昭和、平成、そして令和 年表に見る日本の生きざま

年表に見る日本
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※この記事は、あくまで個人的見解でまとめたものです。ご了承ください。

目次 Contents

昭和・平成「年表まとめ」の概要

大東亜戦争(「太平洋戦争」はGHQによる名称)の敗戦により、日本は多くの命と財産を失いました。

占領軍(GHQ)が行った、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(英語:War Guilt Information Program、略称:WGIP)は、非常に巧妙でした。

日本が再起できないよう、戦前の日本の歴史を日本人の記録と記憶から抹消し、その代わりに『日本の過去はすべて悪であった』と擦り込んだのです。

そして、日本という国は、歴史も伝統も文化も、また経済力もない国として衰退していくはずでした。

ただ、ここでアメリカ及びGHQに緊張が走る出来事が起こりました。

ソ連・中国の後ろ盾を得た北朝鮮の共産軍が、朝鮮半島を南下し、最南部の釜山(プサン)をも占領し、廃墟も同然の日本にまで達しそうな勢いだったのです。

またそのころ、アメリカ本国内にも社会主義思想の影響が勢いを増していました。

危機感を感じたアメリカは、ソ連や中国の侵攻から自国を防衛するためにも、日本を防衛の要地として整備する必要があると考え、日本無力化作戦を一転、膨大な融資や投資をし、国土強靭化を進めさせました。

日本の奇跡的な高度経済成長は、このアメリカの政策転換と、日本人自身の勤勉がなくては実現できないことでした。

そして日本は、奇跡の復活をします。

ただ、GHQが行ったWGIPの影響もあり、日本の進歩的文化人(いわゆるインテリ)には、自虐的・反日的思想が根強く残ってしまい、それが朝日新聞などの戦後マスコミにより展開され、日本人の歴史・伝統・文化は、なおざりにされたままでした。

昭和が終わり、平成の時代となりましたが、日本人の心は喪失状態のままでした。日本の政治は、史実があろうがなかろうが謝罪ばかりを繰り返し、日本はさらに多くのものを失ってしまいました。これは、年表の出来事を追えば明らかです。

令和の時代、戦後80年近くなろうとしている今、アメリカなどの機密文書も公開され、戦後の私たちが知らされてこなかった、日本の過去や歴史が明らかになってきています。またインターネットも普及し、偏向の多いマスコミ報道以外にも、事実を知る方法がたくさんあります。

私たちの日本は、世界最古の歴史を持ち、世界最長の皇統を守り続け、そして素晴らしい伝統や文化をもった誇るべき国だったのです。

令和の子どもたちには、平成時代までの失敗を繰り返すことなく、日本人としての誇りと自信を取り戻し、「和」を重んじる、誇りある日本人として「いのち」を繋いでもらいたい、それがこの年表まとめの狙いです。

別途、【日本人のための昭和史・平成史】もご覧ください。

昭和4年(1929年)世界的経済大恐慌勃発

アメリカの暴力的法律が、またひとつ、日米開戦の種を蒔く

アメリカの保護貿易思想

昭和4年(1929年)10月24日(木)、ニューヨークの証券取引所で株価が大暴落し、一度は持ち直したものの、その5日後の10月29日(火)にふたたび暴落しました。

史上最大規模の世界恐慌は、この「暗黒の木曜日」と「悲劇の火曜日」をもって始まったと言われています。しかし、ただアメリカの証券市場が暴落したぐらいで、世界中が大不況に見舞われるものでしょうか。そもそも、なぜそのような大暴落が起きたのでしょう。その点を飛ばして「株価の大暴落」という事実だけを見ても、世界大恐慌の意味や重大さは分からないのかもしれません。

これらの謎を解く鍵は、ホーリー・スムート法というアメリカの超高率関税法にあると言われています。まず、関税を高くするということはどういうことなのでしょう。

そのころのアメリカは、工業などでヨーロッパに遅れをとっていました。ヨーロッパから良い製品が次々と入ってくれば、自国の産業が潰れてしまいます。そこで、輸入品に高い関税をかけて必然的に販売価格を引きげれば、自国製品が相対的に安くなり、売れるようになる、というわけです。

これは「保護貿易思想」と言われ、当時のアメリカはその方向に傾きがちだったようです。今でこそ自由貿易のの守護神のように振舞っているアメリカですが、戦前は正反対だったのです。

大恐慌を誘引した超高率関税法

ホーリー・スムート法は、保護貿易主導の権化とも言えます。というのも、それまでの高率関税法を上回る関税を、千品目以上もの物品にかけるというものだったのです。百、二百パーセントは当たり前、なかには八百パーセントというものまであったそうです。

ちなみに、この法案を提出したホーリー議員とスムート議員は、実業家でもありました。要するに、自らが経営する企業の利益を護るための、利己的な法案だったのです。

世界経済を無視したこの暴力的な関税法案には、さすがに反対する議員が続出し、激論もあったようです。

先述の「暗黒の木曜日」は、そんなさなかに訪れます。つまり、この法案がとおるかどうかの瀬戸際が、株式相場を刺激したと言えるのです。不況になりそうなときほど関税を下げて貿易を促進するというのは、今では当たり前のことです。しかし当時は、経済学がそこまで発達しておらず、結局、ホーリー・スムート法は可決されました。

アメリカのような巨大市場がドアを閉ざせば、当然、世界の貿易は重大な打撃をこうむります。現に、それから1年足らずで、世界貿易はなんと二分の一まで落ち込みました。かくして、アメリカの証券市場の大暴落は、世界大恐慌にまで広がったのです。

そして、ここから生じたさまざまな波及効果は、日本が戦争に走らざるを得ない新たな要因となっていきました。

昭和5年(1930年)右翼社会主義の台頭

妬みと義憤を抱いた青年将校を魅了した、天皇を戴く社会主義

天皇を戴く社会主義

日本を大東亜戦争に走らせた思想は、戦後、「軍国主義」、「国家主義」などと呼ばれましたが、社会主義という要素を抜きにして、その本質を語ることは出来ないかもしれません。

ロシア革命で突如としいて存在感を示した共産主義思想は、日本にとって新たな脅威でした。制定された治安維持法は、対共産主義としての側面を強くもっていたのです。

しかし、世界中が1929年(昭和4年)に始まった大恐慌にあえいでいるときに、五か年計画が成功しているように見えたソ連の政策は、魅力的なものでもあったのでしょう。

統制経済を取り入れたい、しかし、天皇制の廃止を唱える共産党は相容れることが出来ない…、このジレンマのなかで俄然、影響力を持ち始めたのが、「天皇を戴く社会主義」だったのです。

現に、その代表的思想家である北一輝(きたいっき・1883~1937)や大川周明(1886~1957)の論旨は、皇族以下にある上層の諸階級、すなわち華族、地主、資本家などの富裕層を抹消せよというものでした。まさに”社会主義のススメ”だったのです。

彼らは右翼であるがために天皇を仰ぎます。しかし、天皇をスターリンに置き換えれば、ソ連の共産主義とまったく同じものになります。ある意味で彼らは、天皇という”錦の御旗”でくるむことで、社会主義思想という本質をごまかしていたのかもしれません。

『昭和維新』に酔った青年将校

さて、この右翼社会主義は、とくに青年将校たちに浸透しました。彼らは超エリートでした。日本男児の7~8%しか合格できない旧制中学のなかでもとびきりの優等生で、しかも頑健な肉体ももっています。二十代前半で少尉や中尉となり、二百人もの兵隊を預かる身です。まさに自信に満ち溢れていた青年将校たちでしたが、その生活の実情はといえば、安月給のひもじいものでした。

それなのに、大将たちは何人も女中を雇うような豪邸に住んでいます。華族、地主、資本家たちの裕福な生活も、彼らの目には理不尽に映ったことでしょう。また、彼らの部下の兵隊たちは、貧しい百姓の出身の者ばかりでした。

折しも世界大恐慌下、農村は困窮を極めていました。上流階級の裕福な暮らしを目にすると同時に、農村の娘たちが身売りしているという話を聞いた彼らは、日本の体制に対する義憤を感じたものと思われます。こんな不公平を野放しにしている政府は、”腐敗”していると思ったのかもしれません。

そんな彼らが右翼社会主義に飛びついたのは、当然の流れでした。彼らは、北一輝の理論から昭和の社会変革、「昭和維新」を夢想し、腐敗政治の是正と上流階級の粛清を目指していきました。

そしてこのことは、やがて軍の独走態勢を決定づける一因になるのです。

昭和5年(1930年)ロンドン軍縮会議と統帥権干犯問題

元老を失った明治憲法の欠陥につけこんだ軍部

もはや続行不可能、幣原協調外交

アメリカの絶対的排日移民法は、日本の世論を激昂させました。それでも、外相、幣原喜重郎政府は国際協調を重んじる外交を続けました。

しかし、それももはや限界に達しつつありました。ロンドン海軍軍縮会議で、日本は大規模な軍縮に合意せざるを得なくなったからです。

たとえば、当時の日本海軍は、潜水艦をアメリカの攻撃に備える決め手と考えていましたが、この軍縮会議においいて、日本は潜水艦を増やせないという条約をつきつけられます。これは明らかにアメリカの日本攻撃を有利にするための決定と考えられましたが、日本としては国際世論や英米との力関係に鑑みても、締結せざるを得ませんでした。しかし軍部は、政府の判断を激しく糾弾し、世論も軍部を支持しました。

死に絶えた元老、明治憲法の欠陥

軍部の政府攻撃は、ついに「統帥権干犯問題(とうすいけんかんぱんもんだい)」に発展します。

軍の上には天皇しか存在せず、内閣が軍に口を出すのは天皇の権利を犯す(干犯する)ものだと言い出したのです。明治憲法は、天皇が軍を統帥すると定め、しかも内閣制度について触れていません。軍部とそれに同調した野党はこの点をついたのです。

それに対し、当時の浜口雄幸(はまぐちおさち・1870~1931)首相は、「これが統帥権干犯ならば、外交を外部大臣がやるには外交権干犯なのか」と論駁(ろんばく)します。官僚も天皇の権限も代行しているのだという、筋の通った主張です。しかし、結局は、軍部寄りのジャーナリズムが軍の圧力に加担したこともあり、内閣は軍に干渉できないことになってしまいました。

ところで、明治憲法発布から40年余り、その欠陥がなぜ今になって政府に致命傷を与えたのでしょうか。それは、元老制度と深い関係があります。元老制度とは、伊藤博文(いとうひろふみ)、山県有朋(やまがたありとも・1838~1922)、西園寺公望(さいおんじきんもち・1849~1940)など、明治維新での功労者で構成される話し合いの場です。憲法には定められていませんでしたが、その功績から厳然たる権威を持っていました。明治天皇を戴いて明治維新を興した彼らは、当然、天皇との繋がりは密であると考えられており、それは、彼らが任命する首相、そしてその内閣も同様だったのです。つまり、元老院は、天皇と内閣を結びつける機能を持っていたのでした。

これまでの内閣が、まがりなりにも軍部を抑え、指導力を発揮してきたのは、この一体感のなせる業だったのです。しかし昭和に入ると元老院のほとんどが亡くなり、必然的に、内閣の権威も衰えてしまいました。統帥権干犯問題という軍部の横暴がまかりとおってしまった原因は、まさにこの事実にあったのでです。

昭和6年(1931年)満州事変

統帥権干犯問題が生んだ「下剋上思想」

満州事変は「侵略」ではない

1931年9月18日、満州・奉天近くの柳条湖付近で南満州鉄道が爆破されるという事件が起きました。これに日本軍が応戦し、南満州鉄道付近の主要都市を制覇します。これが満州事変です。その発端となった鉄道爆破事件は、関東軍の若い将校が独断で仕組んだことでした。これは動かしがたい事実ですが、しかし、満州事変を日本の「侵略戦争」とする戦後の歴史感は、明らかに間違っています。

そのころ、五か年計画を成功させたソ連は、満州付近に大軍を集結させていました。ソ連との軍事力の差は日露戦争当時よりも拡大しており、満州に駐屯していた関東軍の危機感は強まる一方でした。

また、シナでは排日・侮日運動が激化し、日本人居留民が日々危険にさらされていましたが、協調外交を重んじる幣原は、けっして強硬手段に出ようとしませんでした。そのため、幣原に対する批判も噴出していました。

つまり、ソ連の軍事的脅威をはねのけ、かつ日本人居留民を保護しようというのが、満州事変のそもそもの目的だったと言えるのです。ただ、日露戦争や北清事変などの先例と違っていたのは、それを出先の軍隊が独断で行った点でした。この点に関しては、わが国は弁解の余地はありません。

さらには、満州事変は、国内の日本人にも支持されました。大恐慌のあおりで日本には失業者があふれていましたが、新天地を求めようにもアメリカは完全に門戸を閉ざしていたのです。そこで、「アメリカがだめなら満州がある」という論調が大勢を占めはじめていたのです。そもそも日露戦争以来、満州における日本の権益は正式に認められていました。このように満州は、あらゆる点で景気回復の地として期待されていたのです。

軍下層部にも浸透した下克上精神

いわば”下っ端”である関東軍の青年将校が、司令官にも東京の軍本部にも、ましてや政府首脳にも知らせず、勝手に兵を動かしたことに、陸軍も怒りました。

だが、元はと言えば、統帥権干犯問題を振り回し、政府をないがしろにする”下克上”をよしとしたのは軍部です。その雰囲気が関東軍の若い将校たちに伝染し、満州事変を起こさせたのです。

しかし、そのような複雑な事情が、ほかの列国にわかるはずもありません。満州事変の釈明のため、日本代表は国際連盟で事態の説明を試みますが、出先の軍隊が勝手にやったことを説明できるはずもありません。しどろもどろになる日本の代表を見て、問題の根本が分からない列国は「日本は二重政府だ」と激しく非難したのでした。

かくして、これまで外交の優等生だった日本の信用は地に落ちます。「侵略戦争」ではなかったが、満州事変は、確実に日本の将来を大きく狂わせたと言わざるを得ません。

昭和7年(1932年)満州国建国

日本をも凌ぐ発展をみせた五族共和の地

満州国建国を望んだ溥儀(ふぎ)

満州事変を侵略戦争とする戦後の歴史観から見れば、当然、満州国は日本の利権のためだけにつくられた傀儡国家ということになります。

たしかに、満州事変は関東軍が仕組んだことでした。満州国建国が、新天地を求める日本人にとって朗報だったことも事実です。しかし、満州国皇帝に「祭り上げられた」とされている溥儀の立場から見ても、満州国建国は非常に好ましいことでした。

そもそも満州は、清朝を築いた満州族(女真族・にょしんぞく)の故郷です。1912年(大正元年)の辛亥革命(しんがいかくめい)で皇位を追われた清朝最後の皇帝、溥儀は、父祖の地に戻りたいと願っていました。そして、いつしか自分の民族である満州族の皇帝として、満州を治めたいと思うようになっていたようです。その思いは、国民政府軍が清朝の墓を荒らしたことで、ますます強くなりました。

また、辛亥革命で清朝が崩壊して以来、溥儀は紫禁城に暮らすことを許されていましたが、1924年(大正13年)のクーデターで追われてしまいます。そこで溥儀が助けを求めて逃げ込んでこたのは、日本公使館でした。

これは溥儀の家庭教師だったイギリス人、ジョンストン卿が、日本公使館が一番安全だとアドバイスしたことによるものですが、溥儀自身も日本の皇室を尊敬しており、大の親日家でもあったためです。

満洲国は建国にあたって自らを満洲民族と漢民族、蒙古民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づく国民国家であるとし、建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による五族協和と王道楽土を掲げました。また溥儀自身も望んだことでした。また、大臣たちは全員、満州人か清朝の忠臣でした。このこには、一点の疑いもありません。

実現された「五族共和」の繁栄

さて、政権不在のため不安定だった満州の治安は、満州国建国後、格段によくなり、あっという間に日本以外のアジアではダントツのスピードで発展を遂げます。

満州国建国の精神は、「五族共和」、つまり、満州民族、漢民族、蒙古民族、朝鮮民族、日本民族の共存共栄を謳ったものです。

それが単なる建前でなかたことは、シナ本土や蒙古から大量に移民が入ってきたことからも明らかです。

満州国が安定した治安と、安心できる生産活動及び商業活動を提供できる国だったからこそ、彼らはやってきたのでしょう。

国際社会の反応もまことに柔軟なものでした。イギリスは、アメリカとの共同通告は不要としたし、シナの国民政府ですら満州国を黙認する姿勢を示しました。あくまでも激しく非難したのは、嫉妬心に燃えるアメリカくらいのものでした。

満州国の建国自体は何ら悪いことではなかったのです。

ただ問題だったのは、やはり軍の主導で強引に行われたということでしょう。その後、日本は国際連盟を脱退し、国際世論は日本に対する不信感を強めます。

満州国建国は、日本政府の主導でなかったけれども、国際連盟が満州事変を調査・報告したリットン報告書も、これを侵略と断定しませんでした。日本は、国際連盟を脱退しなくてよかったのかもしれません。

昭和7年(1932年)オタワ会議

「持たざる国」を窮地に追い込んだ「持てる国」の囲い込み作戦

イギリスとブロック経済化

アメリカのホーリー・スムート法から2年、今度はイギリスがカナダのオタワで帝国関税会議を開き、ブロック経済化を決定します。「日満ブロック」、「大東亜共栄圏」と呼ばれる日本独自の経済圏構想は、日本政府がアジア侵攻を正当化するために「ブロック経済に対抗する」という大義名分をつけたものであるとされています。

しかしこれこそ、とんでもない作り話であるということは、オタワ会議の内容を見れば明らかです。オタワ会議の主たるテーマは、特恵関税同盟でした。簡単に言えば、イギリス連邦内、すなわちイギリス本国と植民地の間の貿易においては関税をゼロ、あるいは優遇的に安くし、それ以外の国に対しては、高率の関税を課すというものです。

その対象となる国は、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、アイルランド、インド、ニューファンドランド、南アフリカ連邦、南ローデシア、ビルマ、マレー半島、シンガポール、香港、エジプトにまで及び、世界の四分の一が、イギリス連邦の名のもとに囲い込まれてしまったことになります。ブロック内の国にとっては朗報ですが、それ以外の国にとっては災難でしかありません。

こうして芽吹いた戦争の種

このブロック経済の波のなかで生き残れるのは、アウタルキー(自給自足経済)が出来る国だけでした。たとえばアメリカは、石油や石炭が採れるため、アウタルキーが可能でした。その他フランスはアフリカをはじめ中近東、東南アジアにも植民地がありました。オランダにも全インドネシアがあります。ソ連は、体制こそ違いますが、自給自足が可能な広大な国土を持っています。つまり、これらの国には植民地や自国の資源という経済基盤があり、大恐慌とブロック経済のなかでも何とかやっていけたのです。

しかし、日本は、生糸を売って外貨を稼ぎ、それを元手に買った原料でつくった製品を輸出することで経済を成り立たせてきた国です。その貿易の相手は、ほとんどがアメリカとイギリスの植民地でした。ブロック経済は、日本にとってまさに死活問題だったのです。

また、第一次世界大戦で植民地をすべて取り上げられ、おまけに巨額の賠償金を課せられたドイツも、もろに打撃を受けました。そこに颯爽と現れたのが、ヒトラーでした。1921年(大正10年)にナチ党を結成したヒトラーが、オタワ会議の2年後に政権を握ったのは、単なる偶然ではないでしょう。同じような資源のないイタリアでは、ムッソリーニが政権を取りました。

こうして、ブロック経済で窮地に立たされた日本とドイツは、独自の経済圏を構想し始めました。ヒトラーは「生活圏」の必要性を訴え、ルーマニアの油田を第一目標としました。日本の場合は、それが「日満ブロック」および「大東亜共栄圏」となっていったのでしょう。

昭和11年(1936年)二・二六事件

右翼社会主義の派閥争いの終結が 軍部の独走を加速させる

右翼社会主義の青年将校の暴走

ブロック経済によって日本はますます窮地に立たされ、そんななか、右翼社会主義に心酔した青年たちや陸軍青年将校たちの動きも激しくなっていきました。

1932年(昭和7年)3月には三井財閥の団琢磨(だんたくま)を暗殺し(血盟団事件)、同年5月には、犬養毅(いぬかいつよし・1855~1932)首相を暗殺しました(五・一五事件)。

腐敗政治の是正と財閥の粛清を掲げた彼らは、着実にそれを実行していたのです。

そしてついに、二・二六事件が起こります。この事件を契機に、軍部の政治的発言が強固になるわけですが、いかなる因果関係でそのような事態になったか、改めて確認しておきましょう。

天皇を戴く社会主義には、皇道派と統制派という派閥がありました。二・二六事件は、皇道派が起こそうとしたクーデターでした。その目的は、軍部を中心とした右翼社会主義政権を樹立することでした。彼らは内大臣の斎藤実、大蔵大臣で日露戦争の功労者である高橋是清(たかはしこれきよ・1854~1936)などを殺害し、永田町一帯を占拠します。
しかし、結果的にこのクーデターは完全は失敗に終わりました。

参謀本部は、昭和天皇(当時は摂政宮)の断固たる決意のおかげでクーデターの軍隊を反乱軍と断定し、事態を終結させることができました。首謀者の青年将校と思想的指導者の北一輝は逮捕、処刑されています。

二・二六事件の傷跡

二・二六事件で皇道派が自滅したことは、統制派にはチャンスでした。統制派は陸軍内で主導権を握り、彼らの意志は陸軍の意志であるかのごとき状態となります。その弊害は、早くも次の組閣に現れました。広田弘毅(ひろたこうき・1878~1948)内閣の顔ぶれに、自由主義的な思想を持つ者や、軍部に対立する者が見られたため、陸軍大臣がごねたのです。
もちろん、山本権兵衛内閣のときに軍部大臣現役武官制は廃止されていましたから、広田首相がほかの者に打診すればいいことでした。

しかし広田は、それをしませんでした。二・二六事件の再現を恐れるあまり、できなかったのです。反乱軍が首府の一部を占拠するという未曽有の事件は、それほど大きな後遺症を残しました。

もちろん、政党政治家たちが、それを見過ごすはずはありません。組閣に対する陸軍の過剰干渉は、立憲政治に背くと批判しました。しかし、統制派主導が不動のものとなっていた陸軍には、通じませんでした。

さらにその直後、同じく広田内閣で軍部大臣現役武官制が復活し、あろうことか、陸軍内に政治外交を担当する部署まで出来てしまいました。陸軍の意志に反して組閣は出来なくなったのです。

こうして統制派の意志は陸軍の意志となり、それがついには政治をコントロールするという事態に発展します。すでに統帥権干犯問題によって軍に干渉できないとされていた政府は、いまや陸軍の傀儡政権になったも同然でした。

昭和12年(1937年)盧溝橋事件

「漁夫の利」を得ようとした中国共産党の陰謀

東京裁判で追及されなかった真相

満州事変以降の日本の行動はすべて「侵略」とされているため、この盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)を発端とするシナ事変(今は日中戦争と呼ばれています)も、日本が一方的に仕組んだこととされています。

しかし、日本の敗戦後、東京裁判でシナ事変が審議された際、じつに奇妙なことが起きています。盧溝橋事件以降の日本の行動は批判されたのに、事件そのものについては詳しく追及されなかったのです。これは、日本人が盧溝橋事件を仕組んだわけではないということを示しているのかもしれません。では、誰が盧溝橋事件を起こしたのかというと、中国共産党であったとする説が有力です。当時、中国共産党軍は国民政府軍と争っていたものの、絶えず劣勢を強いられていました。そこで、中国共産党が思いついたのが、国民政府軍と日本軍とを衝突させることでした。要するに「漁夫の利」を得ようとする作戦です。

盧溝橋付近の国民政府軍に潜り込んだ中国共産党軍のスパイが日本軍に発砲したということは、中国の資料にも記述されているそうです。また、事件直後に「成功せり」という電報が中国共産党の司令部に打電された事実を、日本側が傍受したという証言もあるようです。

事件不拡大のために努力した日本

ともかく、こうして盧溝橋事件は仕掛けられました。しかし、ここで日本が好戦的だったというのも、戦後歴史観の大いなる誤謬です。

それは、盧溝橋事件の全経過を見ると明らかです。7月7日の夜、盧溝橋付近に駐屯していた日本軍に向けて、何者か(中国共産党の手先)が発砲しました。日本軍は、真相解明のため、同じく盧溝橋付近にいた中国政府軍に軍使を送ることにしました。

ところが、翌早朝、ふたたび日本軍に向けた発砲がありました。さすがに日本軍は戦闘態勢に入りますが、事件拡大を恐れて、直前で攻撃を中止します。そこに、日本軍が攻撃を始めたと勘違いした国民政府軍が攻撃してきたのです。

このように、日本軍は盧溝橋事件に「巻き込まれた」というのが、ことの真相のようです。しかも、事件勃発後、すぐさま現地協定が結ばれたことからも、日本が事件の拡大を抑えようとしていたことが伺われます。

ここでよく言われるのが、シナに日本軍がいたのが悪いのだという反論ですが、それもお門違いです。日本軍の駐留は条約によって認められており、それは現在の在日米軍と同じことなのです。

しかし、残念なことに事件はこれで終わりませんでした。社会主義革命を目論む新官僚と政治的軍人たちが継戦を訴え、当時の近衛文麿(このえふみまろ・1891~1945)内閣にはそれを抑える力がなかったのです。

二・二六事件以来、軍部に逆らえる政治家は、ほとんどいなくなっていたのです。

昭和12年(1937年)通州事件

「誤爆原因説」の嘘に抹殺されたシナ人の凶行

意図的に葬られた日本人虐殺事件

通州事件(つうしゅうじけん)は、シナ人による日本人大量虐殺事件です。今日、通州事件についてはほとんど知られておりません。それは戦後の教科書や年表などは、この事件のことを抹殺、あるいは本質を歪めて記載してきたからです。

その理由は明らかです。これこそ、シナ事変が日本の一方的な侵略などではないことを示す象徴的な事件であり、日本が絶対的に悪いという”作られた話”を覆してしまうからです。

当時、シナ大陸の通州には三百人ほどの日本人居留民(コリア人も含む)が暮らしていたそうです。当時のシナ大陸では、国民政府のほか各地に自治政府が乱立していましたが、通州を支配していたのは、親日的な冀東(きとう)政府でした。そのため、多くの日本人居留民がいたのです。

その通州で、シナ人保安部隊による日本人虐殺事件が起きました。居留民の六割以上にあたる二百人もの日本人が、およそ人間とは思えない方法で惨殺されたのです。

シナ事変勃発後、近衛首相の不拡大の方針は堅持されていました。しかし、そうこうしているうちに、国民政府が一転して対日交戦を決定し、その十日後、日本は華北総攻撃を敢行します。

通州事件は、その翌日の7月29日に起きました。事件を報告した資料は、保安部隊の凶行をありありと描写していますが、その残虐さはとても直視できるものではありません。

誤爆原因説の虚偽

通州事件に触れている数少ないもののほとんどが「日本軍の誤爆が原因で起きた」と書いていますが、これこそ、事件の本質を歪める悪質な記述です。

たしかに、虐殺の直前に誤爆がありました。通州事件の前日に日本が華北を総攻撃した際、隣接する通州の保安部隊を誤爆し、数人の死者を出したのです。

しかし、関東軍の責任者がただちに冀東政府と遺族に陳謝しに行き、一件落着となっています。関東軍が誠心誠意臨んだ事後処理に、落ち度はなかったのです。

したがって、誤爆が通州事件の引き金だったわけではありません。第一、誤爆の報復として二百人もの居留民を惨殺するなど、不自然です。

ではなぜ、こんな事件が起きたかというと、要するに、彼らは誤爆以前から反日派に転じていたのではないでしょうか。中国共産軍か国民政府軍か、寝返った先としては両方の説がありますが、誤爆以前から虐殺が周到に計画されていたという点は一致しています。

通州で日本人虐殺が起きたという報は日本にも伝わり、日本人のシナに対する怒りは頂点に達しました。当時の日本人の反シナ感情は、この事件を抜きにして理解することは出来ないのです。

昭和12年(1937年)第二次上海事変

国際世論の後ろ盾を得るための蒋介石の非道

民間人を標的にした蒋介石(しょうかいせき)軍

ご多分に漏れず、この第二次上海事変も、戦後の歴史観においては日本が攻撃をしかけたことになっています。しかし、これも矛盾甚だしい作り話であるということは、ことの経過を見れば明らかです。

通州事件のわずか1か月後、上海にいる日本人居留民にも危険が及んでいました。居留民保護のために駐屯していた日本の海軍陸戦隊に対し、蒋介石(しょうかいせき・1887~1975)軍が10個師団もの正規軍を配置して圧力をかけていたのです。

ここでの蒋介石の狙いは、国際世論の同情を誘うことでした。つまり、日本がシナを侵略しようとしているから、それに対抗して蒋介石軍は軍備を配置したのだという体裁をとりたかったのです。世界の関心を引き、狙いを達成するためには、蒋介石は一般市民の犠牲を出すことすら厭わなかったのです。

8月12日、蒋介石軍は日本総領事館と商社の電話線を切断し、その翌日には租界から外に通じる道路をすべて遮断しました。日本軍との緩衝用に、多くのシナ人の一般市民も閉じ込められたのです。さらに14日、蒋介石軍はアメリカから提供された戦闘機で上海を盲爆しました。シナ人を中心とする民間人がいるホテルや避難所が意図的に攻撃され、合計3,600名余りが死傷しました。すべては、日本が欧米からの要請に応じ、撤兵を決定したあとに行われたことです。

世界を味方につける蒋介石の狙い

海軍陸戦隊だけでは蒋介石軍の正規軍の大軍に対抗できるはずがありませんでした。海軍陸戦隊とは、あくまで居留民団保護のために駐屯していた、ごく便宜的な軽武装の軍隊に過ぎなかったのです。アメリカの海兵隊とは本質的に違います。

そこで日本政府は、陸軍の派兵を決定します。その任務は、「上海並びにその北方地区の要線を占領し、帝国臣民を保護すべし」というものでした。日本政府が、この任務に「通州事件の惨劇を繰り返してはならない」という含みを込めたであろうことは、容易に想像できます。

ところで、上海の租界は列国の共同租界であったため、被害者には欧米人も含まれていました。しかし、なぜ反日を掲げる蒋介石が、欧米人までも標的にしたのでそうか。一説では、あえて欧米人の犠牲者を出すことで、欧米の国々を日中の軍事衝突に引きずり込もうとしたと言われています。

つまり、欧米人の被害者が多く出れば、欧米諸国は否が応でもシナに目を向けます。そこへ「日本がシナを蹂躙している」というイメージを発信すれば、すべてが日本のせいであるかのような印象になるというわけです。

かくして、日本は国民政府軍の攻撃に応じて陸軍を派兵したのに、まるで日本が先に攻撃をしかけたかのように流布されたのでした。

昭和12年(1937年)企画院設立

右翼社会主義に傾倒した官僚が作り上げた全体社会主義国家構想

右翼社会主義化した官僚たち

軍部が急激に台頭するなか、それに呼応するかたちで官僚たちも右翼社会主義に傾倒し、ついに悪しき企画院が設立されます。

その首謀者たる革新官僚たちが統制経済を推し進めるために設立したわけですが、なぜ彼らは統制経済を推進するに至ったのでしょうか。このことを知るためには、1930年ごろまで遡って調べる必要があります。統帥権干犯問題が起こり、陸軍青年将校が右翼社会主義の影響を受け始めたころです。

軍部が内閣の力を削ぐのを見て、官僚たちも政党政治を軽視し始めました。そこで彼らに芽生えたのが、自分たちは「天皇の官僚」である、という意識でした。つまり、天皇に直属する軍部の高級軍人は軍部の「官僚」なのだから、同じく「官僚」である自分たちも、天皇に直属するというわけです。加えて、大恐慌を背景に自由主義経済が疑問視されていたことも、彼らを高揚させたに違いありません。というのも、官僚の権限は、国の統制力が強いほど増えるものだからです。

自由主義経済では貧富の差が出ました。不景気の今こそ、国が経済を統制して私有財産を制限すべきだ…、官僚たちは、ようやく自分たちの出番が来たという思いだったのでしょう。

ナチスのごとき全体主義国家構想

こうして「親軍部・反政党」となり右翼社会主義に染まった官僚が、いわゆる「新官僚」です。そこへ二・二六事件が起き、彼らの動きは加速します。統制派が完全掌握した陸軍とともに、新官僚たちは、経済統制を推し進めます。「新官僚」は、「革新官僚」へと転化していきました。やがてナチスばりの全体主義国家構想が政府を支配しました。そして1937年(昭和12年)、その権化である企画院が設置されるのです。

ここに強大な権限を持つ経済統制の中枢機関が誕生します。優秀な革新官僚が集まり、議会の立法とは別に国策を立てるという発想は、すでに内閣調査局というかたちで実現されていましたが、企画院は、その権限をさらに強めたものでした。たとえば、その翌年に制定された国家総動員法は、国家が人的資源および物的資源を自由に統制運用できるとしたものです。総じて言えば、国民の自由意志ではなく国家命令が、国家全体の経済活動を動かすと定められたのです。

これにより、自由主義経済は完全に封じられ、日本は、全体主義的な命令経済の国となりました。人間を物資にならぶ「資源」と見る発想にも、全体主義的な人間観が明白に表れています。そもそも議会とは、このような暴力的な立法を封じ込めるためにあります。しかし、もはや議会にその力はありませんでした。かくして、大正デモクラシーが育てた政党政治は、もろくも崩れ去るのでした。

昭和12年(1937年)南京攻略

和解を実現させるための強硬手段

慎重を極めた南京攻略

この南京攻略に関して、いまだにまことしやかに伝えられている「南京大虐殺」なる事件は、東京裁判で連合軍が捏造したものです。その論拠は数えきれないほどあります。

さて、盧溝橋事件以来、シナ事変は次第に拡大しつつありましたが、日本政府としては、適当なところで収束させたいというのが本音でした。しかし、蒋介石の執念たるやすさまじいものがあり、ついに第二次上海事件が起きました。ここで日本政府は、ついに南京攻略という強硬手段に出ることを決断します。首都を押さえれば、さすが蒋介石も講話に応じるだろうと考えたのです。

南京攻略の命令が出されたのが12月1日。この13日後にはあっさりと決着がつきますが、日本はこれまで以上に慎重を期しました。

というのも、満州事変以来、日中の戦争に対する国際社会の関心が最高潮に達していたからです。第二次上海事変の被害者には欧米人も多く含まれていましたから、なおさらです。

また、南京には多くの外国人ジャーナリストがおり、もしわずかでも日本の落ち度が報じられることになれば、国際社会での日本の立場はさらに悪くなります。

このような懸念から、南京城を包囲した日本軍は、まず籠城している国民政府軍にオープン・シティ勧告を出しました。それが拒否されたため、攻め込んだのです。

また、日本軍の松井石根(まついいわね)将軍は、全軍に軍規の徹底を呼び掛けました。日本軍の外国の首都に入城する最初の例だから、後世の模範となるようにとの配慮からでした。

完全に閉ざされた和平への道

かくして南京攻略は果たされ、今度こそ講話が叶うかに見えましたが、結局、そうはなりませんでした。すでに英米の後ろ盾を得ていた蒋介石が、あくまで徹底抗戦するという姿勢を示したのです。

それに、同じころの国内の右翼社会主義者たちは、いいことに気づき始めていました。戦時という非常事態においては、どんな法案もフリーパスでとおるということです。実際、国家総動員法、配給制度、地代家賃統制制度など、多くの統制法がシナ事変下で制定されました。

こうしてシナ事変長期化の機運が高まり、近衛文麿首相は、直ちに停戦を主張する参謀本部の意見を押し切って「国民政府軍を相手にせず」との声明を出します。目下の戦闘相手を「相手にしない」と表明したのですから、世界から「日本はシナ制服を企んでいる」と思われたのも当然でした。いまや、和平への道は完全に閉ざされたのです。

昭和14年(1939年)ノモンハン事件

「日本惨敗」の誤解に隠れた日本軍の大活躍

「日本惨敗」は大きな誤り

このノモンハン事件に関しては、日本がいかに負けたかという点だけが誇張されています。しかし、これは、日本が戦況を見誤ったために出した結論に過ぎません。じつのところ、「日本の一方的惨敗」などという事実はないようです。

1939年5月12日、満州とモンゴル(外蒙古)の国境ノモンハン付近で、外蒙軍と満州国軍が衝突しました。日本軍は外蒙軍を一度は撃退するものの、そこにソ連軍が参戦し、猛反撃を始めます。これがノモンハン事件です。

ここで日本軍は一個師団を失いながらも、ソ連が世界に誇る機械化部隊に壊滅的損害を与えます。

日本軍の戦術は、敵の戦車の後部に飛び乗り、天蓋(てんがい)をこじ開けて火炎瓶を投げ込むという斬新なものでした。ビール瓶に石油を詰めただけという火炎瓶は、一見すると稚拙なようですが、じつは、ソ連軍の戦車の弱点をついたものでした。というのも、ソ連の戦車は石油で簡単に炎上してしまうようなつくりだったからです。

この日本軍の戦術により、ノモンハン一帯ではソ連の戦車が炎々と燃え続けました。機械化部隊は、とてもそれ以上攻められるような状態ではなかったのです。また、ソ連の飛行機の損害は日本の約10倍でした。

事実、スターリンは、自分が絶対の信頼を寄せていた機械化部隊が八百台もの戦車を失ったことに驚愕しました。このままでは危ういという判断から、ドイツのヒトラーに、停戦を促すように打診したくらいです。

同年9月にソ連が攻撃を中止した背景には、このような事情があったのです。

評価を誤った日本政府

ソ連崩壊に伴って公開された資料によると、ソ連軍の被害は二万数千人、対する日本軍は一万数千人。しかし、情報に怠慢な日本政府は、ソ連軍のダメージも、ヒトラーへの働きかけも察知できませんでした。

ソ連が攻撃を中止したのは、ドイツのポーランド侵攻によってヨーロッパの情勢が変化したからだというのが、当時の日本政府の見方だったのです。それに、相手は世界最強と言われるドイツ参謀本部に鍛えられ、ソ連でもっとも優秀な指揮官ジューコフが率いる機械化部隊です。一方、日本軍は、日露戦争のころと大して変わらない武装でした。ソ連側にも、日本側にも「日本が勝てるはずがない」という思い込みがあったことでしょう。

日本にとって一個師団を失ったことに対するショックは大きかったようです。それが戦況を見極める目を曇らせてしまったものと思われます。こうしてノモンハン事件において、日本はソ連に大敗したことになってしまったのです。軍事的、および思想的脅威であるソ連に、”大敗”したとあっては、心中穏やかではありません。こうした事情が、日本を日独伊三国同盟へと導きます。

昭和15年(1940年)日独伊三国同盟

かくして石油を握るユダヤ人を敵に回してしまった

「百害あって一利なし」三国同盟

第二次ヨーロッパ大戦開戦直後、日本、ドイツ、イタリアの間で三国同盟が結ばれました。

先に結論を言えば、この日独伊三国同盟は、日本にとってまさに「百害あって一利なし」でした。もしこの三国同盟がなければ、おそらく日米開戦も避け得たかもしれません。

ホーリー・スムート法に始まる世界大恐慌にオタワ会議 世界が保護貿易とブロック経済に覆われた今、自給自足が困難な「持たざる国」は、国家存亡の危機に直面していました。そんななか、現れたのがドイツのヒトラーです。ヒトラーは、政権を握るや、第一次世界大戦の賠償金の支払いを放棄し、徹底して社会主義的な経済統制を行うことで、瞬く間にドイツの経済を立て直してしまいました。当然、ドイツ国民は狂喜乱舞し、「ヒトラー万歳」一色になります。

さらに「生活圏」の形成を掲げるヒトラーは、1938年(昭和13年)にオーストリアを併合し、また同年のミュンヘン会議にて、チェコの一部を割取(かっしゅ)することを認めさせます。ついでドイツはポーランドの割譲(かつじょう)も要求しますが、ポーランドが拒否、それを受けてドイツはポーランドに宣戦布告します。

1939年9月1日、ここに第二次世界大戦の口火が切って落とされたのです。

ドイツの強さに仰天した日本

ドイツは強みの電撃戦でポーランドをわずか18日で撃破、オランダ、ベルギー、フランスを6週間で破り、パリを無血占領し、さらに北アフリカではイギリス軍を退けました。破竹の勢いで緒戦を制し、ノモンハン事件で大敗したと信じていた日本は、とてもつもない強さを見せつけたドイツに仰天します。

そして、ドイツと同盟関係を結んでおけば、先行きは安泰だという気運が高まるのです。「バスに乗り遅れるな」という嫌な言葉がはやり、朝日新聞など一部の新聞は、大々的なキャンペーンを繰り広げました。

こうして日本はドイツに急接近し、イタリアが加わって三国同盟が締結されます。

まさに、「持てる国」の囲い込みが、「持たざる国」であるドイツ、日本、イタリアを結びつけてしまったのです。

しかし、この後一年あまりで、ドイツは劣勢に転じます。日本はドイツが開戦直後に見せた強さに驚くあまり、その行く末を見誤ったのです。日本が的確に情勢をつかんでいたとしたらと悔やまれる理由は、ここにあります。

また、当時、世界の石油を握っていたのはユダヤ人財閥でした。そのユダヤ人を迫害するドイツと手を結んだ日本は、ユダヤ人財閥の心証を著しく害してしまいました。このことが、後々、産油国でない日本をどれだけ苦しめることになるか、それはABCD包囲網というかたちで明らかになります。

昭和16年(1941年)ABCD包囲網

石油を絶たれ、日本海軍がついに日米開戦を覚悟する

シナ事変長期化とイギリスの思惑

盧溝橋事件に始まったシナ事変はずるずると拡大し、日本の外交関係も悪くなっていきました。そして、いつの間にかABCD包囲網に囲まれることになります。

これは日本に対する経済制裁とされていましたが、そんなものは建前に過ぎません。

アメリカ(America)、イギリス(Britain)がシナ(China)に協力し、オランダ(Dutch)まで抱き込んだというのが実態でした。これらの国が、日本を「干す」べくいっせいに石油禁輸措置などを行ったのです。

そこにはチャーチルの知られざる思惑があったことも、最近の研究では指摘されています。

第二次世界大戦開戦直後、ドイツは破竹の勢いで勝ち進んでいました。その圧倒的強さに連敗を重ねたイギリスが逆転するには、アメリカを戦争に引きずり込むのが一番でした。しかし、ルーズベルト大統領は「戦争しない」という公約を掲げて当選した人です。ストレートに要請しても拒否されるのは目に見えていました。

そこでチャーチルは、まずは日米間で戦争が起きるよう仕向け、日本と同盟関係にあるドイツとアメリカが戦うことになるよう仕組もうと考えたというのです。

かくして、イギリスとアメリカは日本に対する石油禁輸措置を決定します。そして、困った日本がオランダ領インドネシアに打診すると、今度はオランダをそそのかし、1941年8月、ついに包囲網を完成させました。

”命綱”石油の禁輸がとどめ

ABCD包囲網では、それらの国にある日本資産の凍結、鉄鋼禁輸措置も取られたが、日本が一番痛かったのは、やはり石油でした。石油や鋼鉄がなければ、二十世紀の国家は存続できません。連合艦隊にしても航空隊にしても、日本の軍備は史上最強のものでしたが、それも石油がなければ動きません。

満州では鋼鉄は採れましたが、石油は採れませんでした。日独伊三国同盟によってユダヤ人を敵に回していましたから、日露戦争のときに資金を提供してもらったようにはいきません。

世界に誇る日本軍が無為のまま石油を枯渇させ、一戦も交えずに白旗を揚げるなどということは、考えられませんでした。ここへきて、対米戦争に難色を示していた海軍もいよいよ覚悟を決め、御前会議で正式に戦争準備に入ることが決定しました。同年9月、つまり開戦のわずか3か月前のことでした。それでも、日米交渉で日本が譲歩し、その代わりに石油禁輸が解かれれば、アメリカと戦争をする必要はなくなります。海軍はその点に一縷の望みを抱いていました。

目下の石油貯蓄量は、約半年分。海軍が日米交渉の最終期限を12月半ばに設定した根拠はここにありました。

昭和16年(1941年)ハル・ノート

交渉過程をすべて無視したアメリカの「最後通牒」

これはアメリカの最後通牒である

ABCD包囲網を受けていた日本は、それでもなお、日米交渉に望みを託していました。しかし、昭和16年(1941年)11月26日、これまでの交渉段階を無視するような強硬な案がアメリカから出されます。それがハル・ノートです。その内容の主なものは、

  1. シナ大陸やフランス領インドネシアからの即時無条件撤退
  2. 日独伊三国同盟の死文化(一方的に破棄すること)
  3. 重慶にある国民政府以外のシナ政府の否認

を日本に求めるものでした。

3.については少し説明が必要かもしれません。当時シナ大陸には、複数の政府が乱立しており、日本は親日的な汪兆銘(おうちょうめい)政府を支持していました。蒋介石は対日徹底抗戦を目指して重慶に遷都していましたが、蒋介石等対立した汪兆銘は、1940年(昭和15年)に新南京国民政府を樹立していたのです。日本は、この政府とはすでに講話を成立させていました。

つまり、3.の条件は、南京新国民政府を否定し、英米ソの庇護を受ける反日的な蒋介石政権だけを認めよということにほかなりません。

日本にしてみれば、どれも到底のめる条件ではありませんでした。そして、これを実質アメリカからの宣戦布告と受けとるのです。

現に、インドのパール判事は、「こんなものを突きつけられたら、ルクセンブルグやモナコでも立ち上がるだろう」というアメリカの歴史家の言葉を東京裁判で引用しています。「ハル・ノートは、最後通牒とみなしうる」とする外交専門家も多いのです。

近年明らかにされた、驚愕の真実

開戦の準備は始めるが、石油さえ確保できれば、開戦は避けられる―日本海軍は、最後の望みを野村吉三郎(のむらきちさぶろう)大使に托し、日米交渉の経過を注視していました。

このころ、山本五十六(やまもといそろく)という偉大な提督が、「水から石油がとれる」というペテン師に騙されるという事件がありましたが、どれだけ石油確保が悲願だったかということを如実に物語る逸話といえましょう。

しかし、ハル・ノートをもって、その希望は見事打ち砕かれたのです。

それにしても、なぜアメリカは、手の平を返したように無理な条件を連ねてきたのでしょうか。この点に関しては、近年、驚くべき事実が明らかになりました。なんんと、ソ連のスパイだったハリー・ホワイトなる人物が書いたものだったというのです。日米交渉にあたっていたハル国務長官本人がつくったものは、もっと穏やかな内容だったというのです。ところが、ソ連のスパイが、日本が激昂するよう案をつくり、大統領に採用させ「ハル・ノート」として日本に突きつけたのです。

しかし、そのことを当時の日本人が知る由もありません。

昭和16年(1941年)日米開戦

日本大使館の怠慢と無知が「奇襲攻撃」にした

もはや戦争しか生き残る道はない

まず、人種差別からくるアメリカの日本人敵視政策は、日英同盟を解消させることで日本の防壁を壊し、絶対的排日移民法で日本人をアメリカから締め出しました。日本人の反米感情はここに極まります。

またアメリカとイギリスのブロック経済は、日本経済を危機に追いやりました。日本には近代産業のための資源がなく、貿易で食べています。そこへ貿易が困難となれば、戦争を推進する風潮が高まります。

さらにソ連の軍事的および思想的脅威は、満州の関東軍になみなみならぬ危機感を抱かせました。それが満州事変の一因ともなりました。

そして極めつけは、明治憲法の欠陥です。これが軍部の暴走を許し、政党政治の力を失わせました。

統帥権干犯問題は協調外交を葬り、また、日本の外交は一切信用できないという世界の不信感を招きます。かくして世界の”孤児”となったために、ドイツ、イタリアと同盟を結ぶ羽目になりました。

そこへABCD包囲網が敷かれ、追い打ちをかけるようにハル・ノートが突きつけられます。これで日米交渉は事実上決裂し、命綱の石油は完全に絶たれました。日本が自らの存続をかけた大東亜戦争は、かくして日米開戦という大局面を迎えたのです。

取り返しのつかない日本大使館員の怠慢

かくして日本は真珠湾攻撃を計画しますが、これには「奇襲攻撃」というい汚名が着せられています。

たしかに、真珠湾攻撃は、アメリカが断交通知書を受け取る前に行われました。しかし、これは断じて日本政府が狙ったことではありません。この責めは、ひとえにワシントンの日本大使館員の怠慢にあります。

開戦前日の午前中、外務省は野村大使に向けて「これから重大文書を送るから、万全の準備をしておくように」という予告電報を打ちました。しかし、何を血迷ったか、その夜、日本大使館は一人の当直も置かずに引き上げてしまいます。

翌朝、暗号を解読した大使館員は震え上がります。それはまさしく断交通知書であり、しかも午後一時に手渡せとあります。慌ててタイプし始めますが、慣れないことで一向に捗りません。そこで彼らは、一度決めてもらった約束の時間を延ばしてもらうちう最悪の判断をしてしまいます。

外交官たる者が、断交通知書をなんだと思っていたのでしょうか。重要なのは、手書きでも書きかけでも、とにかく午後一時に断交通知書を届けるということでした。結局、断交通知書が届いたのは真珠湾攻撃の約25分後でした。

ルーズベルト大統領がこのことを最大限に利用したのは言うまでもありません。日本は「騙(だま)し討ちをする卑劣な国」になってしまいました。このような失態を演じた日本人大使館員の罪は、とても大きいと言えるでしょう。

昭和16年(1941年)東南アジア侵攻

「負けると分かっていた無謀な戦い」はウソ

 断じて「無謀な戦争」ではない

真珠湾攻撃に始まる大東亜戦争は、蟻(あり)が象に戦いを挑んだかの如く伝えられています。日本は、アメリカという超大国に無謀な戦いを挑み、何万もの命を無駄にした愚かな国だ―こうした見方がいまだに強いのです。

たしかに、開戦前の戦力総合比較においては、国土の資源の差などから日本は圧倒的に不利に見えます。しかし、日清戦争、日露戦争も、同じ戦力総合比較を見る限り同じです。そして、言うまでもなく、日本はこれらの戦争に大勝しています。

シナ事変が拡大し、ついにアメリカに挑んだ日本の戦いぶりに、世界は最大の関心を寄せていました。

そして1年、2年と戦争が続くにつれて彼らがじわじわと実感したのは、これほどの戦いが繰り広げられるのは、当時の世界では日本とアメリカ以外にないということだったのです。

日本はアメリカと互角、あるいはそれ以上に戦ったということです。この戦争は、侵略戦争でもなければ、けっして無謀な挑戦でもなかったのです。

アメリカ以外は問題にもならない

イギリスやオランダやフランスなど、連合国軍には多くの国が参加していましたが、日本にとっては問題ではありませんでした。それは、東南アジアでの戦闘をみれば一目瞭然です。

12月、グアム島を占領、マレー沖海戦でもイギリス東洋艦隊を撃滅します。つづいてルソン島に上陸、香港を占領し、イギリス軍を降伏させました。翌年1月、アメリカ統治下フィリピンのマニラと、ニューブリテン島ラバウルを占領、2月にはオランダ領アンボン島とシンガポールを占領、イギリス軍は降伏します。3月、オランダ領ジャワと、ビルマのラングーンを占領、米フィリピン軍の司令官、マッカーサーがコレヒドール島から敗走し、4月には、米フィリピン軍が降伏します。そして5月、ソロモン諸島のツラギを占領します。

このように、日本軍は驚くべき強さで連合国の植民地を次々と落としていったのです。

これには、”七つの海を制した”イギリスの艦隊も、まったく歯が立ちませんでした。最新鋭艦プリンス・オブ・ウェールズをはじめ、イギリスの艦隊も飛行部隊も、インド洋のイギリス艦隊もあっという間に日本に倒されました。

イギリスのチャーチルはこのことに驚愕し、「その強さは、大西洋ではかつて体験したことがなかった」、つまり日本海軍はドイツ海軍よりけた外れに強かったと回顧してます。

イギリスにさえ手に負えない日本に、オランダやフランスなどが勝てるべくもありません。日本軍の本当の敵は、アメリカ一国でした。

日本は、結果的に敗戦となりますが、このときの日本軍の様子は、それまで数百年も白人に隷属させられてきたアジア諸国の独立を奮起する要因になったのではないでしょうか。

昭和17年(1942年)ミッドウェー海戦

「油断大敵」の大原則を忘れ、圧勝するはずの戦闘で惨敗

戦闘では絶対禁物、驕りと油断

真珠湾攻撃以降、日本はまさしく破竹の勢いで勝ちまくっておりました。それなのに、最終的には敗戦しています。その分かれ目となった戦闘が、このミッドウェー海戦と言ってもいいでしょう。

今から70年以上前の当時、10隻以上もの航空母艦を持って機動部隊を編成できたのは、アメリカと日本だけでした。ミッドウェー海戦は、その二国がいわば一騎打ちした戦闘です。この戦闘は、普通に考えれば、日本が圧勝するはずでした。戦力比較を見ても、日本の主力空母は四隻、対するアメリカは三隻と日本が優っておりましたし、この直前の珊瑚海海戦では、”妾の子”と言われていた第二級の機動部隊がアメリカの空母を撃沈しています。ならば、いわば”本妻の子”が出動するこの戦闘に負けるはずがない、というわけです。

しかし、日本はこの戦闘で惨敗します。敗因はただひとつ、これまでの連戦連勝から、驕りと油断が日本側に生じていただからでしょう。

ミッドウェーに際して、二本軍は油断しきっていたようです。諜報は筒抜け、相手はこちらの暗号を逐一解読していたのに、こちらは相手の諜報をまったく傍受していない。戦闘の作戦もツメが甘過ぎました。

こうしたなかで、戦闘開始を迎えた日本軍は、第一作成の成功と、作成変更に伴う零戦の活躍で、最初は圧倒的に優勢でした。しかし、援護戦闘機を空母上空に待機させなかったために爆弾を積み込んだ空母の防空体制がガラ空きとなり、そこへアメリカの急降下爆撃機が一気に攻め込みます。空母はすべて炎上沈没、日本は完敗しました。

この戦闘こそ大戦の分水嶺だった

たしかに日本海軍はべらぼうに強かった。軍事大国のイギリスとアメリカ、加えてオランダ、フランスなどの白人諸国、それにソ連が惜しみなく支援していたシナが相手ときて、同盟国のドイツはまったくあてにできないという状態でも、負け知らずだったのです。

日本に勝つ可能性を持っていたのはアメリカだけでした。言ってみれば、ミッドウェー海戦はその可能性を絶つための戦闘でした。

その重要な戦いに、日本は敗れたのです。逆に言えば、日本がここで失敗しなければ、その後の世界はまったく違ったものになっていたかもしれません。もし日本がミッドウェーを制していたら、アメリカ陸軍は西海岸に集結せざるをえません。そうなれば、アメリカはドイツと戦っているイギリスを援護するどころではなくなります。となれば、ドイツがヨーロッパの覇者になっていた可能性もあるのです。

ミッドウェー海戦は、この大戦全体の分水嶺だったとアメリカの有名な著述家も書いているそうです。

ここで、日本の主力空母はもちろん、人的資源も消滅しました。というのも、少数精鋭のベテラン飛行士が、すべて戦死してしまったからです。そして、この敗北を境目に、日本はあっという間に劣勢に転じていくのです。

昭和19年(1944年)神風特攻隊

零戦の神秘が解かれて出現した必死の部隊

零戦の”神秘”を解いたアメリカ

日本海軍が開戦準備に入ったのは、真珠湾攻撃のわずか数カ月前です。何年も前から対米戦争を想起していたのなら話は違ったのでしょうが、それまで海軍は、毎年数十人という規模でしか飛行士養成を行っていませんでした。

その多くがミッドウェーに散ってしまい、日本の航空部隊は危機に陥りました。飛行士を養成しようにも、自動車が普及していない当時、そもそもエンジンに慣れている人間が少なかったのです。

加えて、日本の知らないところで、もうひとつの悲運が起きていました。ミッドウェーと同時期に行われたアリューシャン列島作戦で、アメリカが、零戦をほぼ無傷で手に入れたのです。撃墜されたもので飛行士は戦死していましたが、飛行機はほとんど完璧な姿のまま着陸していたのです。

それまで、日本の零戦は”神がかり的”な活躍をしていました。シナ大陸から、アメリカ製、イギリス製、ソ連製の飛行機をなくしたのも、零戦です。あのミッドウェーにおいても、最初は鬼神の如く活躍して制空権を握りました。ミッドウェーの悲劇は、この後に起こったことです。ほかにも、制空権が勝敗を分けるとも言われたこの戦争で、零戦はいつでも日本軍を有利に導いてきたのです。

その零戦を、アメリカはくまなく研究し、新鋭機器の開発と大量生産に没頭しました。零戦の優位性が失われるのも、時間の問題でした。

かくして現れた”必死”の部隊

その二年後の1944年(昭和19年)2月、トラック島でアメリカの空襲を受けた日本軍は、飛行機270機と艦船47隻を失います。さらに同年10月のフィリピンでの戦闘でも劣勢を強いられます。

このときレイテ湾での戦闘で、神風特攻隊が現れました。飛行機自体を爆弾ととらえ、飛行士もろとも犠牲になる”必死”の部隊です。

それまでにも「決死隊」はありましたが、「必死隊」という考え方はありませんでした。熟練した飛行士がミッドウェー海戦で戦死し、さらに零戦がアメリカに研究されたことで、相対的に日本の戦闘機の性能が劣ってしまったいう状況が、この悲劇の部隊を生んだのでしょう。

神風特攻隊というと、狂信的なイメージを抱かれることもあるようです。しかし、彼らの多くは、非常に穏やかな好青年だったそうです。

日本兵の日記やメモを研究したアメリカの学者は、文面からにじみ出る、哲学者のごとき冷静かつ聡明な彼らの内面に、深く感嘆したと書いています。

また、あまり知られていませんが、特攻攻撃は、空中だけではありませんでした。水中でも、水上でも特攻があり、多くは沖縄で全滅しました。戦艦大和は、水上のそれの代表とも言えます。

昭和20年(1945年)東京大空襲

戦争の大原則を破った英米の無差別民間人殺戮

一夜にして12万人の死傷者。まさに地獄の都市、東京。

ミッドウェーで大敗して以来、戦況は一転して悲壮感を帯びてきます。フィリピンで神風特攻隊が出現する3か月ほど前にはサイパンが陥落し、日本本土がアメリカの爆撃圏となりました。これ以降、アメリカは日本に怒涛のような空襲を浴びせ始めるのです。

東京大空襲は、アメリカ軍が主にB29編隊を使って東京に行った一連の大規模な空襲を指しますが、なかでも被害が大きかったのが、3月10日の江東地区(今の墨田、江東区)への空襲でした。このときの死傷者は12万人以上、罹災者は百万人以上にのぼり、そのほとんどが一般市民でした。この空襲に代表される一連の東京大空襲により、東京の町は焼け野原と化したのです。

アメリカは「絨毯爆撃」―まるで殺虫剤をまくようなやり方―で約60もの日本の都市を爆撃しました。その後、硫黄島が陥落したことで、空襲は東京に限らず、日本の大都市はことごとく破壊しつくされたのです。

ヒトラーですら禁じた市街地攻撃

東京大空襲から原爆に至るすべての空襲の目標が一般市民、それも老人、女、子どもだったことは明らかです。健全な男子はほとんど出征しているのですから、町にどういう人々が残されていたかは明白です。それはアメリカとて同様だったでしょう。このように一般市民を狙う空襲は、当時の常識ではあり得ないことでした。ハーグ条約も民家の爆撃は禁止していました。そもそも、爆弾自体が貴重だったため、軍事施設に狙い定めて爆撃するというのが、もっとも順当な戦略だったのです。

そこへ、世界一の生産力を持つアメリカと、アメリカから惜しみない援助を受けていたイギリスが、空から集中豪雨の如く爆弾を降らせ、町を丸ごと焼き払うというやり方で、民間人を無差別に殺すことを思いついたのです。

ユダヤ人大虐殺にしても、爆撃による一般市民大虐殺にしても、日本人には到底受け入れなれない発想でした。

昭和20年(1945年)原爆投下

日本の講和への意志より、自国の欲求を尊重したアメリカ

日本には講和する意志があったにもかかわらず…

日本軍の敗兆と容赦のない空襲で、日本はまさに満身創痍(まんしんそうい)となりつつありました。そこへとどめとばかりに、原爆が投下されます。

私たち日本人は、戦争への反省は今後も必要です。しかし、『日本には講話の意志があったにもかかわらず、原爆を投下した』という史実を知っておくことも重要でしょう。

1945年7月、日本に降伏を勧めるポツダム宣言が発表されました。受諾すれば降伏、受諾しないなら戦闘続行となります。これは、英米ソの会議でも決議を、アメリカ、イギリス、シナの名前で発表したものでした。(そのころはまだソ連が対日戦に参戦しておらず、名を連ねるわけにはいかなかったのです)

さて、原爆は、このポツダム宣言発表の一か月後に投下されています。アメリカの言い分としては、『これは「戦争終結のために」下された判断だった。ポツダム宣言を受諾するかどうかでもたついている日本は、講話の意志がないと見なされた』となっています。しかしこれは、大義名分で飾られた虚偽の言い分です。

というのも、日本にはそれより以前から講話の意志があり、ソ連やスイスに働きかけるなどして必死にその道を探っていたからです。そして、そのころのアメリカには、日本の行動はすべてお見通しだったはずなのです。

戦争終結のためなら、なぜ2発も原爆を落としたのか

それに、戦争終結のためならば、なぜ、2発も落としたのか。実際、「原爆は戦争を終わらせるためにものだった」と声高に訴える人でも長崎のことを問われると黙り込みます。長崎はタブー視されているのです。これこそ、アメリカの理屈が虚偽である何よりの証拠とも言えます。8月6日、広島の町を地獄絵の如き状態にした原爆は、日本中を震撼させました。仮に日本政府に講話の意志がなかったとしても、講話を受け入れるに十分な恐ろしい状況でした。それなのに、その3日後に今度は長崎(当初の予定では北九州)に落としました。それも、広島の原爆とは違う原料で作られた、より強力な原爆を、です。

これらの事実を踏まえると、アメリカの「戦争終結のため」という説明は到底信じることが出来ません。原爆投下は、民間人を大量殺戮する米英的戦略の最たるものだったばかりか、「原爆の威力を実際に見てみたい」というアメリカの欲求の実現だったのでしょう。しかし、それが裁かれることはありませんでした。

昭和20年(1945年)日ソ中立条約破棄

日本が満身創痍となってから実行された、史上最悪の背徳行為

国際的にも有意義だった日ソ中立条約

日本史上、国民大衆がこれほど一致して切歯扼腕(せっしやくわん)、悲憤慷慨(ひふんこうがい)しているのに、国際社会や、日本でも進歩的文化人と称される人たちに無視された事件も珍しいでしょう。ソ連による日ソ中立条約の一方的侵犯です。

日ソ中立条約は、ソ連も乗り気でした。ノモンハン事件で日本に改めて脅威を感じたソ連は、日本とドイツの結びつき(日独伊三国同盟)に危機感をもったのです。

外相、松岡洋右(まつおかようすけ・1880~1946)は、日独伊にソ連を加えて四か国協商を結ぶという大構想を練りますが、ヨーロッパでの交渉で、ドイツとソ連の関係が修復不可能なほど険悪だということを思い知らされます。こうして、日本とソ連のみで、日ソ中立条約が結ばれました。

これは国際関係上もバランスの取れた、双方にとって有意義な条約でした。日独伊三国同盟に不安を覚えた日本人たちも、日ソ中立条約が加われば安心という印象をもったようです。

ソ連は、日露戦争、ノモンハン事件につぐ悪夢を未然に防ぎたいし、日本としても、石油が禁輸されたときは南方に侵攻しなければならないことを考えれば、北を心配せずにすむという大きな利点がありました。また、第三国と戦争になった際には中立を守るという点も、両国にとって都合がよかったのです。

零戦を開発する前の日本軍は、ソ連が蒋介石に援助した飛行機に苦戦していました。しかし、中立条約があれば、シナとの戦いにソ連が入ってくることはありません。一方、ソ連とて、ドイツとの戦いでも背後を恐れずに済みます。

日本とソ連がこのような条約を結んだのは、まことに喜ばしいことであるはずでした。ソ連がそれを遵守していれば、です。

アメリカの思惑とソ連の裏切り

日ソ中立条約の有効期限は5年、つまり昭和21年(1946年)まででした。しかし、ソ連はその1年前に一方的に破棄します。

これには、アメリカの思惑が関係しています。日米開戦後、アメリカのルーズベルト大統領は、日本陸軍の予想以上の強さに恐れをなしていたのでしょう。日本軍よりも多くの死傷者を出しながら、やっとの思いで硫黄島を占拠したものの、川ひとつない小さな島でさえこれほど苦戦するのなら、日本本土はいかばかりか。なんとしても、ソ連に参戦してもらわねばならないと考えたようです。

そこで、昭和20年(1945年)2月のヤルタ会談で、ソ連に参戦を打診します。この会談には、イギリスも出席していました。

ドイツの敗北が決定的となった今、ソ連にとって日ソ中立条約を意義は失われたも同然でした。二つ返事で承諾するものの、すぐには参戦しません。やはり日本が怖かったのかもしれません。結局、ソ連が日本に攻め込んだのは、同年8月8日、広島への原爆投下で日本が満身創痍になってからのことでした。

この火事場泥棒のような条約違反を、当時の国際社会は黙殺しました。まさに「勝てば官軍」です。

昭和20年(1945年)敗戦

昭和天皇の心づかいが決めた敗戦は、無条件降伏ではなかった

「有条約」が「無条件降伏」になってしまった

満身創痍となった日本は、和平の道を独自に探ることをやめ、ついにポツダム宣言受諾を決意します。敗戦です。

あたかも日本が無条件降伏したかのように伝えられていますが、大きな間違いです。ポツダム宣言受諾こそ、日本が「有条約」のもとで降伏したという、まぎれもない証しだからです。

現に、日本側は、ポツダム宣言に関していろいろと問い合わせをしています。一番の懸念は、天皇はどうなるのか、国民はどうなるのか、という問題でした。

これらの問いに対して、天皇家は存続させるし、ultimateアルティメイト、つまり究極的な政治形態を決める権利は日本人にある、という答えを得られたからこそ、日本はポツダム宣言を受諾したのです。

しかし問題は、実際に占領された後でした。占領軍の最高司令官、マッカーサー元帥が、まるで日本が無条件降伏したかのような占領政策を行ったためにに、「国民の主権」が空虚な大義名分化したのです。

ところ、ポツダム宣言受諾をめぐる紆余曲折(うよきょくせつ)は、もう一つありました。陸軍上層部が、負けているのは海軍であり、陸軍はまだ戦えると主張し、ポツダム宣言受諾に反対したのです。確かに陸軍は、硫黄島や沖縄でアメリカ軍に甚大なダメージを与えていました。しかし、もはや徹底抗戦などとても不可能でした。なにしろ、アメリカ軍上陸を予想して九十九里浜に派兵したものの、迎え撃つための鉄砲も十分にないという状況だったのです。

「五内(ごだい)為ニ裂ク…」故に

それでもなお、本土決戦を主張する陸軍上層部を押しとどめ、ポツダム宣言受諾を最終的に決断したのは、昭和天皇でした。終戦の詔勅で、昭和天皇は次のように述べておられます。

「…敵ハ新ニ残虐ナル武器ヲ使用シテ頻(しきり)ニ無辜(むこ)ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而(しか)モ尚(なお)交戦ヲ継続セムカ終(つい)ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延(ひい)テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ…帝国臣民ニシテ敵陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃(たお)レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内(ごだい)為ニ裂ク…」

敵は新たに残虐な武器を使用し、大勢の無辜の人々を殺傷した。その被害の大きさは計り知れず、このまま戦い続ければ、日本人が、ひいては人文の文明が滅亡してしまう。ただ、祖国のために命を落とした者たち、その遺族、また家を焼かれ、食を失った者たちのことを思うと、我が身を引き裂かれるようだ・・・。

それまで憲法上沈黙を守らざるを得なかった天皇が、ついに発言されました。その決断は、一般市民を狙った残虐な爆撃をする米軍を非難しながら、日本人、そして世界全体を深く思う心情ゆえのことでした。

昭和20年(1945年)GHQの占領政策

日本人の中に自虐的思想を吹き込んだ元凶

戦前の日本より激しい言論統制

戦後の日本人は、ほとんど自虐的とも言えるほど自国の行為を責めてきました。これは謙虚な国民性からくる日本人の自然な反応でしょうか。断じてそうではありません。この自虐は自発的なものではなく、仕組まれたものだからです。その仕掛け人は、ほかでもないGHQです。

1945年8月末、度重なる空襲と二発の原爆で丸焼けとなった日本に、進駐軍がやってきました。マッカーサー率いる連合軍総司令部、すなわちGHQです。

まず、GHQは出版物や新聞に対して激しい検閲を行いました。それは、戦前の日本とは比べ物にならないほど厳しいものでした。

戦前は、○○、✕✕などと伏せ字にされる程度でしたが、GHQの検閲は、どこに手を加えたかわからないようにすべて刷り直させるというものでした。当時は紙が貴重だったため、これは大損害になります。それが怖くて、新聞社や出版社はGHQの気に入るように、”自主規制”を行いました。そうして過剰適応が習性となり、今日まで脈々と続いています。

また、「戦争協力者を公職から排除する」の名目で26万6,000人以上もの人々の職を奪った公職追放令は、メディア以外の口も封じました。

心機一転、一所懸命に働いて祖国復興を目指そうというときに、職場から追放されてはかないません。こうして、真実を知る多くの人々が口をつぐんでしまったのです。

日本の国力を骨抜きにする諸政策

経済的、精神的とともに、日本人を骨抜きにする政策もありました。経済的には、財閥解体と農地開放が大きな影響を与えました。言うまでもなく、これらは私有財産を排除する社会主義的政策です。GHQは、戦前から日本にあった社会主義思想に拍車をかけたのです。

また、精神的には、極限まで神社を抑えつける神道指令が下されました。神社は、長い歴史の中で日本人の根本をかたちづくってきたものです。いわば日本人の心の拠り所です。それに、神道ほど寛容な宗教は世界でも例がないでしょう。神仏混淆(こんこう)は、八百万(やおよろず)の神に対する信仰と、仏に対する信仰を融合させたものです。戦前にフランス人神父が創立し、しかも靖国神社にほど近い場所にあるキリスト教系の白百合学園や曉星(ぎょうせい)学園は、神社の寛容性を顕著にあらわしていると言えましょう。このように、異宗教の神を認め、また融合させるなど、宗教戦争を繰り返しているヨーロッパでは考えられないことです。それなのに、GHQは神社を「侵略を目論んだ日本」の象徴とし、日本人の心から抹消しようとしたのです。これは、イスラエルからユダヤ教を、あるいはアメリカから独立宣言を奪おうとしたに等しい蛮行とも言えます。

昭和21年(1946年)東京裁判

裁判長も説明できなかった その国際法上の根拠

裁判とは言えないインチキ法定

裁判で有罪となり死刑になるのは極悪人。だから東京裁判で死刑になった日本の指導者は極悪人で、日本の国も悪い国。

戦後、何も知らない国民、特に子どもの中にこんな気分が蔓延しました。まことにもって忌々しき洗脳です。そもそも東京裁判の法的根拠は、どこの国の法律、ましてや国際法に照らしても皆無なのです。日本弁護団の清瀬一郎博士が裁判冒頭で裁判の管轄権法的根拠(ジュリデクション)を問いましたが、裁判長は「後日説明する」と述べたきり、最後まで答えを示しませんでした。

唯一考えられるのは「極東軍事裁判所条例」という一片の文書ですが、その実体は、東京裁判を行うためにマッカーサーがつくった単なる「占領命令」です。こうして始まった東京裁判は、甚だ不公平極まりないものでした。まず、英米をはじめ、シナ、ソ連、インド、カナダなど、判事と検察官が連合国とその植民地の国で占められ、中立国はゼロでした。

採用された資料のほとんどは連合国側のもので、日本側が出した、通州事件目撃者の口述書や、満州国建国の正当性を示すジョンストン著『紫禁城の黄昏』などの資料は、にべもなく却下されました。日本側の言い分は、「自己弁護」として黙殺されたのです。

黙殺された日本無罪論

要するに東京裁判には、真実を探るという目的など最初からなかったのです。真の目的は、日本を徹底的に貶(おとし)めること、そのために連合国が取った手段は数え切れません。

まず「日独ファシズム」なる実体のない概念を振りかざして、日本を裁きました。南京大虐殺なる事件をでっち上げました。いくら調べても日本人の残虐性を証明できずに焦っていた連合国は、ナチスのユダヤ人大虐殺に値する虐殺事件を欲していました。

盧溝橋事件の審議が中止されました。調べていくうちに、日本人が起こしたものではないということが明らかになったからです。

ただ、そんな中にも、何人か、日本の無罪を主張した人物もいました。インドのパール判事と、アメリカのブレークにー弁護士などです。しかし、彼らの弁論の同時通訳は直ちに切られ、日本の新聞に載ることもありませんでした。

結局、この裁判のメインテーマだった「侵略戦争の共同謀議」は証明されませんでした。そのような事実がないのだから当たり前ではありますが、しかし判決では25人がA級戦犯とされ、うち東条英機(とうじょうひでき)ら7人が死刑となりました。

この判決は各国に飛び火し、多くの日本人がB級、C級戦犯として処刑されました。その多くが、飢えた捕虜に分けたゴボウを「木の根」と誤解されたなどの悲運でした。

このような悪辣(あくらつ)な裁判で生み出された歴史感は、いまだに日本人の中に根強く巣食っています。

昭和21年(1946年)日本国憲法制定

「国民の主権」という嘘と、GHQの国際法違反

明治憲法が全否定された理由

現在の日本国憲法は、過去、何度も改正が検討されましたが、その都度、護憲派の激しい反発もあり、先送りにされてきました。改正を急ぐかどうかは個々の価値観や判断によるところでしょう。

しかし、客観的な史実で判断すると、日本国憲法は、多くの欺瞞(ぎまん)や矛盾点を抱えた作品であることも事実です。

日本は、明治憲法のもと、輝かしい近代を築き上げました。また、その憲法下で大正デモクラシーを発展させ、軍縮も実行しています。それら史実は、当時のアメリカにとっては都合の悪い問題に過ぎませんでした。つまり、アメリカとしては「ファシズム 対 民主主義」と名付けたこの戦争で叩き潰した敵国に、戦前から民主主義が存在したとあっては、なんとも具合が悪かったのです。なんとしても、自分たちが統治して初めて日本に民主主義が根付いたかのような筋書きにする必要があったのです。

そういうわけで、伊藤博文たちの努力の決勝である明治憲法は、歴史の彼方に葬り去り、それに変わる米国製日本国憲法を制定したのです。

「国民の主権」の嘘と国際法違反

こうして制定された日本国憲法の前文には、「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」と記されていますが、これは真っ赤な嘘です。

占領下の日本は、むしろ激しい言論統制を受けており、当然、憲法について自由に発言することも許されていませんでした。加えて、外国に大使館すらおけなかった日本は、事実上、主権を奪われていたのです。

そのような国が、国家主権の発現である憲法を自らの手で制定できるはずがありません。では、誰が作ったのかというと、マッカーサーです。形式的には国会で可決されたものになっていますが、実際は、日本国憲法も占領法規の一種であり、GHQが草案を作成して公布したものに過ぎません。

要するに、アメリカは「植民地化」した日本を巧妙に統治できるように作り上げたのが、現在の日本国憲法です。

そしてこの行為は、明らかに国際法に違反しています。というのも、近代戦時国際法の基本を定めた「ハーグ陸戦規定」に、「勝者が敗者の主権を無視して恒久的な立法を行ってはならない」と明確に定められているからです。

Constitution(憲法)には、「体質」という意味もあります。すなわち憲法とは、「国家の体質」である国体を定める重要な基本法であり、だからこそ、ハーグ陸戦規定のような定めがあるのです。

このような国際法の定めに公然に違反したのが、現在の日本国憲法制定だったのです。これでは、とても一主権国家の憲法と言うことは出来ません。

ただし、令和の時代となった今、これを理由に憲法改正を急ぐ声は、少しトーンダウンしてきたかもしれません。さすがに、『平和憲法』などといった、ややお目出度い思い込みは若い人には浸透していません。

しかし同時に、「GHQに押し付けられた憲法だから即刻改正すべきだ」とする過去への恨み節も冷めてきています。

これからは、『史実や現実に根ざした日本人の 日本人による 日本人のための憲法』を時間をかけてでも作ればいいし、憲法に普遍性を求める気持ちもなく、必要ならば憲法の一部改正ぐらいサッサとやればいいといった、令和志向のような雰囲気が出てきたのではないしょうか。

昭和22年(1947年)GATT設立

これでブロック経済は二度と発生しない

日本を戦争に追い込んだ原因の消滅

大東亜戦争を総括すると、日本が戦争に突入せざるを得なかった原因は大きく4つに分けられるようです。

すなわち、アメリカの排日政策、英日のブロック経済、ソ連の軍事的及び思想的脅威、そして明治憲法の欠陥ということになりますが、戦後の世界の流れを追っていくと、これらの原因がひとつ、またひとつと消滅していきます。

その先陣を切ったのがGATTです。1947年に設立された「GATT(General Agreement on Tariffs and Trade)=関税・貿易に関する一般協定」は、「貿易によって各国の生活水準を高め、完全雇用を実現し、世界の資源をできるだけ活用する」と掲げています。そして、その実現のために「関税その他の貿易障壁を取り除き、差別待遇を廃止して、自由で平等な国際貿易を促進する」ことを目的としています。要するに、加盟国間の公平な貿易を実現するために、輸入制限や関税障壁を取り除くということです。

このGATT設立によってブロック経済は瓦解し、また今後生じる可能性もなくなりました。

GATTはアメリカほか、23カ国がジュネーブで調印し、1995年(平成7年)の発展改組(WTO=世界貿易機関)を経た今では、100以上もの国が加盟してます。

また、これに先駆けた1944年には、アメリカの呼びかけで国際通貨基金(IMF)と世界復興開発銀行(通称・世銀)が設立されています。いずれも世界金融の公平かつ円滑な運営が目的であり、アメリカがホーリー・スムート法制定の非を暗に認めたということを示す証拠にもなるでしょう。

これらに象徴されるGATT体制は、自由主義経済の反映をもたらし、社会主義圏を圧倒しました。ソ連の思想的脅威という要因も、ここで半ば消滅したのです。

貿易摩擦は戦争の要因にならない

もはや、貿易上の問題が戦争が起こることはあり得ません。その後、日本の高度経済成長などによって日米間では貿易摩擦が何度も生じましたが、その対立は、日米開戦のころに比べれば非常に小さいものです。

大東亜戦争前夜、貿易によって生まれた国と国との軋轢と、そもそも貿易があって初めて生じる貿易摩擦のそれとは、まるで別次元なのです。

昭和25年(1950年)アジア諸国の独立運動

かつての列国植民地が、日本に勇気づけられて立ち上がる

アジアのアパルトヘイトの消滅

戦前の欧米世界には、人種差別思想が蔓延していました。彼らにとって有色人種国の植民地として所有する対象でしかなく、しかもそれが人類の進化の自然な流れであるとまで考えられていたのです。

日本を戦争に駆り立てた一因であるアメリカの排日政策は、そうした人種差別思想と、日本に対する嫉妬や恐れがあいまって生まれたものだったのでしょう。しかし、その人種差別の思想も実態も、いまや消えつつあります。

第一に、1945年(昭和20年)に設立された国際連合(国連)の国連憲章には、人種差別の撤廃が高々と掲げられています。個々のレベルはともかく、国際的な規範として人種差別が禁じられたのです。第一次世界大戦後、パリ講和会議で、日本が世界に先駆けて提出し、そして否決された案が、四半世紀あまり経てようやく実現されたのです。しかし、それにも増して人種差別の撲滅に貢献したには、被差別国の当事者でした。

彼らは、戦後再び軍隊を送り込んだ白人諸国に激しく抵抗し、最植民地化を断念させたのです。インドネシアはオランダを追い払い、ベトナムはフランスを完全に締め出しました。中国からは租界が消えました。

いまや、アジアのアパルトヘイト化は完全に封じらたと言えましょう。

日本に勇気づけられたアジア諸国

これまで欧米の奴隷に甘んじてきた彼らが、突如として立ち上がったのは、まさしく日本の活躍によるものです。思えば、日本がそれまでしてきた戦争は、アジアのアパルトヘイト化に対する防御や反抗でもありました。

古くは日清戦争、日露戦争までさかのぼり、大東亜戦争でも、当初の戦闘では無敵な強さで有色人種が白人を圧倒するという、”逆転の構造”を現地の人々にみせたのです。

こうした日本の勝ち戦を見たことが、東南アジアの国々に勇気を与え、白人に対する劣等感を吹き飛ばしたのでしょう。

一度「白人は怖い」という悪夢から目覚めた彼らは、一転して強くなりました。あるイギリス人はこんなことを書いています。「かつてのマレー人は…何を命じても”イエス・マスター”と言っていた。ところが、わずか3年半ぐらい日本人といただけで…いまや何も言うことを聞かなくなった」

ただ、フィリピンだけは、最後に日本の負け戦を見てしまいました。そのため、キリスト教徒が多く、英語も普及しているなど経済発展の要素があるのに、それが思うように進みませんでした。それは、日本の負ける姿を見たフィリピン人には、日本から学ぼうという発想がなかなか生まれなかったからだとも言われています。

こうして、国家による人種差別は名実ともに消滅し、アジアは欧米に対抗しうる力を持ちはじめました。日本の高度経済成長とともにその勢いは増し、ついにはソ連崩壊の一端を担うことにもなるのです。

昭和25年(1950年)高度経済成長

戦後日本を再建したのは進歩的文化人ではない

とにかく日本を再建せねば

いわゆる進歩的文化人は、敗戦日本を三流国、四流国と嘲笑してきましたが、そういう人たちからは日本の国を本気で再建しようという気概は生まれてこず、侮日・反日的な考えに縛られ、国家への不信感が強く、体制批判ばかりを繰り返してきました。

確かに日本は、アジアの小さな島国に過ぎません。しかも国土の大半が空襲で焼かれ、人類の最終兵器である原爆を二度も落とされました。

その日本が、驚異的な経済成長を遂げ、戦後わずか半世紀のうちに一人あたりのGNPでアメリカを追い越すほどになれた要因は二つあります。

一つは、戦後に激化した、ソ連や中国の勢いによる共産主義化に動きに驚いたアメリカが、日本に対する占領方針を転換したことです。当初、マッカーサー率いるGHQは、日本という国を徹底して弱退化させることを目指していました。ところが、ソ連や中国からの赤化の波が朝鮮半島を越えいずれ太平洋の対岸のアメリカに押し寄せてきそうな勢いに危機感を抱き、その防波堤として日本を防備の要地としようと考えたのです。具体的には、かつてないほどの資金提供をし、日本の国土強靭化を支援しました。

もう一つは、やはり、日本を再建しようという実務家たちと、必死に働き苦境を脱しようといういう大衆の努力によるものでしょう。

進歩的と言われた左翼の文化人たちは、アメリカの反共産主義の動きに対して徹底して反発し、反米運動を支援しました。しかし、その後訪れた高度経済成長の果実である豊かな生活に甘んじておきながら、身に染み付いてしまった、反米、親中、反体制、反政府などの価値観からは今なお脱却出来ずにいるのかもしれません。昭和から平成、そして令和の現在に至ってもなお、伝統ある日本に対する自虐史観を改めることが出来ないのは、戦前、戦中、そして戦後の目まぐるしい状況の変化に翻弄された結果なのかもしれません。

アメリカを訪問した実務家たちは、デトロイトの巨大産業を見て愕然とします。しかし、そこで暗澹とした思いは抱きませんでした。むしろ彼らは、日本の産業を発展を目指し、以降、いずれは米国を追い抜いてやろうと必死の努力を積み重ねてたのです。また、彼らには共通して「戦争に負けて悔しい」という思いが根底にあったはずです。

日本が負けた最大の技術的要因は、レーダーや電子機器技術と工作機械技術です。あの神秘的な飛行機、零戦を作った工作機器もすべて外国製でした。最初に取り掛かるべき分野は、明白だったのです。

こうして高度経済成長期に入った日本は、やがてオイルショックをも味方につけて世界随一のハイテク大国に成長していきます。

オイルショックがむしろ起爆剤に

第二次世界大戦は、後世に新たな戦争の火種を残しました。すなわちイスラエルと中東諸国の中東戦争ですが、第四次中東戦争の際に原油価格が七倍近くにまで跳(は)ね上がり、オイルショックが起きます。

もはや言うまでもなく、石油問題は日本にとって死活問題です。非産油国であり、また、中東に武器を売って石油を確保することもできない日本は、省エネ路線を強いられました。これまで順調に経済成長を続けてきましたが、もはやこれまで思われました。

ところが、日本はこのオイルショックをなんとか乗り切るばかりか、それを起爆剤としてさらなる成功を手にするのです。

そのころ、それまで日本の企業が挑んできたハイテク開発が成功し始め、半導体技術は世界のトップに立とうとしていました。その高度なエレクトロニクス技術が製造過程の低資源、低燃費化を実現し、「省エネ買う命」をもたらしたのです。

その象徴とも言える産業用高級ロボットのシェアは、世界シェアの7~8割を占めるようになりました。日本人は、厳しい自由競争の場でこそ底力を発揮する国民性なのです。

明治維新では、40年足らずでナポレオンを退けたロシアに勝ちました。高度経済成長は、その第二の証明となったのです。

昭和25年(1950年)朝鮮戦争

米ソ冷戦の発火点だけでない日本の重大事件

冷戦がついに”熱い戦争”に

第二次世界大戦以降、米ソの間で続いていた核開発合戦に象徴される冷戦が、朝鮮半島を舞台に突如として熱い戦争になったのが朝鮮戦争です。

しかしもう一つ、日本にとって重大な意味があったことが見落とされがちです。

冷たい戦争が急に熱気を帯びた原因は、当時のアメリカの国務長官、アチソンの発言にありました。1950年1月12日、アチソン国務長官は、ワシントンのナショナル・プレスクラブで行った講演で、「アメリカの西太平洋における防衛戦は、アリューシャン列島から日本列島、沖縄に至る線である。」と言い放ったのです。朝鮮半島は、第二次世界大戦後、ソ連が支援する北朝鮮と、アメリカが支援する韓国との二つに分断されていました。ところがアチソンの発言は、韓国はアメリカの防衛圏内ではないと表明したも同然でした。

これを聞いたスターリンは、俄然、色めき立ったことでしょう。「敗戦国日本は朝鮮半島からいなくなった。加えてアメリカまで韓国を捨てたのだから、これは日露戦争依頼の大チャンスである」として北朝鮮の金日成(きむいるそん)に南進のゴーサインを出したとされています。

そして同年6月25日未明、北朝鮮は韓国との国境である三十八度線を越え、韓国に進軍します。慌てたのはアメリカです。共産軍の侵攻を放置すれば、朝鮮半島が取られ、そうなれば日本が危うくなるからです。こうしてアメリカも韓国に出兵、朝鮮戦争開戦となりました。

満州をおさえなければ負ける!

ソ連および中国の援助を受けていた北朝鮮軍は、圧倒的な勢いを示しました。この結果、アメリカ軍は半島南端の釜山(ぷさん)まで追い詰められ、朝鮮半島のほとんどが共産軍に支配されました。

しかし、それでもアメリカは仁川(じんせん)上陸作戦を結構してソウルを奪還、劣勢をはね返し、半島の付け根の鴨緑江(おうりょうこう)まで共産軍を追い返しました。この作戦を成功させたのは、マッカーサーです。

ところが、朝鮮戦争は終わりませんでした。共産軍勢力は依然として旧満州(中国東北部)にあり、彼らはソ連や中国内陸部からいくらでも兵器を補充できたからです。

そこでマッカーサーは、トルーマン大統領に「かつても満州を空襲して、敵の本拠地を完全に粉砕せねばならない。また東シナ海の港湾を封鎖せねばならない」と進言しました。しかし、ソ連との原爆戦争に発展することを恐れたトルーマン大統領はこの案をしりぞけ、マッカーサーを解任します。結局、アメリカ軍は反撃に出た共産軍に再び押し戻され、もとの三十八度線で休戦となりました。

そして、この経験は、マッカーサーに「明治以降の日本の戦争は、侵略などではなく、祖国の防衛戦争であった」という重大な真実に気づかたのです。

昭和26年(1951年)マッカーサー証言

「大東亜戦争は祖国防衛戦争」と、東京裁判の”ご本尊”が認める

日本の戦争は祖国防衛戦争だった

朝鮮戦争は、アメリカがもたらした特需が日本の経済復興の大きなきっかけになったという側面でしか語られてきませんでした。しかし、さらに重大な出来ごとが進行していたのです。

朝鮮戦争を通じて、マッカーサーは日本が戦争をせざるを得なかった理由をようやく理解しました。それは、韓国で実際に共産軍と対峙(たいじ)することで、明治維新以来、ずっとソ連の脅威を感じてきた日本と同じ立場に身を置いたからでしょう。

北から強大な勢力が朝鮮半島に下りてきたとき、日本を守ろうと思えば朝鮮半島を守らなければなりません。そして、もし朝鮮半島から敵の勢力を完全に追い払おうと思えば、満州に出ていくしかないのです。こう気づいたマッカーサーには、日本にとって朝鮮半島がいかに重要な土地であるかが痛いほど分かったのでしょう。

そして1951年5月、アメリカ上院の軍事外交委員会で、マッカーサーは「この前の戦争に日本が突入したのは、主として自衛のためだった」という趣旨の演説を行います。東京裁判の”ご本尊”が、そう認めたのです。

マッカーサー証言・抜粋

マッカーサー証言の重要部分を抜粋してみます。

「日本は八千万に近い膨大(ぼうだい)な人口を抱え、それが四つの島の中にひしめいているのだということを理解していただかなくてはなりません。その半分近くが農業人口で、あとの半分が工業生産に従事していました。
潜在的に、日本の擁(よう)する労働力は量的にも質的にも、私がこれまで接したいずれにも劣らぬ優秀なものです。歴史上のどの時点においてか、日本の労働者は、人間は怠けているときより、生産しているときの方がより幸福なのだということ、つまり労働の尊厳と呼んでもよいようなものを発見していたのです。
これほど巨大な労働能力をもっているということは、彼らには何か働くための材料が必要だということを意味します。彼らは工場を建設し、労働力を有していました。しかし彼らは手を加えるべき原料を得ることができませんでした。
日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何も無いのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、錫(すず)が無い、ゴムが無い。…そしてこれらの原料を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。したがって、彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。」
(出典:『東京裁判 日本の弁明』「却下未提出弁護側資料」抜粋 小堀桂一郎編 講談社学術文庫)

なぜか日本のマスコミは、当時も今も、日本にとってこれほど重大なマッカーサー証言を報じることがありません。
別に世界に発信してまで日本の正当性を主張しなくてもいいのです。私たち日本人がこの事実を共有するだけで、世界中のすべての国がそうであるように、先人や祖国への素直な愛を持つことが出来るのに…。

昭和26年(1951年)サンフランシスコ平和条約

東京裁判への密かな反省が日本への賠償を放棄させた

「日本性悪説」が吹き飛ぶ

マッカーサー証言によって、アメリカは「自分たちが朝鮮半島でやっていることは、日本が日清・日露の両戦役でやったことと同じではないか」と文字通り身をもって気づきました。それまで彼らの根底をなしていた「日本性悪説」は急速にしぼんでいったのです。

日本が、東京裁判でしきりに「満州は共産主義とソ連を押し止める砦」と主張していたことを再認識したはずです。それに、戦争終結直後のことを思い返しても、日本の兵士はゲリラ戦一つせず、粛々と武装解除をしています。

これは、日本が南京を攻略した際、いさぎよく南京をオープンシティにせずにゲリラ戦を命じ、そのために民間人の犠牲を生んだ蒋介石に比べれば、雲泥の差です。「便衣隊(べんいたい)」とも呼ばれるゲリラは民間人に化けた兵士であるため、ゲリラ線で民間人の被害が出てしまうのはいかんともしがたいのです。

とにかく、日本に対するイメージは一変したようです。そして、それまで遅々として進まなかったサンフランシスコ平和条約が締結されるに至ったのです。

マッカーサーがことの本質に気づいたのは、東京裁判の1年半後のことです。

昭和26年(1951年)日米安全保障条約

平和のために無力な「平和憲法」に代わって平和を支えた黒子

”平和憲法”に関する大きな誤解

戦後の平和は、あの輝かしい平和憲法のおかげだと、戦後教育は教えてきました。マスコミしかりです。

しかし昨今では、インターネットの発達・普及もあって、これが子どもじみた思い込みであったこと、そして現実や史実に根ざした恒久平和への備えが必要であることにも、認識されつつあります。令和の時代となり、GHQと共産思想の影響が薄い若い世代への代替わりしてきたことも、大きな要因と思われます。

戦後日本の平和が保たれたのは、憲法のおかげではなく、日米安全保障条約があったからでしょう。日米安全保障条約、通称・日米安保は、サンフランシスコ平和条約に基づき、非武装国である日本の防衛を保証するという目的の下、1950年に締結されました。

その後、1960年(昭和35年)に改定されますが、この”60年安保”は、学生運動による激しい抗議行動に象徴される『安保闘争』を引き起こしました。議会内の少数党の反対派を押し切って岸信介(きしのぶすけ・1896~1987)内閣が強行採決したことに学生の活動家が反応し、デモ隊が連日国会議事堂を取り囲むという大騒動にまで発展したのです。与党内でも批判的な意見が出始めるなか、新安保条約は批准されまさひたが、岸信介内閣はその直後に総辞職します。

こうした激しい反発の中で結ばれた日米安保ですが、これが戦後日本にとって一番安全な戦略だったといことは疑いようがありません。

アメリカは国力のある民主国家で、大統領も二期8年以上は続けられません。つまり、全体主義的な政権ができて侵略国家になるとは考えにくいのです。このような国と同盟関係を結んでおけば、日本の将来は安泰と考えられたのは当然でした。

二国間同盟の有意義性を見出す

かつてワシントン会議で日英同盟が解消せしめられ、代わりに多国間同盟が結ばれたことがありましたが、これは多国間条約がいかに平和に貢献せず、国際的に不安定なものであるかを証明しました。何かことが起きても、多国間同盟では互いの利益がぶつかり、調整が非常に難しいのです。

その点、二国間の軍事同盟は、互いの利害関係の調整もしやすく、周辺国の安定にも役立ちます。そういう意味で、1997年(平成9年)に合意をみた日米新防衛協力指針(新ガイドライン)も、有意義です。日米新防衛協力指針では、「日本周辺有事」、つまり日本近郊で何かことが起きた場合における日米の協力関係が前面に出されました。中国や北朝鮮に対しても、日米の協力関係がさらに強固なものとなったのです。

これに対し、「周辺国を刺激する」として異を唱えるマスコミ報道も少なくありません。しかし、尖閣諸島のみならず、沖縄も日本の領土とは認めないとする隣国が現存する以上、日米安保こそ、日本の生命線だったのです。

昭和40年(1965)日韓基本条約 昭和53年(1978年)日中平和友好条約

条約は過去を清算するもの、過去を謝罪するものではない

やっと解けた”謝罪外交”の緊縛(きんばく)

戦後の精算として、日韓・日中に結ばれた条約は、その実、少しも精算になってきませんでした。

敗戦後、アジアに対する日本外交の基本は、徹頭徹尾(てっとうてつび)「謝罪」でした。しかし、戦後四半世紀を経て、ようやくその緊縛から解放される機会が訪れたのが、この日韓基本条約と日中平和友好条約でした。

日韓では、日本が総額8億ドル以上の経済援助を提供する代わりに、韓国側はいっさいの対日請求権を放棄することが約束されました。

日中間では、1972年(昭和47年)、田中角栄首相と周恩来首相の間で交わされた日中共同宣言で国交正常化が宣言され、また中国は戦争賠償の請求を放棄することを明言しました。その6年後に結ばれたこの日中平和友好条約では、日中両国関係の発展の指針や国際交流などが盛り込まれました。これらの条約で、個々人の歴史観はさておき、少なくとも国家間においては日本も中国も韓国も、過去のことを持ち出さないということが約束されたはずでした。

賠償請求の放棄が約束されたということもありますが、そもそも外交とは将来のことを話し合う場であり、当然、両国の友好関係なくしては成り立たないからです。つまり、過去において一方の国がもう一方の国を絶対に許せないと考えていたら、外交は不可能なのです。戦後の日米外交関係がサンフランシスコ平和条約に始まるというのも、そういう意味です。

示談成立後に詫びる国の代表者

平和条約とは示談のようなものです。交通事故でも示談が成立すればその時点で一件落着、被害者がそれ以上の慰謝料を求めることは出来ません。これは国家間でも同様のルールです。

ところが、中韓両国はその後も日本に謝罪を求め続け、日本政府もまたこれに応え続けました。日韓、日中の外交は、まず日本が過去について詫びることから始められました。

要するに、中国や韓国に対して長いこと罪を意識を持ち続けてきたために、そこにつけ込んでいまだに謝罪を求めるという両国のルール無視の横暴に強く出られないのです。しかし、これは国際常識を覆し、また日本から尊厳を奪う行為でもあります。

1994年(平成6年)、村山富市首相と土井たか子衆議院議長が、謝罪外交のために東南アジアを訪問した際にも、マレーシアのマハティール首相は、「日本が50年も前に起きた戦争を謝り続けることは理解できない」という主旨の発言をしています。それにも関わらず、平成の時代、わが国の政治家や議員それにマスコミといった国の代表者は、今から見れば情けないほど、先を争うようにして謝罪を繰り返し、『自分だけは理解があるいい人』であるかのように振る舞ってきました。

令和の時代となり、その膿が噴出していることは昨今の報道のとおりです。こうした、自国の利益よりも、自分の顔を優先させてきたインテリジェンスの低い方々(それを選び、支持した国民)には、猛省を促したいところです。

昭和56年(1981年)教科書問題

謝罪を求めてもいない韓国・中国を反日へと煽(あお)ったのは 他ならぬ日本人

寝た子を起こした教科書問題

長く続いてきた韓国・中国への謝罪外交を見て、戦後すぐ韓国や中国がそれを求めてきたように思われるかもしれません。しかし、事実はそうではなく、むしろ日本の側に「寝た子を起こす」事件がありました。そのひとつが教科書問題です。

1981年、自民党の教科書制度改革案に危機感を抱いた左翼たちは、「日本が再び軍国化する」などという呆れたプロパガンダで政治問題化し、さらにはご丁寧にも韓国や中国にご注進までしてしまいました。

折しも韓国との経済協力交渉が進んでいましたが、これに反応した韓国は交渉を中断、内政問題である教科書問題が、外交問題として利用されるようになったのです。そこへきて翌年6月22日、日本の大新聞がいっせいに驚くべきことを報じました。日本の教科書検定で、中国華北への「侵略」が「進出」に書き換えられたというのです。結果から言えば、これは誤報でした。中国も一度は抗議声明を出したものの、誤報と知って取り下げました。

ところが、何を血迷ったか宮沢喜一官房長官が、「近隣の諸国民の感情を考慮にいれた教科書にする」という主旨の発言をし、まったく悪質な「近隣諸国条項」なる条項が教科書検定に設けられました。宮沢氏は、ことの重大さを理解していたのでしょうか。このことは、100%日本国内の問題である教科書について、韓国や中国の検閲権を国として認めたようなものなのです。

日本政府の哀れなまでの謝罪外交が始まったのは、この第一次教科書問題が生じたあとからです。

反日的思想をもった日本人が反日教科書を煽る

一国の歴書教科書に他国が口を挟む-世界中の誰が考えても日本国内の問題であることが明白なわけですから、日本政府は毅然とした態度を取るべきでした。教科書を出版する会社にしても、他国の圧力に萎縮する必要などないのです。

しかし、教科書問題にはさらに根の深い問題が潜んでいます。自虐的に過去の日本を完全に悪と決めつける”反日的日本人”、つまり左翼思想の持ち主たちが教科書問題を煽っており、さらに、そうした層が教科書の肝心な部分を握っているのです。

自ら中学社会科教師である長谷川潤氏の指摘によると、教科書というものは、検定にとおった時点でゴールではなく、実際に学校で採用されるかどうかが問題だそうdす。使ってくれなければ、教科書会社は干上がってしまうからです。

その教科書の採択権を持つのが、学校の先生たちです。そして彼らのほとんどが、日教組や全教(全国教員組合)に入っており、新任以来、左翼的歴史観を刷り込まれています。

つまり、「売れる」教科書をつくるためには、彼らの気に入るような内容でなければならないのえす。驚くべきことに、反日的団体から「教科書作成ガイドライン」のような文書も出回っているという指摘もあります。

昭和60年(1985年)靖国参拝問題

他国の宗教問題への不介入は国際間の原則

内政干渉以上に許されない宗教への介入

他国が日本の首相に対して、靖国神社に参拝することを許すとか、あるいは許されないとか干渉することの方が、国際ルール違反といえましょう。なぜなら、これは国際的には宗教問題だからです。

宗教問題に介入しないという原則は、1648年のウェストファリア条約で決められました。日本において、この原則が破られたのは、占領軍の神道指令からです。神道が日本国を戦争に駆り立てたというのです。そして現在、韓国・中国が日本国首相の靖国参拝を公然と批判しています。

内政干渉は国家間で禁じられていることですが、国境を越えたグローバル経済がある以上、通貨の問題や関税の問題など、多少の相互干渉はあり得ます。しかし、宗教への干渉は厳に慎まれなければならないのです。

日本の正当性を主張するには、断固介入を拒否すべきでは

靖国問題に関しては、「これは宗教問題です」と毅然とした姿勢は示せないものでしょうか。中国や韓国にウェストファリア条約に則ってほしいと要求するのです。

しかし、まずは、当の日本人にこの条約の存在を周知させる必要もあります。なぜなら日本には、中国・韓国あるいは自国の経済界の利害を慮って、政府の要職にある人は靖国参拝を中止せざるを得ない状況にあるからです。この根底には、日本の偏光したマスコミ報道があることは明らかですが、これに多くの日本人が煽られ、中国・韓国も煽られ、出口が見えない状況になっています。

いずれにしても、中国・韓国の要求には断固拒否すべきであって、そこに妥協の余地があってはならないでしょう。これは、日本の問題だけではなく、世界中の宗教や文化に対する冒涜にもつながる問題だからです。

昭和60年(1985年)バブル経済

バブルに浮かれても、悪くなったものは何もない

バブルで困った日本人はいない

バブル経済といえば必ずと言っていいほど、浮かれてとか踊らされてという表現が続きます。未曾有の好況は、ほどなく崩壊して長い不況が訪れたためか、儲けて私有財産を蓄えることを悪とする社会主義的思想のためか、とかく悪く言われているようですが、これは大きな間違いかもしれません。

たしかに、バブル経済には経済の実態を反映していないという不健全さがあることは事実でした。しかし、それは自由経済のひとつの状態に過ぎず、時間が経てば自然に落ち着いていくものですし、政策で少しずつ終息させる方法もあります。

第一、バブルで困った日本人がどの程度いたかというと、それも疑問です。もともと自分の家を持っていた人は、土地の値段が上がって万々歳でし。地価が上がって、一般庶民が自分のマイホームを持つのが難しくなったと言われていますが、だからといって、巷にホームレスが溢れたわけでもありません。むしろバブル以前より減ったのではないでしょうか。そもそも、一般庶民の手が届かないくらい土地の値段が上がってしまったら買う人が少なくなり、そうなれば、需要と供給の関係で、妥当な価格まで下がるはずです。それが市場原理です。

バブル経済はなぜ発生したか

この未曾有の好景気はどのようにして発生したのでしょうか。

高度経済成長後の1980年代初頭、オイル危機を省エネで乗り切った日本製の工業製品は、世界を席巻していました。そこで焦った欧米先進国は、1985年(昭和60年)、「プラザ合意」を日本に押し付けます。これは円高ドル安を誘引し、日本製品の勢いを抑えようというものでした。

円高で日本製品が高くなれば、輸出で富を得ている日本は不況に陥るというわけです。実際、その1年後には、円が二倍近くに跳ね上がり、一時日本は円高不況にもなりました。そこで日銀は、対策として、一般の銀行に貸すお金にかける利子(公定歩合)を下げます。そうすれば銀行は企業にお金を貸しやすくなり、企業が不況を凌(しの)げるからです。

しかし、ここから、日本経済は欧米先進国の思惑とは違う方向に流れていきます。日本は省エネ産業を発明し、不況をたちまち克服しました。貿易収支は黒字。しかも円高。金利は低いまま。

資金が余ると、物価が上がってインフレになるはずなのですが、円高ドル安政策の”効き目”で海外から安い製品が大量に入っていたため、そうなりませんでした。こうして「お金が余る」という状態が続き、そのお金が土地や株に流れ始めたのです。

買う人が増えれば、需要と供給の関係で地下も株価も跳ね上がります。こうしてバブル経済が始まったのです。

平成元年(1989年)バブル崩壊

またもや社会主義思想が日本をおかしくした

私有財産敵視がバブル崩壊の大要因

バブル後の不況を捉えて、浮かれているからほら見たことか、という風潮がありますが、これもとんでもない誤解です。浮かれた国民が、この不況を招いたわけではありません。

じつは、私有財産敵視の社会主義思想をひきずっていた旧大蔵官僚たちが、バブルを悪だと決めつけたのが崩壊の一因かもしれません。

『土地を上手に活用して利益を得る人とそうでない人がいるのは”不公平”である。』こう考えた旧大蔵省は、不動産取引の総量規制などの法律によって一気にバブル潰しにかかりました。そして、これこそが長く続いた平成不況の元凶だったのではないでしょうか。総量規制とは、平たく言えば不動産会社に対する融資を銀行に禁じる通達です。法律でないため議会での議論もなく、抜き打ちで対策の時間もありませんでした。

これまで不動産会社は、銀行から借りたお金で土地を買い、それをほかの不動産会社や個人に売ることで利益を得ていました。バブルの頃は、土地の値段がいくら上がっても銀行が資金を提供してくれました。しかしその資金が出ないとなれば、今までのように購入も出来ないし、不動産の所有側も売れる値段まで下げざるを得ません。こうしたことが至るところで起きたために、日本全国の土地の値段がたった二ヶ月で3割も下がってしまったのです。日本は、GATT体制の下で蓄積した1千兆円もの富を、たちまち蕩尽(とうじん)してしまったのです。

戦後西ドイツと戦後日本の相違点

戦後、西ドイツでは国家社会主義に対する反省から自由主義的な政策が次々と行われ、奇跡的な復興を遂げました。日本も一旦は高度経済成長を遂げたのに、なぜ社会主義的な旧大蔵省の体質が温存されてしまったのでしょうか。それはGHQの一連の占領政策が、私有財産を攻撃する左翼的なものだったとみられます。

GHQの占領政策として、農地改革や財閥解体などの社会主義的な政策が行われたのは、当時のGHQ内に社会主義者が多かったからでしょう。アメリカ本国ではそうした政策を実践できないという欲求不安に陥っていた彼らは、日本を社会主義政策の実験場にしたのかもしれません。

しかも、それに「民主化」という衣をつけ、あたかも私有財産を攻撃することが正義であるかのうように霞が関に植え付けたのですから、一層たちが悪いわけです。

社会主義的な発想は、最近では「平等主義」という人当たりのいい衣をかぶせてありますが、これこを、日本人の活力を削ぐ元凶です。1930年代から日本をおかしくしたもの、やはり社会主義思想でした。バブル崩壊は、その二番目の証明となってしまったのです。

平成2年(1990年)湾岸戦争

「カネは出しても人は出さない」日本が得た、深刻な教訓

自衛隊は”本土決戦部隊”

中東の遠い国で起きている戦争、それをテレビで、まるで映画でも観るようにして眺めていた日本人。湾岸戦争と日本人との関わりは、その程度のものとしてしか認識されていませんでした。

この戦争では、日本は戦ってもいませんが、実は申告は打撃を受けてもいたのです。

1990年(平成2年)8月、イラクが突然、クウェートに侵攻しました。これに反発した国々は、米国を中心に多国籍軍を組織し、イラクに撤退を求めます。しかし、イラクが拒否したため、翌年1月24日、国連安全保障理事会の承認のもとイラクに空爆を開始し、わずか4日で敗走させました。この戦争で日本が果たした役割は、スポンサーでした。国民一人当たりに換算すると、1万円以上もの膨大な資金援助をしたのです。同時に、日本は自衛隊を送りませんでした。そのため、「カネは出しても人は出さない」と世界の不評を買ったことも事実です。

日本が派兵しなかったのは、「戦争を永久に放棄する」と定める日本国憲法が、海外では戦ってはいけないという制限を、日本の軍隊に課しているからです。日本の自衛隊は、海外では戦えない、”本土決戦部隊”であることを再認識させられました。

”金持ち”の論理は通用しない

戦争において、人的支援は何ものにも優る力があります。

湾岸戦争で百億ドル以上もの大金を出した日本が、アメリカやクウェートに戦争終結後の公式の場で感謝されたことは一度もありません。感謝されないことに対する日本人の間にくすぶる不満を和らげるためか、ブッシュ大統領(ジョージ・W・ブッシュの父)は、やむなく訪日しましたが、あくまでアジア諸国歴訪の一環という体裁を崩しませんでした。資金援助は助かったが、頑として人を出さなかった日本に対する複雑な思いを抱いていたことでしょう。

また、クウェート首相の謝辞でも、日本は言及されませんでした。日本人とて忸怩(じくじ)たる思いではありましたが、国際的な信義からみれば、日本の行動は”義を見て何もせざるは勇なきなり”、”力なき正義は無力なり”、としか映らなかったのでしょう。

湾岸戦争は、国連も承認した戦争でした。湾岸戦争は、日本に大きな教訓を残しました。

平成3年(1991年)ソ連瓦解

私有財産敵視の社会主義国がたどった末路

万民平等主義の矛盾

1991年、前々年のベルリンの壁崩壊に続いて東ドイツの盟主であったソ連が瓦解し、東西の冷戦が終結します。ソ連からの脅威が消え去り、ついに日本を戦争に駆り立てた国際的な背景がすべてなくなりました。

じつのところ、ソ連は世界で一番裕福な国になってもおかしくありませんでした。金の産出量は世界一、石油の埋蔵量もアラブ諸国を超えるほどであり、世界有数の大穀倉地帯であるウクライナを領内に持っているため食糧生産も安定しています。それに加え、無限大に広がる森林、広大な国土もあるとくれば、対抗できる国はアメリカくらいしかありません。日本からすれば、羨ましいほど豊富な天然資源に恵まれた国だったからです。

そのソ連がわずか70年であっけなく崩壊してしまったのは、やはり私有財産敵視の社会主義思想だったからにほかならないのではないでしょうか。

社会主義国においては、自らの能力で稼いだものでもお金は悪です。事業性成功して私財を作ることは一切許されません。工場、鉄道、鉱山などは国有であり、農地はソホーズ、コルホーズとなります。

しかし、社会を回しているのは、ほかでもない、裕福な資産家です。資産家がいるからこそ、社会全体が潤うのです。金持ちは産業を創造し人を雇います。服装に気を配り、最新のファッションや文化に惜しみなくお金を注ぎます。こうしたことを通じて世の中にお金を回し、また文化を育て、生活を向上させてくれるのが資産家なのです。この私有財産を否定したのが、ソ連という国でした。

アジアの繁栄がソ連瓦解を導いた

社会主義体制はこうして国を頽廃(たいはい)させるものですが、ソ連崩壊にはもう一つの呼び水がありました。

オイルショックを乗り切った日本がアジア全体にその技術力を伝授したことが”ASEANショック”なとり、ソ連・東欧圏を襲ったのです。次々と新製品を生む日本のスピードに完全に遅れを取り、自分たちでコピー製品をつくることができなかったソ連・東欧圏には、日本製品が次々と入っていきました。

日露戦争に勝った日本に一目置いていた彼らは、ここまでは事実を甘んじて受け容れましt。しかし、ほかのアジア諸国からも同じようなハイテク製品が入ってくるようになると、心穏やかではいられなくなりました。

つい最近まで、列強の植民地であった国も発展成長していくさまに、ソ連国民は自国の体制に疑問を抱くようになっていきました。それが爆発したのがベルリンの壁崩壊であり、ソ連瓦解だったのです。

平成14年(2002年)日朝首脳会談

北朝鮮拉致被害者の帰国。戦後日本と北朝鮮関係を変えた歴史的成果

力なき小泉首相の大きな成果

2002年9月17日、小泉純一郎首相は、日本の総理大臣として初めて北朝鮮を訪れ、金正日(きんじょんいる)総書記との会談を果たしました。その席で、金総書記は北朝鮮による日本人拉致の事実を認めました。そして同年10月15日、ついに拉致被害者5人の帰国がかないました。

このことは大きな歴史的成果ですが、もう一つそれにまさる大きな成果もありました。それは、これまで朝鮮総連の圧力に屈してきたとしか思えない一部マスコミの論調が一変したことです。「北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)」などというまわりっくどい呼称を、ついに「北朝鮮」としたこ一つとっても、その意味は大きいと言えましょう。

この歴史的一歩と、それを成し遂げた小泉内閣の関わりは、一見偶然のようですが、ここには日本の近代史にまれに見る必然があったという指摘があります。それまでの小泉首相のマイナス要素は、大きな派閥に属することもなく、自ら子分を抱えることもありませんでした。これは、数とカネがそのまま力とされる政治の世界においては大きな不安要素です。しかし逆に言えば、取り巻きがいない小泉首相は、カネを生み出すための余計な交際をする必要がありません。つまり、朝鮮総連や特定の団体とのしがらみがなかった、ということです。拉致被害者の帰国は、コネやしがらみのない小泉首相だからこそ出来た離れ業だったと言うのです。

6カ国協議のカギを握っている中国そして

拉致問題をさらに追及すべく、政府は、日・朝、韓・米・中・ロの6カ国協議に臨みましたが、毎回もの別れに終わっています。

その原因は、もちろん中国にあります。というのも、朝鮮戦争以来、中国と北朝鮮は軍事同盟関係にあり、協議が核心に迫ると、中国が抑止力となってしまうからです。ただし、アメリカとの対決を避けない中国には、北朝鮮は目障りな存在だという本音もあるでしょう。

その意味で、今後の6カ国協議、ひいては拉致問題の行方は、中国そしてアメリカにかかっています。

平成15年(2003年)イラク戦争

冷戦後の日本の生き筋がわかる

湾岸戦争の教訓が生きた日本の対応

中東問題ではよく日本のアメリカ追随が問題になります。では、日本の生き筋はどこにあるのでしょうか。

戦闘終結宣言後、最大の焦点となった大量破壊兵器、実験の形跡が見つかった生物・化学兵器、そして、湾岸戦争終結時の条約の不履行…。これらの”大義”は、一応は筋が通っていましたが、アメリカがイラク戦争に踏み切った一番の理由は、やはり石油でしょう。

と言っても、石油そのものではありません。石油を取り引きする際の通貨が問題でした。これまで、石油はドルで取り引きされており、基軸通貨をもつアメリカは膨大な権益を得ていました。ところが、2000年11月、イラクは石油取引をユーロ決済に変更することを求めます。これにほかの中東諸国が続くことをはアメリカは恐れました。そうなれば、アメリカの利権が根本から揺らぎ、アメリカ経済は必ずや危機に陥るからです。また、仏・独も結束した反発心をあらわにしました。言うまでもなく、ユーロ決済で利益を得るのは彼らだからです。

しかし、日本は真っ先にアメリカ支持を表明し、自衛隊派遣も決定します。小泉政権は、湾岸戦争の教訓を生かしたのです。実際、日本に対するブッシュ大統領の信頼感は格段に高まりました。英・独・仏の三国を足したくらいのGNPを誇る日本、しかもアジアの大国日本の協力は、アメリカにとって何よりも心強いことです。その外交的収穫は巨大でした。拉致問題でも共同歩調をとると言ってくれているのはアメリカだけですし、尖閣(せんかく)諸島も日本領で日米安保の対象となると言明してくれているのは、このときの小泉外交の成果でしょう。

平成15年(2003年)6カ国協議

核保有の論議を始めるだけで最弱の日本の立場を強くできる

6カ国協議はなぜ始まったか

6カ国協議という場が生まれた発端は、明らかに、北朝鮮が核兵器を開発したことにあります。北朝鮮にそうした動きがあることを察知した周辺先進国は、核開発をしなければ重油を供給するという約束をしましたが、北朝鮮は開発を進めていきました。

開発が進んでいるという事実を放っておくわけにはいきません。そこで、日本、アメリカ、ロシア、中国、韓国に当事国の北朝鮮を加えた6カ国で協議し、解決の道を探ることになったわけです。韓国と北朝鮮以外の4カ国は、いずれも超大国です。つまり、これらの超大国が、核開発問題一つできりきり舞いさせられていることになります。

北朝鮮のような小国が、超大国を翻弄しているという事実は、ほかでもない、核というものがいかに政治的に大きな意味を持っているかという現実を如実に示しています。

日本の立場が一番弱い

これら6カ国の立場には、大なり小なり ずれがあります。当事国の北朝鮮は別として、韓国は本来同民族の国だから、心情的に強く非難できないでしょう。アメリカ、ロシア、中国は、すでの大量の核兵器を持っていますから、正直、北朝鮮の核ぐらいでは驚くこともありません。とくに中国は地上戦も、海からの攻撃もできるため、北朝鮮など敵という名にも値しないと考えているでしょう。

そうなると、核を持っていないこと、多くの国民が拉致されていること、テポドンやミサイルに狙われていることなど、日本がとりわけ特殊な立場に立たされていることが分かります。しかも、6カ国協議が成立して、援助が決まれば、日本の援助額は格段に多く課せられるに違いありません。

一番弱い日本の立場を強くするには、「核を持てる国」と「持たざる国」との違いを冷静に受け止め、戦略的な情報戦を行う必要があるでしょう。

平成17年(2005年)郵政民営化

圧倒的に支持された小泉首相の郵政改革 だが・・・

官僚支配打破の手段として進められた郵政民営化

郵政民営化は、小泉純一郎氏が若手議員だったころから、唱えておられた行政改革の一つだそうです。財政投融資があるかぎり、絶対に官僚支配をなくすことが出来ないという主張でした。郵便貯金を使うのは官僚であって、議会の承認を得る必要もありません。旧大蔵省の官僚たちは、公団や公社を好き勝手に作り、そこを天下り先として確保しているというものでした。その阻止のため、何百もの天下りポストを作り権利を取り上げる必要があるという小泉議員の主張には、周囲は”正義”や”公平”を感じたはずです。

加えて、全逓、全郵政といった労働組合のそれは、かつての国労・動労を有する国鉄の行き過ぎた労働運動と、そこから来るサービスの質の低下を想起させ、民営化すれば合理化がすすみ、サービスが向上し、スマートな郵便へと生まれ変わるであろうとの、期待も大きくなりました。

竹中平蔵氏のような、経済界からの後押しもあり、郵政民営化は、国民の圧倒的な支持を得て決行されたのです。

ほころびが見えてきた郵政民営化

小泉首相がすすめた郵政民営化を始めとする、各種の規制緩和は、結果として一部の企業や資産家だけを潤わせ、代わりに国民全体の所得は半減。デフレからは脱却できず、貧富の格差は広がる一方との結果をもたらしました。

平成の終わり、日本は国民総貧困化に歯止めがかかりません。もちろん、郵便事業のサービスの質も向上どころか、逆に低下しました。

令和元年(2019年)には、かんぽ生命の不適切販売問題も発覚し、郵政事業全体に深刻な影響をもたらしています。

出口が見えないこの状況に対して、結局は、自己の利益追求のために規制緩和を推し進めてきた当事者たちは、まったく責任を感じていないのか、今なお、次の利益を求めて、政府や官僚を使って各種の『ビジネス』を断行しているという指摘があります。

平成19年(2007年)温家宝訪日

中国三番手の訪日は、日本軽視を示す

温家宝の訪日が意味するもの

安倍首相が中国・韓国を訪問した後、中国から温家宝(おんかほう)氏が訪日しました。これは首相が訪中したことへの答礼です。

しかし、日本の政権トップが訪問した答礼は、ナンバースリーの人物の訪日だったということに、中国側の思惑を汲み取るべきでしょう。本来ならが胡錦濤(こきんとう)氏が来てしかるべきはずです。

言うまでもなく、これは中国が日本を軽視していることを意味しています。かつて、蒋介石も、周恩来も毛沢東も鄧小平も、日本を敵視したことはあれ、軽視したことはありませんでした。

どうしてこのような事態になったのでしょうか。それは、宮澤内閣のときに遡(さかのぼ)ります。天安門事件で孤立した中国(江沢民政権)は、解決策として天皇陛下の訪問を打診してきました。宮澤内閣は、天皇皇后両陛下が訪中することで、今までのぎくしゃくした関係が清算されるならばと、その申し出を受諾しました。しかし、中国には、他の国よりも根強い「中華思想」があります。つまり、近隣国家が訪問してくれば、それを「朝貢(ちょうこう)」とみなす思想が根付いている特殊な国家なのです。サルが相手が自分の方が優位であることを示すため相手サルの上に乗る”マウンティング”のようなものでしょう。

聖徳太子以来の対等の関係を放棄した政権の罪は大きい

幕末の儒学者であり歴史家でもあった頼山陽(らいさんよう)に、『日本楽府(にほんがふ)』という著書があります。これは、日本歴史の中の重要な事柄を六十六選んで詩にしたものです。その第一に取り上げられているのは、聖徳太子が中国、当時の隋に遣わした国書です。聖徳太子が国使を遣わしたのは607年の出来ごとです。「日出ズル處の天子、書ヲ日没スル處ノ天子ニ致ス、恙(つつが)ナキヤ」という国書に、隋の煬帝(ようだい)は激怒したといいますが、日本に答礼を遣わしています。朝鮮半島の高句麗(こうくり)を牽制(けんせい)するために日本の協力が必要だったという説もありますが、聖徳太子は対等外交に成功したのです。

しかも、頼山陽が六十六番目に取り上げたのが、秀吉が「汝を任じて日本国王となす」という明の朝廷の無礼は手紙を破り捨てたという事実です。つまり、聖徳太子も秀吉も、そして彼らを取り上げた頼山陽も、中国に対して朝貢などという意識は皆無だったということです。

彼らの、この高い見識を破ってしまったのが、天皇皇后両陛下の訪中を実施した、ときの政府です。その責任は、とても重いと言えます。

このあと、温家宝が面と向かって、天皇を北京五輪へ招聘したのも、日本の皇室を軽視した証拠と言えましょう。そのことに憤るどころか、気づくことすらないくらい、私たち日本人は、自国の歴史や伝統に対する尊崇の年を失ってしまったのです。

平成19年(2007年)安倍首相退陣

政治家の条件を一つ欠いたプリンスの悲劇

安倍首相のインド訪問は自虐史観からの脱却宣言

着々と年来の政治課題をクリアしてきた安倍政権も、年金記録問題や閣僚の不祥事が相次ぎ、2007年の参院選で記録的な大敗を喫しました。退陣を迫る声の中で続投を宣言した安倍首相でしたが、それから1ヶ月半で突然の辞意を表明します。

安倍首相は、退陣表明直前にインドを訪問し、チャンドラー・ボースとパール判事の遺族を訪ねました。これは歴史的に大きな意味を持ちます。日本の戦後を支配した東京裁判史観との決別宣言だからです。チャンドラ・ボースは、インド独立軍を率いて、日本軍のインパール作戦に参加しました。戦後、イギリスはインドに独立戦争はなかったかのように喧伝していますが、じつはチャンドラ・ボースはインドの独立の父として認められています。

その独立を後押しした日本軍の指導者・東条英機は、インド人にとって独立の恩人であり、今でも「東条大将の会」があるくらいです。安倍首相の祖父は、その東條内閣の商工大臣だったという深い縁がありました。

そしてパール判事は、言うまでもなく、東京裁判で全員無罪を主張した判事です。彼は、東京裁判で有罪の証拠とされた共同謀議を否定し、人道に対する罪にしても、むしろ原爆を落とした側にこそ、ナチスのユダヤ人虐殺に匹敵する罪があると主張しました。

その後もパール判事は、「東京裁判は、原爆よりも長い間 日本人に害をなすであろう」と語っています。つまり、安倍首相のインド訪問は、そうした東京裁判史観、自虐史観からの脱却を目指したものでったのです

政治家に必要な三資質を備えたリーダーの不在

政治家に必要な資質とは、第一に先を見通す頭の良さ、第二に人の心情を思いやるハート、そして第三に体力です。

安倍首相は頭の良さとハートは持っておられました。選挙の票につながらない集団自衛権の審議を急いだのも、日米関係を重視し、中米の異常接近を防ぐという「先見の明」からでしたし、拉致問題でわかるような国民の心情を理解するハートの持ち主でもありました。しかし、英語で言うガッツに恵まれませんでした。ガッツは腸を意味するそうですが、事実インド訪問で腸をこわし、体力を失いました。体力のなさが精神にも大きな影響を及ぼして、この難局を乗り切る役割を断念せざるを得なかったのでしょう。

平成21年(2009年)民主党による政権奪取

途方も無い国辱敵損失を垂れ流した三年間

鳩山市の出自に騙(だま)され、異常さに振り回された国民

第一安倍内閣は、戦後の進歩的文化人など、左翼的な考え方をする人々に大きなショックを与えました。なぜならば、安倍氏が言う「戦後レジュームの終焉」は、敗戦体制で利益を得た人々の終焉を意味したからです。彼らは、安倍政権を倒す為にあらゆる手段を講じました。

その結果、マスコミに操作された国民は民主党政権を誕生させてしまいました。同時に大きな影響を与えたのは、党首・鳩山由紀夫氏が財閥系出身だったこと。これが国民の警戒心を緩めてしまったのかもしれません。

しかし、首相になった鳩山市は、途方もないことを言い出しました。

①「日本列島は日本人だけのものではない」…国家というものは、国土と国民の二つがなければ成立しないことすらご存知ありませんでした。

②「東シナ海は友愛の海である」…これでは日本固有の領土・領海を、どこの国が領有しても構わないことになってしまいます。

③「普天間基地の移転先は最低でも県外」…沖縄は地政学的にも明らかな大陸に対する抑えの要地です。それは沖縄も納得していた事実でしたから、この鳩山発言がなければ、基地移転はとうに終わっていたのではないでしょうか。

政界を引退してからも、沖縄は中国から奪ったものだなどと、国益無視の発言を繰り返す人物によって政権奪取が行われたことに、民主党政権三年間の国家的悲劇がありました。アメリカの有力紙から「ルーピー」(loop=輪。loopy=くるくる回る輪のような頭のおかしな人)と、最大限の侮辱を込めて呼ばれた鳩山氏を、日本の首相にしてしまったことは、痛恨の極みです。

文句だけの四列目の男・菅直人氏にも首相は到底無理だった

いくらなんでも鳩山氏に首相は無理となり、次に選ばれたのが菅直人氏でした。しかし菅直人氏も2つの点で首相になれる器ではなかったのです。

1つ目は「四列目の男」という異名を取っていたことです。これは、市民運動につきもののデモのとき、警察に”ごぼう抜き”されない列、四列目あたりに陣取っていたことからついたあだ名だそうです。おそらく、自分は安全なところからアジ演説をしていただけだったのでしょう。

もう一つは、まさにその市民運動家だったということです。市民運動とは、権力に対して反発・反対する運動でもあります。だから、菅直人氏は、文句を言われる立場に立った経験が乏しいのです。そういう人間が首相になったことで、次々に悲劇が起こります。

その一つが東日本大震災です。慌てふためいて怒鳴りまくる、緊急作業の邪魔にしかならないような現場視察を行って顰蹙(ひんしゅく)を買う。無闇に審議会を作っては組織を複雑化し、結果の出せないような政府や内閣にしてしまう。官僚をうまく使うことを知らなかったのでしょう。

また、知識のないまま日本中の原発を止めさせました。実際の放射能の影響を調べることもせず、イデオロギー優先で集団移転を強いて国内外の不安感を煽りました。本来ならば、復興のために政府が思い切った財政出動をすべきなのに、復興税という新たな税制度を作り、被災者からも容赦なく税金をとり、国民の生活を一層苦しいものとしました。

そうした愚かな政策のつけは、令和の時代になってもなお続いています。

平成22年(2010年)尖閣問題

二つの稚拙な対応が、尖閣列島を危うくした

中国をつけあがらせた日本政府の隠蔽工作

2009年からの民主党政権3年間の国家的悲劇の最大のものは、日本の国際的立場が急激に厳しいものになっていったことでしょう。中国漁船衝突事件は、その典型的な例でした。

これは、尖閣列島付近の海域をパトロールしていた日本の巡視船が、中国籍の不審船を発見、退去を命じたにも関わらず、それを無視して操業を続け、逃走するときに衝突して巡視船を破損させた事件です。非は明らかに中国船側にありました。

しかし、中国からの不当な抗議を受けた政府は、一切を不問に付そうとし、沖縄の検察に圧力をかけて、逮捕した船長を無罪に近い形で釈放しました。それが中国をつけあがらせ、さらに日本を軽視する要因にもなりました。

もしあとのき、勇気ある巡視船の乗組員・一色正春氏が映像を公開しなかったなら、国民は何も知らされないままだったことは明らかです。

にも関わらず、政府は、守秘義務に反したとして、一色正春氏を懲戒免職にしました。国民の側から言わせれば、事件の真相を世界に明らかにしてくれた一色正春氏こと、賞賛されるべき日本人であるはずです。

そもそも、尖閣列島は、日本が慎重に調査を重ねて、その結果、清国が所有したことのない無人島だということを確認した上で、日本の領土にしています。何の問題にもんされないまま百年以上経過してきました。中国が領有権を主張し始めたのは、その近海に海底資源がある可能性が出てきてからのことです。

尖閣は都が買っていれば文句のつけようがなかった

尖閣列島は個人の所有だから、どこに売ろうと所有主の自由でした。そこで、当時の東京都知事・石原慎太郎氏は、尖閣を東京都が買うと言い出しました。

中国漁船衝突事件に関して「中国の理不尽は、やくざがやっていることと同じ」と延べ、「パンダをもらって尖閣をやるのか」と政府を避難していた石原氏は、中国が尖閣を買って所有者になることを阻止しようとしたのです。日本領だと主張している日本の立場が弱くなるからです。これに賛同する多くの国民からも買収費用の寄付金が寄せられました。

ところが何を慌てたのか、野田内閣は、お金を積んで奪うように尖閣を国有化してしまいました。これはあまりにも稚拙な対応でした。

なぜならば、都が買うのであれば、所有者が個人から地方自治体に変わるだけの普通の取り引きで済んだからです。国が買ったとなれば角が立ちます。尖閣に対する中国の主張はより強烈になり、寄付をして都の買取に協力した国民の努力は水疱に帰してしまいした。

しかし、尖閣に資源があると見て領有権を主張している中国は、それによって、本国の資源が乏しいことを露呈したとも言えます。その後のAIIB(アジアインフラ銀行)の意図は、世界から集めた資金で資源を開発することにあるのでしょう。

尖閣諸島のみならず、東南アジアの各地で、中国は強引な領土侵奪を続けています。

平成23年(2011年)東日本大震災

間違いだらけの放射能悪玉説が純粋な災害復興を遅らせてしまった

原発に対する過度な問題視

東日本大震災が、特殊な災害として認識されたのは、福島の原発問題が大きく報道され、前代未聞の出来事ととされたからです。

震災後、時間とともに、放射能の危険性や人体に与える影響への心配もトーンダウンしてきました。福島の非難地域の植物や、置き去りにされ野生化した動物たちが元気に跳ね回っている現実を見て、煽り過ぎず、実態調査が進めらたうえで、最適な復興をしようという機運が高まってきたようです。

世界が感激した日本人の道徳感覚

あれだけの大きな被害を蒙ったにも関わらず、略奪も強奪もない日本の被災者の姿は、世界を驚かせ、感動を与えました。

救助に向かったアメリカ人は、一人の被災者を助け出そうとしたとき、相手の言葉に驚いたといいます。なんと「この奥でもっと苦しんでいる人がいる。そちらを先に…」と言ったそうなのです。

ときの政府のお粗末さに比べ、民主レベルにおける道徳水準は、世界で類がないほど高いものでした。これは幕末から明治のはじめに来日した外国人も等しく報告していることです。カギのかからない宿屋に止まったことがあるアメリカ人が、財布を机の上に置いたまま2、3日外出してみたが、財布は無事だったといいます。そのアメリカ人は、正直者と言われている日本人を試そうとした自分をひどく恥じたといいます。

日本では、忘れ物が持ち主にちゃんと届けられ、届けた人はその御礼も受け取らなかったという話は、枚挙にいとまがありません。これは経済力や技術力以前に、日本人が世界に胸を張って誇れる美徳といいのではないでしょうか。

平成24年(2012年)自民党による政権奪回

第二次安倍政権発足により ようやく夜明けが見えてきた

民主党政権の闇を断ち切る期待を背負って誕生した第二次安倍政権

日本の政権が民主党に渡ったときのことを、「暁の前にはもっとも暗くなるときがある」と語られることがあります。

確かに、第二次安倍政権の発足により、日本は暁を迎えたと感じた人も少なくないようです。第一次安倍政権崩壊時の失敗に学び、気負うことなく賢い政治運営をしてくれるであろうという、国民の大きな期待の中、第二次安倍内閣がスタートしました。

竜頭蛇尾になりそうな第二次安倍政権

第ニ次安倍政権は、第一次内閣のときのような気負いもなく、スマートな政権運営を行いました。そして、民主党政権時に孤立化してしまっていた国際関係をみごとに修復しました。経済政策も功を奏し、株価も、企業収益も上り調子となりました。このままいけば、かつて目標とした「美しい国 日本」が実現できるのではないか、という期待も高まりました。

しかし、取り巻きに問題があるのか、財務省などの官僚が悪いのか、「プライマリーバランス黒字化」「グローバル経済の推進」といった、世界的には周回遅れのような政策から抜け出せず、「外国人労働力の受け入れ」「消費税増税」「観光立国」「種子法の廃止」「水道法の改正」といった、外国籍企業や外国人投資家をはじめとする一部の資産家にばかり利益が集中し、結果として国民は貧困化し、デフレ脱却の出口が見えないという、『経世済民』とは程遠い政権運用へと傾いてしまいました。

このままでは、「もっとも国民を貧困化させた首相」として名を残すことにもなりかねません。思い切った転換が望まれます。

平成25年(2013年)TPPからAIIBへ

グローバル化という経済の罠が日本に襲いかかる

移民などのグローバル化の先に中国の脅威

平成24年(2012年)、平成26年(2014年)日本人のノーベル賞

相次ぐ日本人の受賞が示す二つの大きな教訓

学術研究が日本語でできる意味

人種差別をはね返した日本の学術研究の底力

平成25年(2013年)日韓関係悪化

期待を裏切った朴槿恵 韓国とは淡々と冷めきったつきあいを

日本のおかげで経済復興を果たした父を裏切る娘

2013年に朴槿恵(ぱくくね)大統領が就任したとき、彼女が あの朴正煕(ぱくじょんひ)元大統領の娘であることに、多くの日本人は期待をしたはずです。

朴正煕は、日本による併合以前だったら学校に行けない、貧しい家の生まれでした。しかし併合後の教育改革のおかげで教育を受けられ、彼の能力を認めた日本人教師の推薦で師範学校、さらには満州の軍官学校に進み、日本の士官学校を出て将校になったのです。

日本の敗戦後、李承晩(いすんまん)による反日教育と朝鮮戦争などで母国が荒廃する中、日本と手を組むしかないとクーデターを起こしたのが、ほかでもない朴正煕でした。日韓基本条約を結び、復興著しい日本の経済・技術など、あらゆる協力を得て、「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長を果たしました。

その間、十数年にわたる条約交渉をしましたが、一度も慰安婦の話など出たことがはありませんでした。彼は機密にも強い軍人でしたので、もし日本軍による強制連行などがあれば知らないはずがありません。しかも二十万もの韓国女性が強制連行されれば、大騒動が起こるはずです。しかし当時の韓国は静かでした。だから朴正煕も問題にしなかったのでしょう。

その父の娘だからと期待されたのですが、現実は逆でした。反日でなければ政権がもたないという国内事情があるとはいえ、それを煽るような政権になってしまったのは、父のためにも惜しむべきと思われます。

翌2014年、日本では朝日新聞が「従軍慰安婦」についての虚報を認め、謝罪会見をしました。しかし朴槿恵大統領は態度を改めませんでした。その後も第三国に出向いては日本のことを悪し様に言う「告げ口外交」を繰り返し、結局は、国際的な信用を失い、また政治力のなさから失脚することになるのです。

悪化の一途をたどる日韓関係

こうした日韓関係の悪化はその後も続き、令和の時代となり、反日一辺倒で人気稼ぎをしようとする文在寅(ムン・ジェイン)大統領に至っては、過去最悪の状態を更新し続けています。

そのほとんどが、韓国側からの、史実や事実に基づかない一方的な攻撃です。しかし、悲しいことに、その原因やきっかけを作ってきたのは、ほかならぬ日本人です。NHKや朝日新聞などのマスコミは、反日を煽るかのような内容の偏向報道をし、一部政治家や左翼系の団体は「自分だけはいい人」とでも言いたいのか稚拙な謝罪・お詫び外交を行いました。そこに共通しているのは、戦後の自虐的・反日的思想であることは言うまでもありません。

従来は、GHQから押し付けられた情報を巧みに使ってのプロパガンダが横行してきたわけですが、戦後70年余が流れ、アメリカの公文書開示も進み、それに対する史実の研究や確認が出来るようになってきました。加えて、インターネットが普及し、マスコミ報道以外の情報を容易に入手できるようになりました。

こうした現実が、少しずつ日本人の目を開かせてくれるようになってきました。喜ばしいことです。今後は、情報戦に負けない、賢い外交が望まれます。

平成26年(2014年)集団的自衛権

戦争をしないためにこそ必要な自衛のための軍事力

2014年7月1日、集団的自衛権の行使を容認する閣議決定がなされました。「主権国として有する固有の自衛権」を最高裁が認めたのは、すで半世紀も前のことです。そこから見ても、この閣議決定までなんと長かったことでしょう。

令和元年(2019年)御代替わり

平成時代の総括は政治と経済の大きな大きな損失

世代交代による日本復興のはじまり

こうして、昭和が終わり、平成も終え、令和の時代が始まりした。

世界的には、アメリカでは「America First」を掲げるトランプ大統領の誕生。また、イギリスのEU離脱、核をもった北朝鮮と大国アメリカとの米朝会談、激化する一方の米中貿易戦争などが次々と起こっています。

これらの問題には、グローバル経済の欺瞞と破綻、深刻な移民・難民問題、そして貧富の格差の拡がりなど、共通して見られる内容もあります。

わが日本も、平成31年間の謝罪外交とグローバル経済の推進、移民の受け入れや、無計画な規制緩和による格差の拡がりなどで、長いデフレから脱却できずにいます。

令和の時代、これまでのように偏光報道やイデオロギーからくるプロパガンダに影響を受けることなく、粛々と、事実、史実に基づく歴史・伝統・文化を学び、過去においても、そして未来においても、誇りある日本として発展していって欲しいものです。

 

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