くちのえらぶじま)

    文久2(1862)年2月に奄美大島に滞在中の西郷に召還状が届き、枕崎へと向かう際に10日間立ち寄った島です。ここでは風呂に入れてもらった島民にお礼として財布を与えたという話が伝わっています。
  5. 喜界島(きかいじま)

    西郷と行動を共にし同じく遠島を命じられた村田新八が流された島です。元治元(1864)年2月26日、沖永良部島からの召還命令が出た西郷は、この島に立ち寄り村田も上船させ鹿児島へ向かいました。

奄美大島(あまみおおしま)

安政5(1858)年の政局の変化で潜居を命じられた西郷。龍郷で安政6(1859)年から文久2(1862)年までを過ごしました。この時世話をした龍家の娘・愛加那(あいかな)と結ばれ、菊次郎と菊草の2人の子供を授かっています。

  1. 西郷松(さいごうまつ)

    奄美大島謫居を命じられた西郷は龍郷の阿丹崎に上陸しました。彼を乗せた船がとも綱をつないだと伝えらる「西郷松」がありましたが、近年松枯れの被害を受けてしまいました。「りゅうがく館」にはその西郷松を利用して作られた西郷隆盛と愛加那(あいかな)の木像が入口に展示されています。
    【りゅうがく館】開館時間/9:00~22:00(日曜日は~17:00) 休館日/年末年始  電話/0997-62-3110
  2. 西郷南洲謫居跡(さいごうなんしゅうるたくあと)

    龍家の娘・愛加那と結ばれ、菊次郎を授かった西郷が、文久元(1861)年に自ら設計し移り住んだ新居の跡地にあります。集落には、愛加那も使用したと伝わる井戸跡も残っています。
    〇所在地/大島郡龍郷町龍郷 〇アクセス/奄美空港から車で約 30 分 〇駐車場/あり
  3. 南洲神社(なんしゅうじんじゃ)

    西郷隆盛が潜居した龍郷ではなく、山を越えた芦花部に西郷を御祭神とする神社があります。集落の人々が尽力し鹿児島から分霊して、昭和15(1940)年に建立されました。
    〇所在地/奄美市名瀬大字芦花部 〇アクセス/奄美空港から車で約 50 分 〇駐車場/なし

徳之島(とくのしま)

文久2(1862)年に遠島を命じられた西郷が最初に流された島です。西郷のもとに、菊次郎と生まれたばかりの菊草を会わせようと奄美大島から愛加那が到着し、再会が叶っています。しかし島津久光からさらなる沖永良部島への遠島命令が下り、再び家族との別れることになりました。

  1. 西郷隆盛上陸地(さいごうたかもりじょうりくち)

    湾仁屋湊(湾屋)に西郷隆盛が到着したのは文久2(1862)年7月5日頃です。島津久光の命に背いたため遠島を命じられた西郷隆盛は、この地に約2か月間滞在しました。このとき、奄美大島から渡ってきた愛加那や子どもたちとの再会を果たしています。鹿児島から屋久島、奄美大島を経由しての船旅でした。現在は徳之島空港の隣接地に記念碑が建っています。
    〇所在地/大島郡天城町浅間 〇アクセス/徳之島空港から車で約3分 〇駐車場/あり
  2. 岡前の西郷隆盛謫居地(おかぜんのさいごうたかもりたっきょち)

    徳之島に到着した西郷隆盛は岡前の松田勝伝の家に落ち着きます。ここに留まったのは2か月に満たない期間でしたが、住民との交流、砂糖政策に関する役人への進言や子どもたちへの教育の様子が今も大切に語り継がれています。
    〇所在地/大島郡天城町岡前 〇アクセス/徳之島空港から車で約10分 〇駐車場/なし(岡前西郷公園を利用)
  3. 西郷隆盛が寄寓した奥山家(さいごうたかもりがきぐうしたおくやまけ)

    沖永良部島へのさらなる遠島命令が下った西郷隆盛が、そこへ向かう船を待ったのが島の東側に位置する井之川集落です。滞在宅跡には西郷が腰かけもの想いにふけったとされる松が残されています。
    〇所在地/大島郡徳之島町井之川 〇アクセス/徳之島空港から車で約45分 〇駐車場/なし

沖永良部島(おきのえらぶじま)

徳之島からさらに南に位置するこの島への遠島を命じられた西郷。当初吹きさらしの牢という過酷な環境に置かれていましたが、島役人の土持政照の尽力により待遇も体調も改善したそうです。それからは島の若者に勉強を教えたり、飢餓に備えて豊作時に穀物等を保存する「社倉法」を広めたりするなど、島民の尊敬を得ました。またのちに西郷家の留守居役を果たす書家の川口雪篷と出会い、書や漢詩で交流を深めてもいます。

  1. 西郷隆盛上陸の地(さいごうたかもりじょうりくのち)

    徳之島の井之川から遠島命令によって沖永良部島に到着したのは文久2(1862)年の閏8月14日です。到着はしたものの、和泊の牢屋が完成していなかったため、船牢で2日間を過ごしたといいます。
    〇所在地/大島郡和泊町伊延 〇アクセス/沖永良部空港から車で約 10 分 〇駐車場/あり
  2. 南洲翁謫居の地(なんしゅうおうたっきょのち)

    有馬新七らが命を落とした寺田屋騒動のあと、島津久光は西郷隆盛ら過激派を捕縛して、大島吉之助に改名さ徳之島への遠島処分とします。奄美を経て徳之島に渡ると、愛加那とも一時の再会を果たしますが、2ヶ月あまりで更に遠い沖永良部島へ遠島になりました。この遠島処分は処罰でしたので、鹿児島の西郷家も謹慎のため知行・家財は没収されており厳しい生活になっています。和泊に到着し初めに入った牢屋は、風雨も吹き付ける2坪ほどのもので、西郷はこの場にて座禅を組み、どんどん身体が衰弱していきました。それを救ったのが島役人の土持政照で、座敷牢を建設し、土持の家族も西郷の面倒を見ることになりました。同敷地内には、西郷南洲記念館があり貴重な遺品や遺訓等が展示されています。近くにある南洲神社は、明治34(1901)年、西郷を祭神として建立されました。
    ○TEL:0997-92-0999 〇所在地/大島郡和泊町手々知名 〇アクセス/沖永良部空港から車で約15分 〇駐車場/あり
  3. 南洲神社(なんしゅうじんじゃ)

    明治34(1901)年に建立され御祭神は西郷隆盛。同敷地には南洲文庫跡(図書館)や西郷隆盛像が建立されています。大正8(1919)年に架橋された社殿横の美しい石橋には南洲橋の名がつけられました。
    〇所在地/大島郡和泊町手々知名 〇アクセス/沖永良部空港から車で約 15 分 〇駐車場/あり

西郷どんゆかりの温泉地

西郷隆盛は、全国の偉人のなかでも群を抜く温泉好き。温泉に通ったのは、趣味の狩りや釣りを一緒に楽しめる環境にあったということと、病気治療や体調管理からの必要性もありました。西郷隆盛の体型は、身長が高く太っている大柄なものであったのはよく知られています。そのことから健康維持のために運動と入浴を心がけ、特に明治政府を辞して時間の余裕が生まれた明治7(1874)年以降は、湯治と狩猟に頻繁に出かけています。また、西郷隆盛は漢詩もたしなみ、特に温泉地では、生活や情景を主題にした作品を数多く残しています。西郷隆盛が、その業績の大きさだけでなく、身近で親しみのある存在として現在でも慕われる理由のひとつに、湯治場でのリラックスした姿のイメージがあるからではないでしょうか。

  1. 日当山温泉(ひなたやまおんせん)

    西郷隆盛が最も頻繁に訪れた湯治場です。坂本龍馬が寺田屋事件で手に傷を負 った際に、妻お龍を伴い霧島の山手の温泉 へ出かけて いた慶応2 (1866) 年3月や、戊辰戦争から戻 って来た明治元(1868)年11月などにも訪れた記録があります。 明治2年(1869) 年2月には、 藩主の島津忠義がわざわざ西郷に会いに当地を訪れています。明治政府を辞した明治6 (1873)年以降は、明治7(1874)年12月、明治9(1876)年11月に湯治しており、その際には地元の名家である龍宝家の屋敷を間借りして滞在しています。また自身の家族を伴って湯治に訪れたこともあるようです。現在は、共同浴場「西郷どんの湯」のほか、三十数軒の温泉旅館、家族湯があります。
    ●所在地/霧島市隼人町 ●アクセス/日当山温泉郷:最寄駅JR日当山駅。隼人西ICから車で約15分。溝辺鹿児島空港ICから車で約15分。●問合せ/日当山温泉旅館組合(霧島市)0995-42-0607(清姫温泉)
  2. 吹上(伊作)温泉(ふきあげ(いざく)おんせん)

    明治3(1870)年4月に訪れた記録があります。明治元(1868)年の戊辰戦争の際、 兄弟の中で一人戦死した吉二郎は、 伊作の郷士と共に戦っており、 悼む気持ちからの訪問であったかもしれません。 また湯治のみならず、 周辺の山間部の広範囲にわたって狩猟を楽しみ、 温泉街から山道へと入った場所には東郷平八郎の揮毫による狩猟場を示す記念碑が残っています。また、近くの坊野地区には腰掛けたといわれる大岩や使用したとされる手水鉢が民家に残されています。
    ●所在地/日置市吹上町湯之浦 ●アクセス/谷山ICから車で約40分。美山ICから車で約30分。●問合せ/日置市観光協会 099-248-7380
  3. 吉田温泉(よしだおんせん)

    吉田温泉は、 現在の宮崎県えびの市の北西に位置する山間部にひっそりと佇む温泉地です。 かつては、島津義弘がこの地を治めていた頃に訪れている地に、 西郷は明治2(1869)年6月に訪れています。それは函館まで戊辰戦争の状況も確認して帰った直後。 相当疲労した状態での入浴と考えられます。それ故か入浴後に湯あたりをして発熱、下痢、腫物に悩まされています。ただ西郷自身は、その状態を受け入れ、 盟友の桂久武宛の手紙に「大変な思いをしたが、悪いものが全部体内から放出されたようで心地良い」 と伝えています。
    ●所在地/宮崎県えびの市昌明寺 ●アクセス/えびのICから車で約10分。JR京町温泉駅から車で約3分。JR吉松駅、真幸駅から車で約10分。●問合せ/えびの市観光協会 0984-35-3838
  4. 白鳥温泉(しらとりおんせん)

    えびの市街地からえびの高原へと抜ける道沿いにあり、霧島の山々に囲まれた避暑地としては最高の温泉地です。明治7(1874)年の月に西郷はこの地を訪れています。温泉湯治はもちろんのこと、狩りも目的のひとつでした。しかし西郷は、鹿児島を7月13日に出発した段階で、猟銃を忘れたことに気付き、 弟の小兵衛に船便で後から届けさせています。また、この地までの行程では雨にたたられて大変でもあったようです。それでも長期滞在し、数々の漢詩を残しています。 夏の滞在だったので、西郷にとっては最高の避暑になったことでしょう。
    ●所在地/宮崎県えびの市末永 ●アクセス/えびのICから車で約20分。JRえびの駅から車で約20分。●問合せ/えびの市観光協会 0984-35-3838
  5. 川内高城温泉(せんだいたきおんせん)

    訪れた時期は明確ではないものの、西郷隆盛が湯治を楽しんだ際の逸話が数多く伝わる温泉地です。この地でも西郷は狩りに出かけたようで、近くの陽成町にはお風呂に入る際に使用したとされる踏み台も伝わっています。また湯治以外には囲碁を打ったと伝わっており、滞在していた民家には使用の碁盤や碁石もありました。 他にも腰掛石や狩猟に引き連れた犬の墓など、とにかく面白い逸話の豊富な温泉地で趣のある街並みが魅力です。
    ●所在地/薩摩川内市湯田町 ●アクセス/最寄駅 肥薩おれんじ鉄道西方駅。西方駅から車で約10分。薩摩川内水引ICから車で約15分。●問合せ/薩摩川内市観光物産協会 0996-25-4700
  6. 鰻温泉(うなぎおんせん)

    明治7(1874)年2月から3月にかけて訪れており、 山川港から徒歩で向かっています。 この地には、西郷と同様に明治政府で活躍し、同時期に故郷の佐賀に下野した江藤新平が訪れています。江藤は不平士族とともに決起した 「佐賀の乱」に敗れ援軍を求めましたが西郷はこれに応じず、 江藤はその後当地で入浴した後に四国において明治政府に捕縛されました。
    ●所在地/指宿市山川成川 ●アクセス/JR山川駅、山川港から車で約15分。●問合せ/指宿市観光協会 0993-22-3252
  7. 有村温泉(ありむらおんせん)

    明治9(1876)年に訪れている桜島の南側に位置する温泉です。 江戸時代を通じて桜島を代表する温泉地のひとつでしたが、 大正3(1914)年1月12日の桜島大噴火によって没してしまいました。 当時、海岸に隣接する場所に湯小屋が並んでいたようで、船着き場とも近く鹿児島から訪れるにも便利だったようです。 現在も海岸線を掘ると足湯程度のお湯を楽しむことができ、また有村町の源泉を持つ施設も営まれています。
    ●所在地/鹿児島市古里町 ●アクセス&問合せ/[さくらじまホテル]099-221-2311 桜島港から車で約10分。[有村海岸での足湯]NPO法人桜島ミュージアム 099-245-2550 桜島港から車で約15分。
  8. 栗野岳温泉(くりのだけおんせん)

    明治9(1876)年4月に訪れています。狩猟を楽しみに訪れた西郷は、のちに西南戦争で西郷軍の五番大隊長を務めた池上四郎宛の手紙のなかで、栗野岳温泉のことを「全く仙境に御座候」と書き伝え、初めて訪れたこの地をたいへん気に入っていたようです。訪問時期が西南戦争の前年でなければ、再訪があったかもしれない温泉地です。
    ●所在地/姶良郡湧水町木場 ●アクセス/最寄駅 JR栗野駅。九州自動車道栗野ICから車で約20分。
    ●問合せ/栗野岳温泉南洲館(姶良郡湧水町) 0995-74-3511
  9. 指宿温泉(いぶすきおんせん)

    文久2 (1862)年2月、 一度目の遠島から帰 った西郷が体を癒した温泉です。どの施設かの明確な史料はありませんが、 当時は二月田周辺か摺ヶ浜周辺で入浴施設が整っていました。殿湯はその名の通り郷が仕えた島津斉彬も訪れた藩主御用達の温泉でした。
    ●所在地/指宿市 ●アクセス/最寄駅 JR指宿駅または二月田駅。●問合せ/指宿市観光協会 0993-22-3252

西南戦争について

明治6年の下野から西南戦争勃発まで

戊辰戦争後、一度は鹿児島に戻った西郷でしたが、明治政府の参議となります。特に大久保利通らが欧米諸国へ使節団として向かう中その留守を預かる 「留守政府」として、「学制」「地租改正」「徴兵令」などを実行しました。しかし、その後朝鮮への使節派遣をめぐり大久保利通らと対立、明治6 (1873)年10月、職を辞して鹿児島に戻ることになります。鹿児島での西郷は「武村の吉」と名乗り、農作業や温泉湯治を繰り返す日々を送っていましたが、西郷を慕って多くの旧士族が鹿児島に帰ってきており、その合間に私学校や吉野開墾社を設立しました。 明治9(1876)年になると、西日本では旧士族による反乱が発生。西郷隆盛のもとにも多くの人々が集まる状況を新政府は警戒し、警視庁は密偵を派遣して、情報収集に努めていました。

また、当時の鹿児島では国分の敷根や鹿児島の磯を中心に国内最大級の規模で火薬や弾薬の製造が行われており、保管も多くなされてました。政府は密かにこれらの火薬ら運びや弾薬を鹿児島か出そうとしましたが、前述の密偵の派遣や、全国で起こっていた一連の旧士族の不平や不満の動きが交錯し、ついに密偵の捕縛、草牟田・磯の火薬庫等の襲撃を私学校の生徒が大挙して行うという事件に発展しました。西郷隆盛は「密偵派遣の真意を新政府へ尋問する」ことを大義名分として兵を率い東京へ向かうことを決意。明治10(1877)年2月17日、西郷軍本隊は鹿児島を出発して熊本鎮台の置かれた熊本城へ向かい、国内では最後かつ最大の内戦が始まりました。南九州各地に戦線は拡大しましたが、政府軍によ って鹿児島を抑えられると物資の補給にも困るようになり敗走が続き、西郷はその年の9月鹿児島に戻った数百の兵と一緒に最期の時を迎えることになります。

  1. 吉野開墾社碑(よしのかいこんしゃひ)

    明治6(1873)年に鹿児島に戻った西郷隆盛は、翌年に私学校を設立しました。さらに明治8(1875)年、吉野台地の寺山に開墾社を設けています。開墾社には西郷とともに戻った旧陸軍教導団生徒などが中心に集まっており、昼間は農作業に従事し、付近一帯の約39haを開墾。夜間は学問に励む場となっていました。西郷も訪れては生徒らとともに農作業をして、収穫物を自宅へと持ち運んでいます。
    ○所在地:鹿児島市吉野町 ○アクセス:JR鹿児島中央駅から車で約30分、寺山自然遊歩道入口(寺山ふれあい公園側)から徒歩約5分 ○駐車場:100台(寺山ふれあい公園)
  2. 西郷隆盛逗留の地(根占)(さい ごうたかもりとうりゅうのち・ねじめ)

    明治10(1877)年の1月から大隅半島南部を中心に狩りに出かけていた西郷は小根占の平瀬邸を宿所としていました。建物のほかに手水鉢や石造りの浴槽などが当時を偲ばせます。2月1日に弟の小兵衛らが訪れ、私学校生徒が火薬庫を襲撃したことを西郷に伝えました。つまり、この地が西郷にとっての最後の休息の地であったわけです。のち西郷隆盛の銅像が城山麓に建てられた際は、小根占の海岸からも台座の石が運ばれています。
    ○所在地:肝属郡南大隅町根占川北38 ○アクセス:南大隅町役場から徒歩約10分 ○駐車場:なし
  3. 高須港(たかすこう)

    高須川沿いにある田中邸が、この地を西郷が訪れた際に立ち寄る家であったようです。その際に西郷が利用したと伝わる手水鉢などは、霧島ヶ丘公園内の茶室に展示されています。明治10(1877)年2月2日、私学校生徒らの暴発の報を前日に聞いた西郷は、港町である高須を経由して鹿児島に戻ります。少しでも早く帰ることが必要だったので、次の日の早朝には高須を後にし、2月3日の午前9時には鹿児島の武の自邸に到着しています。
    ○所在地:鹿屋市高須町 ○アクセス:桜島港から車で約45分 ○駐車場:あり
  4. 大口筋 龍門司坂(おおくちすじ・たつもんじざか)

    明治10年(1877年)2月17日に、鹿児島市街地を出発した西郷軍は、磯を経由して重富に至り、船で加治木に入り一泊。翌日この石畳の坂を踏みしめ熊本へ向かいました。その際には地元の人々が太鼓や三味線も登場させて見送ったといいます。現在も竹や杉木立の中、石畳が続く趣深い古道です。この龍門司坂の石畳は、江戸時代の1635年に着工開始し、全長1.5kmの完成はその100年後とも言われています。現在は464メートルが当時の姿で残っています。
    ○所在地:姶良市加治木町木田5088-1 ○アクセス:JR加治木駅から車で約3分 ○駐車場:あり

熊本、 宮崎、 鹿児島で繰り広げられた戦いと西郷軍の敗走

  1. 熊本城(くまもとじょう)

    「日本三名城」のひとつとされ、加藤清正によって慶長12(1607)年に築城とされています。西南戦争の際には、熊本鎮台司令長官・谷干城少将と3400名余りの将兵が籠城しました。北上する西郷軍と対峙した。明治10(1877)年2月22日に、西郷軍は城の攻撃を開始しました。しかし、4月14日には政府軍が熊本城に入城し、ついに西郷軍は落とすことはできなかったのです。熊本城址周辺には、西南の役の碑、西南戦争時の籠城家族避難所跡などがあり、熊本城の東にある高橋公園には、西南戦争の熊本鎮台(くまもとちんだい)司令長官だった谷干城(たにたてき)の銅像もあります。
    ○所在地:熊本県熊本市中央区本丸1-1 ○アクセス:交通センターから徒歩約5分 花畑町電停から徒歩約5分 熊本城・市役所前電停から徒歩約3分
  2. 田原坂(たばるざか)

    「雨は降る降る人馬は濡れる越すに越されぬ田原坂」と地元の民謡に歌われる西南戦争の激戦地。緩やかな坂道が続く三池街道沿いにあたり、熊本城に向かう政府軍を坂上から西郷軍が迎え撃ちました。3月4日から20日まで、昼夜を問わず戦闘が続きましたが、結局、西郷軍は撤退。近くの高瀬や吉次峠でも激しい戦闘が繰り広げられています。
    ○:096-272-4982 ○所在地:熊本市北区植木町豊岡858-1(熊本市田原坂西南戦争資料館) ○定休日:12月29日~1月3日 ○利用可能時間:9時00分~17時00分(入館16時30分まで) ○アクセス:JR田原坂駅から徒歩約30分
  3. 水俣の西南戦争戦闘地(みなまたのせいなんせんそうせんとうち)

    官軍は、西郷軍の背後につくため、熊本県南部の水俣に上陸しました。そこから大口方面へと進軍しています。それを阻止すべく、辺見十郎太率いる雷撃隊などが、官軍と激しい戦闘を展開しました。水俣市と伊佐市を結ぶ現在の国道268号沿いにあたる深川や久木野といった地域では、両軍ともに多くの犠牲者を出しました。この地区には、当時を偲ばせる史跡も数多く点在しています。また、かつての水俣城跡には、西郷軍の犠牲者を慰霊した記念碑が建っています。
    ○所在地:熊本県水俣市 ○アクセス:JR新水俣駅から車で約5分 ○駐車場:あり
  4. 人吉城跡(ひとよしじょうあと)

    熊本北部での戦闘に敗れた西郷軍は、南部へと敗走しました。4月後半には人吉に入っています。この地は最初に鹿児島から熊本城を目指す際にも訪れた地でもあり、人吉城や町並みなどから長期の滞在に適した地域と考えられました。本営は永国寺におかれ、西郷も近くの民家を宿所としています。桐野利秋はこの地で2年は持ちこたえると豪語していましたが、官軍の素早い南下に人吉城を中心にした西郷軍の応戦も長くは続かず、6月1日には人吉は制圧されています。約1か月の滞在でした。
    ○所在地:熊本県人吉市麓町 ○アクセス:JR人吉駅から車で約5分 ○駐車場:あり
  5. 高熊山(たかくまやま)

    西郷軍の主力部隊が、宮崎方面へと向かう頃に、辺見十郎太を中心とした雷撃隊は、水俣方面から進撃する官軍を迎えるため高熊山を中心にして堡塁を構築しました。この山を中心に激戦となったのは6月13日のことで、官軍側はアームストロング砲などを用いて砲火を山頂へと浴びせています。辺見らは銃弾のみならず、巨石などを転ばせて応戦しましたが、物量に勝る官軍には勝てずに辺見もこの地を去りました。伊佐市には、辺見が号泣しながら松の木のもとで、敗れた高熊山を振り返ったという場所もあります。また高熊山山頂の巨石には、無数の弾痕跡が残り、戦闘の激しさを物語っています。
    ○所在地:伊佐市大口千尾 ○アクセス:栗野ICから車で約45分 ○駐車場:あり
  6. 涙橋血戦の碑(なみだばしけっせんのひ)

    6月に官軍は、海軍力を生かして鹿児島を制圧していました。その鹿児島を奪還するために枕崎を中心とした部隊が北上して、鹿児島南部の新川沿いで官軍と激しい戦闘となりました。6月24日、火力に頼る官軍と、太刀による戦いを挑む枕崎の部隊との間で、新川が血に染まるほどの戦いとなりましたが、6時間ほどの激戦の後に官軍側が勝利しました。枕崎の部隊は約90名の死者を出しながらも、投降者はひとりもいなかったといいます。石碑の文字の決戦が血戦と表わされているのはそのためです。
    ○所在地:鹿児島市郡元町 ○アクセス:鹿児島市電涙橋電停から徒歩約5分 JR南鹿児島駅から徒歩約10分 ○駐車場:なし
  7. 西郷軍の堡塁跡(さいごうぐんのほるいあと)

    現在の霧島市牧園町は、西南戦争時には踊と呼ばれていました。この周辺が戦場となったのは7月1日に、隣接する横川の西郷軍が官軍側との戦闘に敗れて踊麓が拠点となってからのことです。水俣から大口を経由して進撃する官軍に対抗するために、西郷軍は街道沿いなどの要所に堡塁(敵の攻撃を防ぐために、土等で構築された陣地)を無数に築きました。7月9日には、この地域の戦闘でも官軍が圧倒しています。また周辺では、西郷隆盛が鹿児島へと敗走してくる8月30日にも、それを追う官軍との間で戦闘が行われました。
    ○所在地:霧島市牧園町 ○アクセス:JR霧島温泉駅から車で約5分 ○駐車場:なし
  8. 和田越決戦記念碑(わだごえけっせんきねんひ)

    延岡まで追い詰められた西郷軍は、8月15日に南側から迫る官軍と小高い丘が連続する和田越にて戦闘を開始します。この戦いでは、西南戦争開始後初めて西郷隆盛自らが指揮を執りました。午前7時に戦闘が開始され、午後3時には西郷らは戦場から退却することになります。翌日には全軍解散を決定し、17日の夜には鹿児島を目指して西郷らは、可愛岳の山中へと姿をくらますことになります。
    ○所在地:宮崎県延岡市稲葉崎町 ○アクセス:JR延岡駅から車で約10分 ○駐車場:なし
  9. 南洲翁宿営之跡の碑(なんしゅうおうしゅくえいのあとのひ)

    九州山地を越えた西郷らが吉松に入ったのは8月29日のことで、そこでは山口重保氏の家に宿泊しています。その後、鹿児島を目指す西郷らが踊(現在の霧島市牧園町)に入ったのは8月30日の暮れのことでした。その際に逗留したのが前田万兵衛氏の家で、この碑が建つ場所にありました。周辺に官軍が迫るなかでもあり、この日の深夜には闇夜へ紛れるように出発しました。8月31日には、溝辺経由で山田(姶良市)に入り、その麓で一時休憩、その際に腰掛けたという石が残されています。その後蒲生に入り、9月1日の午前3時頃に蒲生を出て城山を目指しています。
    ○所在地:霧島市牧園町 ○アクセス:JR霧島温泉駅から徒歩すぐ ○駐車場:なし

城山での籠城と西南戦争の終焉・西郷隆盛の死

  1. 西南戦争薩軍本営跡(ドン広場)(せいなんせんそうさつぐんほんえいあと・どんひろば)

    9月1日、九州山地を越えてきた西郷軍は、鹿児島に入り城山に籠城します。鹿児島城は慶長7(1602)年、島津家18代当主家久によって築城され、その後藩主の居城であり、廃藩置県後となる明治6(1873)年には本丸が火事によって焼失しました。翌年の6月には、明治政府から下野してきた西郷らが、城の御厩跡に私学校を設立した場所でもありました。官軍は最終的には約5万人の兵で約300人の西郷軍を囲み攻撃を重ねています。現在でも城の石塀には弾痕が無数に残っています。
    ○所在地:鹿児島市城山町 ○アクセス:カゴシマシティービュー・まち巡りバス城山下車徒歩約1分 ○駐車場:あり
  2. 西南戦争官軍本営跡(せいなんせんそうかんぐんほんえいあと)

    現在の鹿児島市役所本館付近には、西南戦争当時には米などを貯蔵する大きな石蔵が並んでいました。明治10(1877)年9月 1日に、城山に入った西郷軍は防衛線を敷き籠城します。石蔵周辺には官軍が展開していましたが、これを急襲すべく、西郷軍幹部の貴島清らが9月4日の夜中に攻撃を開始し激しい戦闘が行われました。しかし、西郷軍側に多大な犠牲者が出て、作戦は失敗に終わっています。
    ○所在地:鹿児島市山下町 ○アクセス:鹿児島市電市役所前電停から徒歩約5分 ○駐車場:なし
  3. 西郷隆盛洞窟(さいごうたかもりどうくつ)

    城山の中腹に位置する洞窟で西郷軍の本営が一時おかれた場所です。連日のように加えられる官軍の砲火に対し、西郷軍は塹壕や洞窟を掘り籠城の姿勢をとりました。山の中腹にあるこの洞窟で最後の5日間を過ごしたのち、9月24日、西郷は、敵陣方面へと城山を下ったとされています。
    ○所在地:鹿児島市城山町 ○アクセス:カゴシマシティビュー・まち巡りバス西郷洞窟前下車すぐ ○駐車場:なし
  4. 西郷隆盛終焉の地(さいごうたかもりしゅうえんのち)

    明治10(1877)年9月24日未明に始まった政府軍の総攻撃により、城山に立て籠もっていた西郷隆盛らは、山から下り始めました。その後、岩崎谷に差し掛かると銃弾にさらされ、西郷も歩行困難となり、この碑の近くで別府晋介の介錯により亡くなっています。明治32(1899)年に石碑が建立されました。
    ○所在地:鹿児島市城山町 ○アクセス:カゴシマシティビュー、まち巡りバス薩摩義士碑前から徒歩約5分。 ○駐車場:なし
  5. 南洲墓地(西郷隆盛の墓)(なんしゅうぼち・さいごうたかもりのはか)

    西南戦争で亡くなった西郷軍の2023人が葬られる墓地。西郷隆盛を中心に749基の墓石が整然と並ぶ。元々ここは浄光明寺という寺があったが、文久3(1863)年の薩英戦争の際には建物などに被害を受けており、城山の戦いの後、西郷隆盛や桐野利秋らの検死場所となった。その後仮埋葬され、明治12(1879)年になると、西郷軍の戦死者の遺骨などが集まるようになり現在に至る。明治13(1880)年には隣接地に南洲神社が建立された。
    ○所在地:鹿児島市上竜尾町 ○アクセス:カゴシマシティビュー、まち巡りバス南洲公園入口下車すぐ。 ○駐車場:あり
  6. 岩川官軍墓地(いわかわ かんぐんぼち)

    この墓地には、大隅半島の中北部で戦闘が激化した7月からの官軍側の戦死者が埋葬されている。特に官軍側に不利な戦闘となった百引村(現鹿屋市)での戦いで亡くなった者と、戦闘の行われた日だけではなく都城にあった官軍側の病院で亡くなった者が多い。鹿児島県内で官軍側の墓地が今も整備された状況であるのは珍しい。
    ○所在地:曽於市大隅町岩川 ○アクセス:曽於弥五郎ICから車で約5分 ○駐車場:なし


西郷隆盛を取り巻く人々

西郷と共に学んだ友、西郷を見出した君 主、一 緒に明治維新を成し遂げた人 物…、西郷隆盛の人生はまさに波乱万丈ですが、彼らもまた幕末、明治維新を生き抜いた 人々でした。

盟友でありライバル 大久保 利通(おおくぼとしみち)

西郷とともに 「維新の三傑」 と称されています。 天保元 (1830) 年に高麗町に生まれ、その後、西郷の住む下加治屋町に引っ越し、同じ郷中で成長しました。 父の次右衛門は琉球館勤務、母方の祖父は皆吉鳳徳という学者でした。 若い頃は正助、 後に一蔵と名乗ります。島津斉彬の下では御徒目付。 島津久光が実権を持つと、 その元で頭角を現し、 西郷が奄美諸島に配流されている際に、着実に藩政を動かすほどの実力を付けていきました。 元治元 (1864) 年、西郷が沖永良部島から召還されると、共に数々の難局を克服していきます。明治政府では西郷と共に参議として新政府の基盤整備に取り組むますが、朝鮮半島への使節派遣問題で意見が合わず、そのことが、西郷が明治政府を離れる原因となります。その後、 内務卿として国内の様々な事業を展開しましたが、西南戦争の翌年の明治11(1878) 年、東京の紀尾井坂において暗殺されました。

生涯の主君 島津 斉彬(しまづ なりあきら)

島津斉彬 Wikipediaより

若き西郷を見出し、また西郷の人生において最も影響を与えたといえる人物です。文化6(1809)年に江戸藩邸において島津斉興と正室周子の長男として生まれました。育ちも江戸で、蘭学などへの見識の広い曾祖父の島津重豪の感化を受けて育ちます。42歳となる嘉永4(1851)年にようやく藩主となってからは、富国強兵・殖産興業の政策に着手しました。それは日本に迫る外国の脅威に対抗するものであり、後に集成館事業と名付けられ、大砲鋳造や洋式軍艦建造や紡績など多岐にわたっています。安政元(1854)年の江戸参勤の列に西郷は加えられ、江戸では庭方役を命じられました。さらに安政3(1856)年に西郷は初めて、斉彬の御前に召し出され、密室にて問答を受けました。その後は斉彬から密書を受け取り、水戸や福井の藩主らに届ける任務を担うことになります。しかし斉彬は、安政5(1858)年7月16日、幕政改革を果たそうとした夢の途中で死亡。その思いは「順聖院様御深志」として西郷はもちろん、弟であり国父として薩摩藩を束ねる島津久光らに受け継がれていくことになります。

天璋院(篤姫)(てんしょういん・あつひめ)

天璋院(篤姫)Wikipediaより

天保6(1835)年に今和泉島津家に生まれました。嘉永6(1853)年に藩主島津斉彬の養女となり、その後13代将軍徳川家定の御台所となりました。西郷は、その婚礼の際の嫁入り道具を揃える役割を担ったという話があります。また、次期将軍の継嗣に一橋慶喜を推挙していた島津斉彬の命を、篤姫付き女中頭の幾島に伝達したのも西郷でした。慶応4(1868)年には、江戸城総攻撃を前にした西郷に宛てて徳川家存続の嘆願書を送っています。

  1. 今和泉島津家別邸跡

    篤姫の実家・今和泉家の領地は今和泉郷(現指宿市)にあり、現在の今和泉小学校の敷地に別邸がありました。観音崎から南にかけての海岸には、今も松の大木をみることができますが、特に今和泉小学校付近のものは隼人松原の名で知られています。篤姫の父・島津忠剛の時代、弘化元(1844)年には、当時の家老調所広郷によって別邸付近を通過する街道(谷山筋)の本格的開削が行われ、今和泉島津家は協力しています。現在今和泉小学校横の海岸に、少女時代の篤姫を表現した像も建てられています。
    ○所在地:指宿市岩本 ○アクセス:JR薩摩今和泉駅から徒歩約10分 ○駐車場:あり

小松帯刀(こまつたてわき)

小松帯刀 Wikipediaより

天保6(1835)年に喜入領主の肝付家に生まれました。安政2(1855)年に吉利領主の小松家へ養子に入り、帯刀清廉と名を改めています。幼少期から学問を好み、島津久光の下で文久元(1861)年に側役、翌年には家老となり、藩政に大きく関与しています。西郷や大久保らと連携を取りながら、幕末の難局を乗り越え活躍しましたが、体調がすぐれずに明治3(1870)年、病気のため、大阪で亡くなりました。幻の宰相とも称され、明治政府内での活躍も期待されていたのです。

  1. 園林寺跡(小松帯刀の墓)(おんりんじあと・こまつたてわきのはか)

    園林寺は小松家の菩提寺で、小松帯刀もここに眠っています。
    ○所在地:日置市日吉町 ○アクセス:JR伊集院駅から車で約20分 ○駐車場:あり(5台)
  2. 原良別邸跡(お茶亭跡)

    江戸時代、付近は尾畔と呼ばれる景勝地でした。日置島津家の菩提寺のひとつが桂山寺で、現在は廃寺となり墓地だけが残っています。
    ○所在地:鹿児島市原良町 ○アクセス:JR鹿児島中央駅から車で約20分 ○駐車場:なし

日置島津家の 桂 久武赤山靱負(かつらひさたけ と あかやまゆきえ)

桂 久武 Wikipediaより

日置島津家は日置郷(現在の日置市)を治める島津家分家のひとつになります。西郷の父吉兵衛は日置島津家の次男家である赤山家の御用人を勤めていました。西郷も父と共に出入りしていたと考えられます。お遊羅騒動に際して切腹を命じられた赤山靱負の血染めの肩衣は、西郷に渡されたというエピソードもあり、その親密さが伺えます。
赤山の弟である桂久武は、西郷と年齢も近く、文久2(1862)年に桂が奄美大島に赴任した際には、西郷が島に残してきた愛加那などの世話を依頼しています。西南戦争の際には、西郷と共に城山の戦いまで従軍し、同じ日に亡くなりました。

  1. 桂内集落
    桂久武は、慶応3(1867)年から家臣を開拓に従事させ、周囲約8キロに及ぶ地域を開墾させました。集落にはそれを偲ばせる石碑があります。
    ○所在地:霧島市霧島田口 ○アクセス:JR霧島神宮駅から車で約5分 ○駐車場:なし
  2. 桂山寺跡(赤山靱負の墓)

    日置島津家の菩提寺のひとつが桂山寺で、現在は廃寺となり墓地だけが残っています。
    ○所在地:日置市日吉町日置 ○アクセス:JR伊集院駅から車で約15分 ○駐車場:なし

島津久光島津忠義(しまづひさみつとしまづただよし)

島津久光 Wikipediaより

島津忠義 Wikipediaより

島津久光は文化14(1817)年に島津斉興と側室お遊羅の子として鹿児島城で生まれ、若くして重富島津家に養子に入っています。島津斉彬が死去すると、久光の子の茂久(忠義)がその後を継ぎますが、安政6(1859)年に島津斉興が亡くなると、本家に復帰して国父として藩政の実権を握ることになります。西郷とは微妙な関係にあり、命に背く西郷を沖永良部島まで流したり、西郷らの維新の改革に対して不満を抱いたりと、西郷を悩ませ続けた存在でもありました。保守的な面が強いものの、久光の決断なくして薩摩藩一体となっての行動はありえず、明治政府も久光を気遣い続けています。明治20(1887)年死去の際は、国葬が行われました。

島津忠義は島津家第29代当主にして最後の藩主。天保11(1840)年に島津久光の長男として誕生し、安政5(1858)年12月に島津斉彬の遺言により藩主に就任しました。父である久光の後見を受けながら藩政を指揮し、斉彬の遺志を受け継ぐべく集成館事業を再開するなどしています。朝廷・幕府・他藩との駆け引きや工作には、西郷らを起用し、長州藩とともに明治維新における主導権を握りました。西郷らによる西南戦争の際には中立の立場をとっています。明治30(1897)年12月26日没。

  1. 旧島津氏玉里邸庭園(きゅうしまづしたまざとていていえん)

    島津斉彬と久光の父・島津斉興が作った別邸。久光は特に晩年となる西南戦争以降はここを改築し過ごしています。
    ○所在地:鹿児島市玉里町 ○アクセス:JR鹿児島中央駅から車で約15分 ○駐車場:あり
  2. 重富島津家別邸跡(しげとみしまづけべっていあと)

    領地である重富にある屋敷跡で、現在の重富小学校。ここに残る石垣などは、戦国期に島津義弘によって構築されたもので、当時は平松城と呼ばれていました。周辺には久光が当主だった頃を偲ばせる町並みが残る。
    ○所在地:姶良市平松 ○アクセス:JR重富駅から車で約5分 ○駐車場:なし
  3. 福昌寺跡(ふくしょうじあと)

    島津本家の菩提寺で薩摩藩で最大の寺院でした。歴代当主の墓が立ち並び、島津斉彬や斉興などの墓もあります。島津久光の墓所は、そのなかでも一番大きく、明治初年の廃仏毀釈で廃寺となってから、神式で弔われた為、入口に鳥居が建っています。
    ○所在地:鹿児島市池之上町 ○アクセス:JR鹿児島中央駅から車で約20分 ○駐車場:なし
  4. 旧鹿児島紡績所技師館(異人館)(きゅうかごしまぼうせきじょぎしかん。いじんかん)海外貿易の点から紡績事業の重要性に着目した薩摩藩では、日本初の洋式機械紡績工場・鹿児島紡績所を建設。異人館はイギリスから招かれた技師7名の宿舎として建設されました。のちの西南戦争時には西郷軍の仮病院にも利用されています。
    ○所在地:鹿児島市吉野町 ○アクセス:JR鹿児島中央駅から車で約20分 ○駐車場:あり

偉人を多く輩出した加治屋町

鹿児島城下では、武士の居住地は大きく上方限、下方限に分けられていました。西郷が生まれ育った下加治屋町周辺は下方限に属し、身分の低い武家が多く暮らしていました。鹿児島城下に住む薩摩藩士の子弟は、居住地である郷中(町内)ごとに、年上の者が年下の者を指導する地域性の高い「郷中教育」が行われていて、西郷と同時代に活躍した多くの人物もこの教育のもと育ったことになります。

  1. 仙巌園(せんがんえん)
    斉彬は島津家の別邸であった仙巌園の隣接地に工場群「集成館」を築きました。この集成館事業は、西欧諸国の船が頻繁に日本近海へ出現していたことや天保11(1840)年のアヘン戦争で清がイギリスに敗れたことなどを受けた危機感に迫られてのことでしたが、軍事の近代化だけでなく、紡績事業、ガラス製品や薩摩焼の改良などの輸出品の開発、農業振興にも及んでいたことが特徴です。斉彬はさまざまな産業を興し日本が豊かになってこそ外国と肩を並べることができるようになると考え、この遺志は明治政府に引き継がれました。平成27(2015)年、集成館を含む遺産群が自力による急速な近代化を示す遺産として「明治日本の産業革命遺産」の名で世界文化遺産に登録されました。
    ○所在地:鹿児島市吉野町 ○アクセス:JR鹿児島中央駅から車で約20分、JR鹿児島駅から車で約5分 ○駐車場:あり
  1. 寺山炭窯跡(てらやますみがまあと)

    明治8(1875)年に西郷が吉野開墾社を開いた場所は、斉彬が大型の炭窯を築かせた場所の近くでした。大砲鋳造に必要な反射炉で銑鉄を溶かす際、強い火力を必要とするため紀州(和歌山)の技術を導入するなどして良質な木炭の量産が図られています。
    ○所在地:鹿児島市吉野町 ○アクセス:JR鹿児島中央駅から車で約30分、寺山自然遊歩道入口(鶴丸霊園側)から徒歩約5分 ○駐車場:あり
  2. 照國神社(てるくにじんじゃ)

    文久3(1863)年、斉彬は生前の功績を認められ「照国大明神」の神号が孝明天皇より授けられました。そして翌年照国神社が建立されています。隣接地には島津斉彬・島津久光・島津忠義の三公銅像が建っています。
    ○所在地:鹿児島市照國町 ○アクセス:JR鹿児島中央駅から車で約10分 ○駐車場:あり

そのほかのスポット

  1. 伊地知正治 誕生地

    伊地知正治 Wikipediaより

    伊地知正治は幼い頃の病気で目と脚が不自由でしたが、優秀な人材で藩校・造士館の教授にもなりました。島津久光が上京する際には軍師として軍奉行を務め、薩英戦争、禁門の変、鳥羽伏見の戦いなどでも藩兵を指揮し、土佐藩参謀・板垣退助と共に会津若松城を落城させています。

  2. 大久保利通生い立ちの碑

    大久保利通 Wikipediaより

    大久保利通は、川向こうの高麗町にて生まれ、幼少の頃にココに引っ越してきたため「生い立ち」の場所と表現されています。すぐ近所だった西郷隆盛は、2歳年上である大久保利通の話を聞きに、良くやってきたと言います。

  3. 大久保利通の銅像
    大久保利通西郷隆盛は共に島津久光らに認められ、倒幕へと奔走しますが、明治10年には西南戦争で敵味方と分かれました。そして、大久保利通は、西郷の死から1年後、東京で朝に赤坂の仮御所へ向かう途中、襲撃を受け命を落としています。
  4. 東郷平八郎 誕生地

    東郷平八郎 Wikipediaより

    東郷平八郎は、日本海軍を率いて、日露戦争でロシアのバルチック艦隊を撃破した名将です。西郷隆盛らと同じ加治屋町にて生まれ、西郷吉二郎から手習いを受けたと言います。昭和9年に逝去した際には国葬となりました。

  5. 大山巌 誕生地

    大山巌 Wikipediaより

    のち日清戦争・日露戦争を勝利に導く大山巌は西郷隆盛の従弟として同じ加治屋町で生まれ育ちました。西郷隆盛より15歳も年下だった大山巌は精忠組にも加わりましたが、西南戦争の時には警視庁にいたため、西郷隆盛を攻撃する側にいました。大正10年に逝去した際には国葬となっています。

  6. 村田新八 誕生地

    村田新八 Wikipediaより

    西郷隆盛より9歳年下の村田新八は、幼いころから西郷隆盛を「兄」として慕っていました。明治4年には岩倉使節団に加わり海外視察していましたが、明治7年帰国してみると、征韓論に敗れた西郷隆盛が鹿児島に帰郷していました。そのため、村田新八は大久保利通の制止も聞かず、政府の要職を捨てて鹿児島に戻り、私学校で子弟の教育にあたりました。西南戦争では薩軍の二番大隊長として奮戦しましたが、西郷隆盛の自刃を見届けてから自害しています。

  7. 井上良馨 誕生地

    井上良馨 Wikipediaより

    井上良馨(いのうえ-よしか)は、19歳のとき薩英戦争にて初陣を果たし、沖小島砲台にて重傷を負います。しかし、イギリス艦隊の強さに魅了され、以後、海軍畑を歩みました。日清戦争・日露戦争のときには佐世保・横須賀・呉などの鎮守府司令長官を歴任し、明治44年には元帥となっています。

  8. 大久保利通 誕生地
    高麗町の井上良馨誕生地のすぐ近くに大久保利通の生まれた場所があります。大久保利通が幼少の頃、川向こうの西郷隆盛誕生地近くに引っ越しています。
  9. 鹿児島城(鶴丸城)
    島津家の居城である鹿児島城です。鹿児島では「鶴丸城」と呼ばれています。鶴丸城は初代藩主・島津忠恒により築城されました。
  10. 西郷隆盛銅像

    城山の麓に立つ西郷隆盛銅像。没後50年祭記念として地元出身の彫刻家・安藤 照氏が制作。本体と土台を合わせ高さ約8メートル。
  11. 出水麓武家屋敷群(いずみふもとぶけやしきぐん)
    江戸時代の武家集落の面影を残す、国の重要伝統的建造物群保存地区です。西郷隆盛も参勤交代で江戸へ向かう途中、ここで宿泊したり利用したりしたのでしょうね。
  12. 藤川天神
    参道脇の銅像の犬は、西郷隆盛の愛犬ツンのものです。狩猟が好きだった西郷が地元の人に懇願してもらい受けたものだと言われています。
  13. 私学校跡
    1874年(明治7年)6月、下野した西郷隆盛は旧鹿児島城(鶴丸城)内に、陸軍士官養成のための「幼年学校」「銃隊学校」「砲隊学校」の三校を設立しました。西郷隆盛が二千石、鹿児島県令・大山綱良が八百石、桐野利秋が二百石、参議・大久保利通も千八百石を拠出しています。西郷が設立した真の目的は、不平士族の暴発を防ぐ事にあったともされるため、入学できるのは士族で、しかも元城下士出身者に限られていました。1877年(明治10年)1月29日、大久保利通、川路利良らが西郷暗殺を企てたとして、激高した生徒は鹿児島の鎮台の弾薬庫襲撃をします。
  14. 龍宝家の屋敷(西郷どんの宿)
    西郷隆盛が日当山温泉に赴いた際に、常宿とした龍宝家の屋敷です。
  15. 川尻薩軍本営跡
    鹿児島を出発した薩軍は2月20日に先鋒隊が熊本に入ります。そして、翌21日に西郷隆盛も到着し、この今村家の屋敷を本営と定めて「新政大総督・征伐大元帥西郷吉乃介」の表札を掲げました。西郷隆盛はここに宿泊し、熊本城を攻撃するための作戦ここで練ったということになります。また、当時の川尻には薩軍1万5千人余りに及ぶ兵にて、埋め尽くされたと伝わります。熊本城への総攻撃は2月22日に始まりました。この今村家住宅、(いまむらけじゅうたく)は、江戸末期の2階建て建物で、間口は6間の町屋になっています。今村家は屋号を「塩飽屋」(しわくや)と言い、町役人も務めた家柄でした。
  16. 駄馬落跡
    私学校の生徒と開墾している畑作業の帰りに、西郷隆盛が馬を崖下に転落させてしまった場所となります。
  17. 北岡神社 西郷隆盛本営の址
    JR熊本駅より北側にある北岡神社は、加藤清正が再興し、その後、細川忠興など細川家からも庇護を受けた由緒ある神社です。熊本城を見下ろすことができる高台であるため、薩軍の本営が北岡神社神官宅に置かれました。
    本城を攻撃開始してまもなく、政府軍が熊本に接近しているとの報を受けて、田原坂方面に薩軍の主力を展開させます。

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